第3話
大きな襖を前にして少年は足を止めた。それから私に中に入るよう促してくる。
手をかけて微かにおそるおそる開けてみると、わずかにできた隙間から重々しい空気が流れ出てきた。毛が逆立つような感覚がする。そのまま襖を開けようとしたら、肩を掴まれた。
振り返れば少年が首を横に振る。
「落ち着け。中に居るのは敵じゃない」
「でも」
「大丈夫だから、ほら深呼吸」
「―…うん」
全然、落ち着くことなんてできないし、何が大丈夫なのかもわからない。でも、このまま入ることはダメらしい。
少年が私の背を撫でる。それに合わせて私も目を閉じゆっくりと呼吸を繰り返す。再び目を開けたときには重々しい空気はなくなっていた。
今度こそ襖を開ければ、中には十人の人が並んで座っていた。
一番、入り口に近いところには右手にこれから辰貴になるという少年が、左手に私が妹になると言った紫鳳になるらしい少年が、微かに顔を青くして座っていた。
辰貴となる少年の奥には糸目のおじいさん。その背後にはきりっとしたおばあさんが控えていた。
糸目のおじいさんのさらに奥には赤目のおばあさん。背後にはどっしりとしたおじいさんが控えている。
紫鳳となる少年の奥には緑色の目をした男の人。背後に控える女の人はじっとほの男の人を眺めている。
そのさらに奥には辰貴というおじいさん。背後には先ほど部屋におじいさんを呼びに来たおばあさんが控えている。
私は糸目のおじいさんに目を向けた。さっきの重々しい空気を放ったのはこの人だ。どうしてそう思うのかはわからないけれど、絶対にそう。
背後に控えるおばあさんが顔色が悪くなり始めるとおじいさんの黄色い右目が露になる。私の左手を結月という少年が掴むと同時に、辰貴というおじいさんが口を開いた。
「夕麒くん、戯れもほどほどに」
「―…いやぁ、土の宮は小さくても凄いね!見てよ、この鳥肌」
「鳥肌だけじゃなくってよ。顔色も悪くなっているわ」
糸目のおじいさんが笑って赤目のおばあさんに腕を見せれば、赤目のおばあさんはシニカルな笑みを返した。
緑色の目をした男性は胸に手を当てて安心したように息を吐いた。それから私を見て、小さく微笑む。凄く優しそうな人。
辰貴というおじいさんが咳払いをすれば、一同が姿勢を正した。全員の視線が私に向く。
代表するように辰貴というおじいさんが言う。
「土の領域を治める者、狼嘉。君は今日から東雲の娘だ。加護を生かし、罪に耐え、その命の限りこの東の国を支えるのだ」
最初に手を打ったのは赤目のおばあさん。それを機に皆が拍手をした。きょとんと佇む私の頭を結月という少年が無理やり下げさせて、耳打ちをしてくる。
「この東の国のために加護を使い、この東の国のために罪を背負い、この東の国のために命を削ることを誓います……言え」
「このあずまのくにのためにかごをつかい、このあずまのくにのためにつみをせおい、このあずまのくにのためにいのちをけずることをちかいます……?」
ぽんぽんと頭を撫でられた。こんなに長く話したのは初めてで、喉が痛い。耐えきれなくて咳き込むと、私の頭を撫でていた少年の手が跳ねた。
少年がおろおろとしているのを横目に見ながら何とか咳を止めようとしていると、あの優しげな男性が私に近付いてきた。
「結月君、落ち着いて。土の宮様、お水だよ。ゆっくり飲んで」
「鹿埜様、そんな女に近付いては危険です!」
「心配性だなぁ。大丈夫だよ。彼女は僕の娘だし、凄く波長が合うんだ」
水を飲んでも、いまだに小さく咳を続ける私に男性は「大丈夫?」と眉を下げた。……母の顔に似ている。私は何度も頷いた。
やっと落ち着いて顔を上げれば、男性の後ろに控えていた女性が私を睨み付けていた。目があって十秒もしない内に、その女性と私の間に赤目のおばあさんが割って入った。
脇の下に手を入れられたかと思えば、私の足が地面から離れておばあさんと顔が近くなる。
「ずっと可愛いげのない男ばかりで孫娘が欲しかったのよ。アタシは紫鳳。お祖母ちゃんって呼んでちょうだい。嗚呼もう、ほっそいわね。鹿埜よりも軟弱なんじゃないかしら?果物しか食べなかったって聞いたわよ。駄目じゃない。体力をつけるには肉よ、肉!たーんとお食べなさい。なんなら結月の分まで食べてもいいわよ」
ただでさえ帯で苦しいのに、ぎゅうぎゅう抱き締められてさらに苦しい。頭はぐるぐるしてきたし、気持ち悪い。
「紫鳳お祖母様、そのくらいに。土の主は体調が優れないようなので」
「ったく、狸爺といい、どうして水の域の奴はこうもアタシの邪魔ばかりするのかしら」
「おい、ばあちゃん!あんた、ただでさえばかぢからなんだからかげんしろよ!!いもうとがしんじゃうだろ!」
「あんたもどうしてこんな風に育っちゃったのよ!?淑女に向かって馬鹿力ですって!口の利き方を叩き直してあげるからこっちに来なさい!!」
「やべっ」
赤目のおばあさんは私を放り出すと、紫鳳となる少年を追いかけ始めた。元気な人だ。
私は結月という少年の背中にしがみつく。
