第4話
読みきった本を積み上げてある山のてっぺんに置く。本の山の揺れが収まるのを見てから、反対側の山から新しい本を取った。
お父様から最初に読みなさいと渡された辞書は、記憶したものが正しいのか不安で手放せない。他の一度しか読まなかった本に比べたらボロボロになってきている。
本が欲しいと言った翌日、私は部屋を移された。元より私は此処に移される予定だったのだろう。華やかな部屋に山積みにされた古ぼけた本が場違いに見えた。
部屋の奥にはお手洗いとお風呂場とが設置されていた。水の祖父様から必要以上に部屋から出ないようにも言われた。
部屋の四隅には青、赤、緑、黄の石が置いてある。青と赤の石は私の腕輪のものと同じものだ。触れてもいいけれど、決して動かさず壊さないように言われた。
あれらが何を意味をするのかはわからないし、この腕輪の本当の意味もわからない。……知ろうとも思わないけど。
青の女王、という三代前の水の域の領主の話を読んでいると、頭を叩かれた。本から顔を上げれば、眉間に皺を寄せた結月が私を見下ろしている。
「こんな風に本を積むな。倒れてきたらどうする」
「下敷きになる」
「ならない努力をしろ」
本で再び頭を叩かれた。読んでいた頁だけ確認して、本を閉じてまだ読んでいない本の山に戻す。
読みきった本の山から数冊持ち、山を崩さないように立ち上がる。倒れないように本の山を分けていると足場がなくなってしまった。今度は足場を作るために本を積み上げる。
「もういい。俺がやるから動くな」
食事の準備をしてくれていた結月が呆れたようにそう言った。動きを止めて、本が壁際に寄せられていくのをただ眺める。
各域の領主殿と顔合わせをしてから半月。この部屋を訪れるのはほとんど結月のみ。たまに水の祖父様、あとは一度、お父様が顔を見せたくらい。
覚えなければならないことはみんな結月が教えてくれる。箸の使い方や文字の正しい読み方とか。その結月も長い時間ここに居るわけではないのだけれど。
綺麗に片付いた部屋を見回していると、結月が座って食事をするように指示した。
私が座れば、結月が私の背後に回る。ボサボサになっている髪に櫛を通された。
「どの本はもう読まない?必要のないものは入れ換える」
「―…窓際にあるもの以外は全部。一回、読んだから」
「いつも窓際で読んでいるのか」
「うん」
きのこを皿の端に避けていると、髪を強く引っ張られ「無理やり口に突っ込むぞ」と言われた。前に頑なに食べなかったら本当にやられたので、しぶしぶ味の濃いものと一緒に自分で食べる。きのこだけで食べるよりはマシだ。
料理の三分の二ほど平らげて、箸を止める。これ以上は食べられない。結月はもう少し食べるように言ってくるが、私が首を横に振れば強くは言わない。
私の食事が終われば、結月はお盆を持って出ていってしまう。
また一人になった。窓際に移動して読みかけの本を手に取る。
翌日、結月と共に一の兄と二の兄、それから炎の祖母様と祖母様の後ろに控えていた男性が来た。
今までに読んだ本が運び出され、窓際に柔らかい長椅子が置かれた。ソファーというものらしい。子の国から輸入されたものだと聞いた。
「鹿埜が土の宮に使って欲しいってわざわざ取り寄せたのよ。今日は体調を崩しているから来れないけれど、今度来た時にお礼を言ってあげて」
炎の祖母様は私をソファーに座らせ、自身も私から少し離れた場所に座ってそう笑った。私は一度頷く。本を運ぶのに厭きたのか、二の兄が私たちに寄ってくる。
「なあなあ、つちのあるじはあしたのおまつりでなにがほしい?」
炎の祖母様の体が強張った。二の兄は綺麗な笑顔で私を見ている。
「……お祭りがあるの?」
「おう!でも、つちのあるじはいけないんだろ?だからおれがなにかかってきてやるよ!!」
「……何があるのか、わからないから」
「あ、そっか。じゃあ、かってきてからのおたのしみだな!」
