第8話
目の前に美しい湖が広がる。水面には大きな月が浮かび上がっている。いつもの夢。振り返れば、狼と目が合う。狼は一鳴きして、着いてこいとばかりに背を向けた。
月明かりを頼りに、転ばないよう気をつけながら後を追う。以前はいた蛍や赤色の灯りは見当たらない。それから、小さな違和感を覚える。でも狼の後を追うのが忙しくて確かめることもできない。
どのくらい歩いただろうか。狼が足を止め、小さな木の横に前足を揃えて座った。そこでやっと違和感の正体に気付く。林が竹じゃない。種類はわからないけれど木だ。それから、数が前よりもずっと少なくなっている。
私は小さな木の前に膝をついた。緑の葉が美しいその木は、何か汚ならしいものに巻き付かれていて、ひどく弱っているように見える。
木に巻き付くそれに触れれば、それはみるみる枯れていく。ボロボロになっても、木に執念深く付くそれを丁寧に剥ぎ取る。弱っていた葉が生気を増し、綺麗に広がった。……この木はこれで大丈夫そうだ。
立ち上がれば、狼の姿がない。ぐるりと辺りを見回せば、狼はまた別の小さな木の横に前足を揃えて座っている。それを追いかけて、また木に巻き付く汚ならしいものを取る。
それを何度も繰り返すものの、林全体に生気があまり戻らない。でも他にできることなんてわからないから、ただ狼を追いかける。
しばらくして、円状に拓けているにも関わらず、なんだか薄暗い場所に出た。狼は足を止めてしまって先に行こうとしない。私は眉間に皺を寄せて、その拓けた場所へ踏み込んだ。
まるでいくつもの蔓が重なっているかのように地面に広がる汚ならしいそれら。歩きにくくて仕方ない。でも、まあ、歩けないわけでもない。それらを踏みつけて、拓けた場所の中心地の近くまで来た。
月明かりに照らされ、中心地に茶色い毛皮があるのが見えて、私は足を止めた。……毛皮じゃない。生き物だ。生き物がいる。立派な角を持つ鹿がそこにいた。
横たわる鹿にはいくつもの汚ならしいそれらが絡み付いている。私が再び踏み出せば、それらを踏む音が響いた。音に反応したのか鹿が小さく身動く。緩やかに目蓋が開き、綺麗な緑色の双眸が露になった。
汚ならしいそれらに私が手を伸ばすと、鹿が何かを言いたげに口を開閉する。音とならないそれを無視し、私はそれらを取ろうとして……
「――狼嘉」
目蓋を開けば、視界いっぱいに結月の顔と部屋の天井とが広がる。私を咎めるように見る結月が、私のつけている腕輪をなぞった。
「此処に居られなくなるぞ」
「……どうして?」
「辰貴様が言っていただろう。これはお前が此処にいるための証だ。これも身に付けられないようでは、此処には居られない」
結月の手からボロボロと緑色の石が零れ落ちる。腕輪は緑が欠けて隙間ができ、不格好になっていた。
右手を使って体を起こし、結月の膝の上から頭を退く。眠ったときは確かに座っていたはずなのに、どうして横たわっていたんだろう。今までこんなことなかったのに。
立ち上がった結月が風呂場の方を指さす。
「入ってこい」
「……まだ昼間だよ」
「いいから、入ってこい」
結月が私を睨み付けてそう言う。このままだと、服を着たまま浴槽に放り込まれかねないので大人しく言うことを聞く。
服を脱ぎ、体を洗ってから常に溜まっている湯船に入る。
理屈がどうなっているのかは詳しく聞いていないが、温泉から湯を引いているらしい。水の域は名の通り水が豊富な地域だからあまり節水という概念はないらしい。今でこそ水の域から各域へ水を引いているものの、かつて火の域では水不足が深刻だったそうだ。そのために水を引くための技術が発達し、今では全域に水が行き渡るようになっているらしい。
お返しに、樹の域からは食料を、火の域からは火を、雷の域からは道具を、他の域へと提供するそうだ。そうやって各域が支えあってこの国は成り立っているらしい。
全てお父様から聞いた。
体が温まって眠たくなってきたので、風呂から上がった。濡れた髪をそのままに風呂場から出れば、何故か水の祖父様がいらっしゃった。
結月は顔をしかめて私を祖父様の前に座らせると、手拭いで私の頭をがしがしと拭く。ちょっと痛い。私が顔を歪めれば、祖父様が楽しげに笑った。
「結月は本当に面倒見がよくなったね」
結月の手が止まった。振り返ろうとすると、頭をがっしりと掴まれて首が痛くなっただけだった。
「……おかげさまで」
結月はそうポツリと呟くと、祖父様は声を殺して笑う。ちょっとだけ、結月が不機嫌になったような気がした。
それから、火の祖母様がくださったドライヤーというものを使って結月が髪の毛を乾かしてくれる。ドライヤーは嫌いだ。熱いし、うるさい。結月がいたら小言を言われるけれど、自分だけなら絶対使わない。
髪を乾かし終え、髪を結ったあと、結月は私の隣に腰を下ろした。ほけほけと笑っていた祖父様が姿勢を正した。それを見て、私も背筋を伸ばす。
「土の宮に頼みがある」
「……頼み?」
「鹿埜くんをしばらく保護しては貰えないだろうか」
「お父様を?」
お父様を保護するとは、どういうことだろうか。私は保護されている身だ。……いや、監視されている身。そんな私がお父様の保護などできるわけがない。そもそも、いったい何から守るというのだろう。