もうやだ。疲れた。帯は苦しいし、着物は暑い。部屋に帰りたい。
「……随分となつかれたね、結月」
「……別に」
結月という少年は私を背から引き離すと、辰貴となる少年の前に押した。赤目のおばあちゃんと紫鳳となる少年が走り回る部屋は混沌としているが、皆は慣れているのか、酒を飲んだり、談話したりと最初の張り詰めた空気は何処にもない。
辰貴となる少年は結月という少年にからかうような笑みを向ける。結月という少年は小さく鼻を鳴らして、私を見た。
「五傑は東雲に移籍するという話を聞いたのは覚えているな」
「うん」
「この辰貴は次期水の域の領主だ。お前の一番上の兄になる。それから、今、走り回っているのが次期炎の域の領主。お前の二番目の兄だ。そして、彼処で酒を飲んでいらっしゃるのが現水の域の領主、辰貴様と現雷の域の領主、夕麒様。お前の祖父に当たる。紫鳳を追いかけ回されているのが現炎の域の領主、紫鳳様。お前の祖母に当たる。そして、お前に水をくださったのは現樹の域の領主、鹿埜様。お前の父親だ。そして俺は……お前の鞘であり、婚約者になる結月」
どこまでも淡々とした話し方で説明をしてくれた彼。最後だけ更に淡々とした話し方になっていたと思う。
私は目の前に立つ少年に指を向けた。
「いちのあに」
次に私の声に足を止めた紫鳳という少年に指を向ける。
「にのあに」
次に盃を手にしたままこちらに目を向けているおじいさんたちに。
「みずのじいさま、かみなりのじいさま」
次に二の兄に手を伸ばしたまま静止している赤目のおばあさんに。
「ほのおのばあさま」
次に優しく微笑む男性に。
「……おとうさま」
そして、最後に私を冷え冷えとした目で見る少年に。
「…………ゆづき」
部屋が静まり返った。何か間違えただろうか。
私が首を傾げると、結月が一度、瞬きをした。それから深く息を吐き出す。
「……ああ。合ってるが、人に指を向けるな」
指を普通は曲がらない方向に軽く曲げられる。痛い。いけないことだったらしい。以後、気を付けよう。
次に音を発したのはお父様。お父様は小さく、でも、嬉しそうに笑った。
再び部屋に音が戻る。水の祖父様の盃を置いた音。雷の祖父様の盃に、背後に控えていたおばあさんが酒を注ぐ音。二の兄が私たちの方へ駆けてくる音。炎の祖母様が背後に控えていたおじいさんに駆け回ったことを叱られている音。
私が話す前のような賑やかさが戻った。
二の兄が私の目の前に来たかと思えば、偉そうに胸を張った。ただ、口を開く度に徐々に涙目になっていく。
「おれがおまえのにいちゃんだからな」
「うん」
「おれたちがかぞくだからな」
「……うん」
「おまえがかぞくなのはこわいけど、でもかぞくだから」
「うん」
「さ、さみしくないぞ!」
「うん」
「あんなへや、もどんなくていいんだからな!!」
「うん」
「あにきもいるし、ゆづきもいるからな!」
「うん」
「だから、だから……」
言葉の続きを待っていたら涙目で睨まれた。二の兄の手足が小さくではあるが、ぷるぷると震えている。
その様子を見て一の兄が小さく笑う。今までの笑みとは違って、本当に溢れた笑み……な気がする。
結月はまた息を呆れたように吐き、小さく肩を竦めた。それから私に目を向けた。
「挨拶は終わった。このままだと辛そうだし、部屋に戻るぞ」
私は頷く。二の兄は眉を下げ、肩を落とした。
結月に手を引かれながら部屋を出る前、振り返って二の兄に小さく手を振れば、二の兄は目を丸くしたあと笑った。そんな二の兄の肩を一の兄が小さく叩く。
廊下に出れば、結月に襖をぴしゃりと閉められた。襖の向こうからはがやがやと声が聞こえてくる。
「―…辛いか」
「なにが?」
「……いや。なんでもない」
「……ゆづきはつらいの?」
彼は何も答えない。手を引かれて、二人で歩いてきた道を戻る。
辛いというものが何なのか、正解はわからないけれど、きっと昔は感じていた胸の痛みだ。外から聞こえてくる声が聞こえてくる度に襲ってきた胸の痛み。私は感じない。でも、きっと彼は感じているんだ。
部屋についた。私が脱いでいいかと聞けば、結月は頷く。解こうと帯を引っ張っていると、更に締まった。苦しい。結月が呆れたように息を吐く。
再びたどたどしい手付きではあるけれど、着替えさせて貰った。髪は解けた。よかった。
「ゆづきはいろいろできるんだね、すごい」
「……辰貴様に鍛えられたからな」
冷え冷えとした目が私に向く。……一の兄や二の兄にはこんな目を向けてなかった。彼は私が嫌いなのかもしれない。なら、あまり話さない方がいいだろう。
私は彼に背を向けて部屋の隅に寄る。端っこはとても落ち着く。この着なれた服も、落ち着く。足を抱くようにして、またいつも通りに息を殺す。
結月はしばらく私を見ていたが、出口へと足を向けた。扉を開け、出ていこうとしたが、一度振り返った。
「……欲しいものはあるか」
「……ほん」
ばたんと扉が閉まれば、私の呼吸音だけが部屋に響く。
かつての部屋と同じように私は膝に顔を埋めて目を閉じた。