「……うん」
二の兄はまだ何か言おうとしていたのだけれど、一の兄に引き摺られて本を運ぶ手伝いに戻った。
炎の祖母様を見上げれば、微かに青い顔をしていた。
「何かのお祝い事?」
「そうね。明日は蒼天様がこの国を治めた日。これからも平和が続くように願って、国の中央にある聖火台に火を灯すのよ。どの域の者も屋台を出したりしてね、楽しい一日を過ごすの」
炎の祖母様はそう言うと、震える声で「ごめんね」と口にした。二の兄は一の兄や結月と戯れていて笑っている。結月も私の前では見せたことのない表情を浮かべている。
「……外に行きたいなんて思わないから」
だって、ここだけで十分に満足している。外は何だか胸が痛くなるから嫌いだ。
炎の祖母様はそれ以上なにも言わず、私から離れていった。
ソファーというものは気持ちがよくて、本を読みながら気づかないうちに寝ていたらしい。外から聞こえてくる高い音で目を覚ました。きっと笛型の楽器の音だろう。
体を起こして窓の外を見てみた。いつも通りの綺麗な庭が広がっている。
―…いつも通り、でもないか。いつも庭の手入れをしている人がいない。慌ただしそうに物を運んでいる人もいない。静かだ。
落ちてしまっていた読みかけの本を拾い、再びソファーに横になる。湖に眠る、という少年が龍神に出会う不思議な話。
扉を叩く音がして体を起こした。扉からお父様がそっとこちらを覗いている。
「入ってもいいかな?」
私が頷けばお父様はほっとした顔で仲に入ってくる。私もソファーから立ち上がり、結月が置いていってくれた茶葉と急須を手に取る。
……やり方がわからない。茶葉ってどのくらい入れればいいの?
「貸してごらん」
いつの間にか隣に来ていたお父様は私の前に手を差し伸べて微笑む。私は手にあるものとお父様を見比べて、茶葉と急須を差し出した。
お父様は私に見えるように、お茶を淹れてくれる。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
「辞書とソファーもありがとうございました」
お父様は目を見開いた。それから微笑んで「役に立ったかな?」と尋ねてきた。私は頷く。
お父様がお茶を机まで運んでくれている間に髪を整える。とは言っても、結月の置いていった櫛を通すだけだけど。
お父様が腰を落ち着けた場所の向かい側に腰を下ろす。まだ慣れない正座をしてみるものの、落ち着かない私を見てお父様が楽にしていいと言ってくれる。ありがたく厚意に甘えた。
「土の宮様、話し方が流暢になってきたね。たった半月なのに大きくなっちゃって」
「……?そんなに変わっていないと思います」
「そんなことないよ。心がね、とても成長してる」
心が?と口の中で呟く。
よくわからない。私は今までと大して変わりのない生活をしていて、何か変わったかといえば環境だけ。部屋が大きくなって読むものが増えて着るものが立派になったというくらい。私自身は何も変わらない。
「実際に対面して確信したけれど、結月君が成長した、というよりはやっぱり土の宮様が成長しているね。だから、僕も長時間ここに留まれるし、紫鳳様や辰貴君、なにより紫鳳君や炎の鞘殿が君に会えるようになった」
だから、と接続されたが関連性が全然わからない。首を傾げる私にお父様は優しく笑う。
「僕は土の宮様とよほど波長が合うらしくてよくわからないのだけれど、他の人たちは君から漏れてくる加護……いや、たぶん罪の方かな、それに耐えられなかったみたい」
「……罪」
「あれ?聞いてない?」
「ん、聞きました。初代が亡くなったあと、分かれたときに背負わされたもの」
「そう、それ。もちろん僕も背負ってるよ」
だから、今日のお祭りに行けなかったんだ。とお父様はお茶を飲んで窓の外に目を向けた。
私の目を覚ました笛の音に加え、楽しげな声が聞こえてくる。空は雲一つない晴天だ。
