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第9話

 私に数学を教えてくださるお父様をじっと見る。お父様はそんな私を見て「どうしたの?」と首を傾げた。私は無言で首を横に振る。

 お父様がこの部屋にいらしてから、もうすぐ一週間。初めは弱々しくしか笑えていなかったお父様は、以前のように微笑むことができるようになったと思う。

 結月に小突かれて、私は計算式に目を落とした。

 数学は好き、だと思う。必ず答えが出るし、パズルみたいで楽しい。お父様の歴史のお話も好きだ。人の名前を覚えるのは少しばかり苦手だけれど、今までに何が起こったのかを聞くのは面白い。本を読むのも好き。知らないことを知るのは楽しい。

 でも……国語の勉強は苦手だ。行動と感情を結びつけるのが、難しい。どうして嬉しいのに泣くの。どうして悲しいのに笑うの。どうして一緒にいるだけで楽しいの。どうして人が辛いと自分も辛くなるの。全然、わからない。

 結月は大事なことだからちゃんとできるようになっておいた方がいいと言うけれど、お父様は私ならきっとこのままでも大丈夫だろうと笑う。

 最初は結月があれこれ説明してくれたけれど、やっぱり全然わからなくて、だんだん結月も色々と言わなくなった。結局、そのままでいい、と。問題が出て間違ったときに答えは教えてくれるけど、わかるまでとことんというのはなくなった。


 適当な数式を指差せば、お父様が帳面を覗き込む。それに合わせてお父様の髪が揺れた。

 ここ数日、少しだけ気になっていることがある。お父様の髪、それから目の色。もっと明るい緑色だったと思うのだけれど……でも、結月も何も言わないし、髪の色がそう変わるとも思えないし、気のせいなのかもしれない。

 お父様の解説を聞き流しながらその髪を眺めていると、再び結月に小突かれた。


「ちゃんと聞け」


 お父様も苦笑いを浮かべている。……どうやら、聞いていないことがまるわかりだったらしい。


「疲れちゃったかな?今日はもう終わりにしようか」

「鹿埜様、甘やかさないでください」

「僕も疲れちゃったし、結月君、駄目かな?」

「……わかりました」

「ふふ、じゃあおしまい!」


 お父様は帳面をパタンと音をたてて閉じ、片付けてしまった。結月は少しばかり唇を尖らせていたけれど、私のことをしばらく見て深く息を吐いた。お父様はニコニコと笑っている。

 立ち上がり、お茶を淹れようとしたお父様を結月が慌てて止める。結月がお茶を淹れるのを見て、今度はお父様が唇を尖らせた。結月はあまり、お父様に色々やらせたがらない。何でだろう?

 私はソファーに移動して、お父様を見ながら自分の横をポンポンと叩く。それに気付いたお父様は初めは首を傾げていたけれど、笑ってこちらに来てくれた。お父様が隣に腰を下ろせば、ソファーが微かに揺れる。

 結月は淹れたお茶を机に並べ、こちらを見た。私はお父様が座った方と逆隣を叩く。結月は首を横に振った。そして、そのまま腰を下し、近くにあった本を取ってしまった。こちらに向く様子もない。

 お父様が私の頭を撫で、一冊の絵本で視界を遮る。


「今日はこのお話!どうかな?」


 優しく笑うお父様は、私の目を覗き込む。私が一度頷けば、お父様は私に見やすいように絵本を開いた。


 身体中の毛が逆立つような感覚になって、私は絵本から顔を上げた。お父様が不思議そうな表情を無視して、ソファーから飛び降りる。結月も本から顔を上げ、不思議そうに私を見る。

 結月は口を開こうとしたが、部屋の外から騒がしい音が聞こえてそちらに目を向けた。隣を通り過ぎようとした私の腕を掴む。私も大人しく足を止める。

 勢いよく扉が開き、以前見たときよりもやつれたお父様の鞘が現れた。背後から息を飲む音が聞こえた。

 私は結月に目だけを向ける。


「あぁ、鹿埜様!こんなところにいらしたのね!!」


 女の鬱陶しい声を聞き、結月は口を真一文字に結んで私から手を離す。それからお父様の元まで下がった。女の後から入ってきた祖父様たちがこちらに近付こうとして、私を見て足を止めた。