首を傾げたところで、隅に置いてあった緑色の石が視界に入った。とても綺麗だったその石はなんだかくすんでいて、今にも砕けるのではないのかというほどヒビが入っている。
ふと、夢で見た鹿が脳裏に過った。綺麗で美しく、ひどく弱っていた鹿。とたんにお父様が心配になった。
あの鹿が、お父様が、私に助けを求めるというならば、私はお父様を守らなくては。
「お父様が是というなら」
祖父様の目が少しばかり翳ったような気がした。一瞬だったから気のせいかもしれない。祖父様はいつも通りに微笑んでいた。
「頼りにしているよ、土の宮」
それから数日後、部屋に布団が運び込まれ、お父様がいらっしゃった。あと、結月も。しばらくは三人で生活するらしい。
お父様は随分、お痩せになった。微笑んでいらっしゃるけれど、どこか辛そう。
何も言わない私の頭を、青白い色をしたお父様の手が撫でる。
その日はソファーにお父様と並んで座って、本を読んでいただいた。よくあの部屋で転がっていた妹の絵本と同じもの。お父様の優しい声はとても心地が良かった。
目蓋を開けば、部屋が暗くなっていた。どうやら、途中で寝てしまったらしい。首だけを動かして、辺りの様子を窺う。
どうやら両脇に人が眠っているようだ。扉側に結月が、窓側にお父様が寝ている。窓から射し込む月明かりがお父様を照らしていた。
お父様の表情が苦しげに歪んでいる。月明かりが眩しいのかもしれない。私は布団から静かに抜け出し、カーテンを閉めた。そして、お父様に近付き、様子を窺う。
お父様の眉間には深く皺が寄り、呼吸も少しばかり荒い。すごく苦しそう。一生懸命に息を吐き出しているその口が何かと重なって見えた。
私が手を伸ばすと、お父様は身動ぎ、仰向けから横向きになった。きつく握られた手が布団の中から少し出てきた。私はその手に触れる。
お父様の目が微かに開き、緑色の双眸が私を映す。お父様は小さく笑うと、体に入っていた力を抜いた。呼吸も落ち着いている。
「……大丈夫。休んで」
お父様は頷くことはなかったけれど、ゆっくりと目を閉じた。少し経てば、深い眠りに入ったようで穏やかに寝息をたてている。
私は今さら布団に戻る気にもなれず、ソファーに横たわった。お父様の顔に月明かりが当たらないようにカーテンを開けた。
白く光る月を眺めていれば、次第に眠くなってきた。結月に怒られそうとは思ったけれど、動くのも面倒でそのまま目を閉じた。
狼の吠える声が五月蝿くて目を開ければ、いつもの夢の中にいた。今回は蛍もいなければ、湖も林の中の灯りもない。背後に崖と目の前に林が広がっていた。足元にいた狼が、不機嫌に尾で私の足を叩いている。
何を怒っているんだろうか。首を傾げながら狼の頭を撫でれば、ぷいっと拗ねるようにそっぽを向かれた。それから狼はまた着いてこいとばかりに私の前を歩き始める。
狼のあとを追えば、昨夜と同じく円状に拓けた場所に出た。月に照らされて、今日はとても明るい。中央に自分の足でしっかりと立つ鹿がいた。
やはり狼は拓けた場所に入ろうとしないけれど、私はゆっくりとその鹿に近付いた。手の届く距離にまで来ると、私を見つめる鹿が微かに目を細めた。それから、小さく頭を下げる。
その鹿の頭に手を伸ばし、暖かい毛を撫でる。鹿は私にすり寄ってきた。ちょっと楽しい。思わず、笑みが浮かぶ。
しばらく遊んでいると、狼が一鳴きした。私も鹿も狼に目を向けると、狼は月を見上げた。……そろそろ、時間なのかもしれない。
一度、鹿と距離を取り、鹿の全身を確認する。立派な角に微かに残っていた汚ならしいそれらを丁寧に落としていく。今度は、鹿は目を閉じて大人しく受け入れてくれた。
全ての汚い部分を落とし、最後に念入りに取り残しがないかを確認して、鹿から離れた。鹿は凛とした様子で私を見ている。そして、一度、小さく頷いた。
私は鹿に背を向け、狼の方へ向かう。狼の頭を撫で、林へ踏み込む。すれ違うようにして、狼は拓けた場所へ踏み込んだ。
ゆるゆると目を開ければ、窓の外から日差しが射し込んでいるのがわかった。ソファーの背を使って体を起こせば、かかっていた毛布が床へ落ちた。私、毛布なんてかけていたっけ?
首を傾げていると、頭に容赦なく拳が落ちてきた。ずきずきと痛む頭を押さえて顔を上げれば、目をつり上げた結月がいた。……やっぱり怒られる。
「どうしてソファーで寝てるんだ」
音にならない声で「つい」と答えると、結月の肩が小刻みに震えた。結月がまた手を上げたので、殴られると思ってきつく目を閉じる。けれども、痛みが走ったのは頭ではなく頬。頬を左右に強く引っ張られた。
「つい、じゃない!ついじゃ!!まさか、普段もここで寝てるんじゃないだろうな?」
首を横に振ったら、結月の指が頬に食い込んで痛かった。
結月はくどくどとどうしてソファーで寝てはいけないのかを説き、私にソファーで寝るなと言いつけてくる。私はそれに頷かず、聞いていた。視界の隅に映る緑色の石は、もはや粉々で、けれども、元のように綺麗な姿に戻っていた。
しばらく様子を楽しげに見ていたお父様が、そろそろご飯だからと止めてくださるまで結月のお説教は続いた。
大変遅くなってしまい、申し訳ありません。
来月、再来月とバタバタしているので更新がかなり遅れると思いますが、お待ちいただけると嬉しいです。