「僕もなかなか罪を背負いきれなくて、体調を崩すことが多くてね。でも、土の宮様が目覚めてから調子がいいんだ。普通なら僕が一番、危ないのにって夕麒様が凄く不思議がってた」
お父様はそう言ってクスクスと笑ったあと、水の祖父様や炎の祖母様の話をしてくれた。それから、樹の域の良いところもたくさん教えてくれた。
樹の域は凄く資源に恵まれたところらしい。たくさんの美味しいものがあるから、今度、果物を持ってきてくれるって。
領民の人たちも穏やかでいい人がいっぱい居るって言っていた。お父様は本当に樹の域が大好きなんだと思う。
寝ている間に結月が置いていってくれた料理を二人で分けて食べてお昼を終えた。
お父様はあまり難しい話はせず、絵本を読んでくれたり、お手玉を教えてくれたりした。日が暮れるまでずっと一緒に居てくれた。
辺りがすっかり暗くなって空に星が広がり始めた頃、突然、扉が開いて結月が顔を見せた。結月はお父様を見て目を見開く。
「鹿埜様、どうしてこちらにっ!」
「土の宮様の近くは心地が好いからつい長居しちゃって。あ、土の宮様の夕食?」
お父様は結月の手に持っている袋を見て尋ねた。結月は躊躇うように頷いて部屋に入ってくる。
机の上に並べられた食べ物はどれも見たことがないものばかり。焼きそば、フランクフルト、じゃがバター、串焼き、などなど。名前は並べるときに結月が教えてくれた。
二の兄が私のために選んでくれたそうだ。最初はここに来るつもりだったらしいのだけれど、途中で友人たちに会ってそちらに行ったらしい。
「美味しそう」
「鹿埜様は駄目ですよ」
「わかってるよ」
食べ物を見て目を輝かせたお父様は結月に止められて苦笑いを浮かべる。何が駄目なんだろうか?私が尋ねる前にお父様が立ち上がる。
「じゃあ、僕はそろそろ戻るよ」
「送ります」
「大丈夫。あの子が近くで張ってるみたいだから」
お父様の表情が微かに陰った。今までずっと穏やかに笑っていたのに。結月の眉間にも微かに皺が寄る。
あの子が誰か、お父様と結月がハッキリと口にしたわけではないけれど、あの大広間でじっとお父様を見ていた女性の顔が頭に過った。
またね、と手を振るお父様を呼び止める。お父様は不思議そうに足を止めた。
「またお父様だけで来てくださいますか」
「、え」
「結月の居るときでいいです。来てくださいますか」
お父様は何度か目を瞬くと、とても嬉しそうに笑った。
「もちろん」
お父様が居なくなったあとの部屋はとても静かだった。並べられた食べ物の匂いが鼻をくすぐる。一番、手近にあった串焼きを手に取った。
温かいお肉に齧り付けば肉汁が口に広がる。お父様が言っていた美味しいものにこれは含まれるのだろうか。
「何故、あんなことを」
「うん?」
「……いや、仲良くなったからといってあまり鹿埜様を困らせるな」
「うん」
一本食べきってお茶を飲み、次はフランクフルトを食べてみた。美味しい、けど串焼きの方が好きかもしれない。
串が刺さっているものばかりを食べていたら結月に削った木の棒を渡された。割り箸というものらしい。結月の言う通りに割ってみれば本当に箸になった。おお、凄い。
どれも美味しかったけれど、やはり量が多くて余ってしまう。でも二の兄がせっかく選んでくれたのに、残すのは気が引ける。ああ、明日、食べればいいのか。
結月に目を向ければ「残りは俺が食べるから」と言われてしまった。ちょっと残念。
「ああ、そうだ。これ」
食べ物を袋に仕舞いきった結月は唐突に何かを取り出した。手を出せば、金と銀の交じった紐。
「屋台で売ってた髪紐。髪が邪魔なときに使えばいい」
ポカンと結月を見上げれば、髪紐の一色と同じ色をした目と視線がかち合う。いつもより、少しだけ目が優しい。
何だか胸が温かい、気がする。初めての感覚でどう表現すればいいのかわからない。
「ありがとう」
自然と出た言葉に結月が小さく笑った、ような気がした。