 女は気味が悪いくらいに口角を上げ、窪んだ目をぎらぎらさせている。お父様を見ていた双眸が立ちはだかるようにしていた私を捉えると、その目を吊り上げた。


「こんな小汚ないところに鹿埜様を閉じ込めるなんて、本当に身のほど知らずな小娘ですこと!鹿埜様は身体が人より弱いのよ!こんなところにいて、風邪でもこじらせたらどう責任を取るというの!?まさかとは思うけれど、ここで鹿埜様に食事を取らせたなんてことないでしょうね!?いいですこと!?鹿埜様のお食事は……」


 金切声で女が捲し立てる。背後からお父様が荒く呼吸する音が聞こえる。血がのぼって真っ赤になっている女の顔を見ていると、部屋の中に嫌な臭いが漂い始めているのに気付いた。

 以前、嗅いだことのあるような気がする凄く嫌な臭い。こんなのずっと嗅いでいたら、お父様の身体に悪い。やっとあの汚いあれらを取り去ることができたのに……ああ、そっか。根っこをちゃんと取らなかったからいけなかったんだ。お父様が教えてくれた。植物は根っこからきちんと取らなければまた生えてくることがあるって。

 ピシッピシッと石のひび割れる音が聞こえた。左手が熱くなるのに合わせて、狼の気配が近くなる。

 私の足もとから風が巻き起こり、何処からか黒い影が伸び、女に向かって突き進む。影は女に絡み付き、女は逃れようともがいた。私は左手を前に伸ばして、開いていた手をゆっくりと握っていく。女はもはやもがくこともできなくなって、苦しそうに呼吸を繰り返していた。


「――狼嘉!」


 いつの間にか隣にいた結月の両手が私の左手を包み込む。模様の燃えるような熱さが少しだけ和らぐ。結月はいつものように眉間に皺を寄せて私を見下ろす。


「そんなことをしたら毒が移る」


 でも、これ、片付けないと、お父様が汚れる。こいつがいるからお父様が苦しんでる。早く片付けないと。


「お前がそこまでやる必要なんてない」


 でも、水の祖父様たちが片付けないんだもん。私が片付けないと。お父様の前から一刻も早く消さないと。


「鞘でいられなくさせるだけでいい」


 でも、そんなのじゃ、生ぬるいでしょう?また出てきたらどうするの?


「お前ならわかっているだろう?」


 わからない、わからないよ。だって、こいつは、お父様を……


「狼嘉」


 結月の目がなんだか怖くて、私は視線を下げる。そうしたら、結月は咎めるように再び私の名を呼んだ。私は渋々、結月の両手に包まれている中でゆっくりと左手を開いた。

 黒い影の支えがなくなった女が、そのまま崩れ落ちる。黒い影はしばらく女の周りを蠢いていたが、小さく纏まると女の左手に絡み付いた。少しして、女の左手から姿を消し、そのまま何処かへいってしまった。

 女の左手にあった結月のものと同じ形でお父様と同じ色の模様は消えていた。

 視線を何処かぼんやりとした様子の女から顔色の悪い水の祖父様に向けた。水の祖父様は私の視線を受け、なんとか小さく頷いた。

 結月の両手が私の左手から離れ、私の頭を撫でた。なんだか、とても眠たくなってきた。

 ソファーに行こうと背後を向くと、お父様がぐったりとしていらした。私が結月に目を向ければ、結月は頷いてお父様の元へ駆け寄る。私は誰の邪魔にもならないように隅へ寄った。

 以前のように膝を抱え、目を閉じる。人の気配が少なくなるのを感じながら、眠気に身を任せた。


 次に目を覚ましたとき、何故か天井が視界に広がった。体を起こせば、かかっていた毛布が落ちる。毛布の陰から見える左手首に腕輪がない。そういえば、石の割れるような音がしていたかも。

 ぼんやりとその左手首を眺めていると、結月が顔を見せた。結月は眉間に皺を寄せて、鋭い目付きで私を見る。私はその目が凄く怖くて、毛布を手繰り寄せた。

 結月は何を言うわけでもなく、私に近づき、無理矢理立たせた。それから黒色の着物に着替えさせ、私の腕を引いて部屋の外に出た。

 何か、今日の結月、怖い。

 口を開くにも開けなくて、掴まれているのを我慢しながら結月の少し後ろを歩く。結月は龍の描かれた扉の前で足を止めた。コンコン、と扉を叩き、中に声をかける。


「辰貴様、狼嘉を連れてきました」

「入りなさい」


 中に入ると、凄く疲れた顔を水の祖父様が出迎えてくれた。祖父様は私たちに座るよう促し、ご自身は丁寧に頭を下げた。祖父様の鞘も同じように頭を下げる。


「――土の宮様、この度は多大なるご迷惑をお掛けしたことを他の域全てを代表しまして謝罪します。土の宮様のおかげで我々に大きな被害はなく、毒も広く感染することもありません。我々は」

「あの」


 凄く居心地が悪くて、思わず祖父様の言葉を遮ってしまった。結月の鋭い視線が向いたけれど、手を強く握って見ない振りをする。


「あの、その……謝罪も感謝も確かに受け取った。だから、その…………いつも通りにしてほしい」

「……よろしいのですか?」

「……うん」


 祖父様は顔を上げると、いつも通りに微笑んだ。祖父様の鞘もおそるおそる顔を上げる。


「お父様は?」

「新しい鞘も現れてね、今は安定しているよ」


 そっか、良かった。最後に見たお父様は死んじゃうんじゃないかってくらいぐったりしていたから……本当に良かった。


「土の宮、話があるんだ」


 祖父様は少しだけ目を細め、眉を下げて、穏やかにそう言った。視界の隅に映る結月の手が、強く握られて小さく震えていた。


「もう今の土の宮を此処に置いておくことはできない。わかってくれるね?」


 かつての妹に言われた、不幸だとか迷惑だとか、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回る。

 私から離れた母やあの男は血の気のある健康そうな顔をしていた。私の傍に来た水の祖父様や炎の祖母様、鞘の人たちや一の兄たち。大丈夫そうなときもあったけれど、でも、やはり何処か顔色が悪くなることが多かった。

 腕輪の意味も、四隅に置かれた石の意味も、何となくわかっていた。場所が変わったけど、少しばかり会える人が増えたけれど、本当は前と大して変わりはないのだと、何となくわかっていた。

 私は一度、頷く。水の祖父様は申し訳なさそうに笑って、私の頭を撫でた。


 炎の祖母様や雷の祖父様に案内されて、私と結月は土の域の入り口へと来た。土の域は森だった。立派な木々が生い茂り、射し込む日光は少ない気がする。炎の祖母様や雷の祖父様は今のこの域には入れないという。森の入り口でお別れした。

 私が歩き始めると、結月が後ろから着いてきた。別に道しるべなんてなかったけれど、何となく歩いていたら森の拓けたところに出た。そこには大きな屋敷が一つ。

 扉を押してみると、ギギッと鈍い音を立てて開いた。埃っぽくて真っ暗な家の中から、視線を背後に立つ結月に向ける。


「……結月も、行っちゃうの?」


 結月は暫く何も言わなかった。なに考えてるかわからない目でじっと私を見て、それから深く息を吐いた。


「俺はお前の鞘だからな」


 結月は私を押し退けて中に入る。少し歩くと舞う埃を見て、結月は再び深く息を吐いた。

大変長らくお待たせしました。申し訳ありません!続きも気長にお待ちいただければ幸いです。

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