第2話
妹って、何を言っているんだろうか。
何の反応も示さない私に紫鳳という少年は再び唇を尖らせた。
「なんだよ、おれたちのいもうとになるのがいやなのか?」
「―…なんでわたしがいもうとになるの?」
「おまえがろかだからだ!」
「ろか?」
「おまえ、しらないのか!?」
何故か驚かれた。
少年の掴む手が痛い。そろそろ離してくれないかな。
手を大きく振ってみたら少年の手は呆気なく外れた。微かに腕に手の痕が残っている。
ふらふらと歩き出せば、今度は辰貴という少年に行く手を阻まれる。
振り返れば紫鳳という少年と結月という少年が私を囲うようにいる。
……一体、何なんだろう。今日は変わったことばかり起こる日だ。
頭がぼんやりして眠くなってきた。お願いして退いてもらうのも疲れる。
部屋から出なければ良かったかも。ただでさえ、今日は男が部屋に来て疲れていたんだ。聞こえないふりをして寝てしまえば良かった。
頭がくらくらする。それに目が回ってきた。おお、初体験。などとのんきに考えながら、意識を手放す。
誰かに支えられたような気がした。
―…左手にぬくもりを感じた。もふもふとしたものが私の左手にじゃれついている。
目を開ければ、やはり真っ暗だった。自分の足先が確認できないほどの真っ暗闇。先ほど目覚める前の夢の続きだろうか。
姿もまともに見えないもふもふを撫でる。そこで、自分の左手に何か模様が浮かび上がっているのを初めて認識した。
二重丸の中心部に星形。内側の円に沿うように何かよくわからない文字が並んでいる。他はあまり見えないのに黒い色のそれは何故かよく見える。
何だろう、これ。
もふもふから左手を離すと、視界が広がった。
私は崖に座り込んでいた。黒くて大きな犬が隣で私を見上げていた。
ふと、その黒い犬が視線を上へ向けた。私もつられて視線を上げる。大きな白く輝く月が星一つない空に輝いている。
凄く綺麗な月だ。太陽の光はあたたかいと聞くけれど、月の光もあたたかいのだろうか。何だかとても心地好い。
綺麗で好きだな。私が月に向かって手を伸ばすと、犬に後方に引き戻された。足元の岩場が微かに崩れる。視線を下げれば、先ほど居た暗闇が広がっていた。
犬が私を見て首を横に振る。犬ってこんな風に意思の疎通をする生き物だったのか。知らなかった。
犬は再び私にじゃれる。犬の鼻先が私の左手を掠めた。
ぱちりと目を開くと、私はとても明るい場所に居た。見たことのない綺麗な天井が視界いっぱいに広がっている。
体を起こせば、上にかかっていたふわふわの布が落ちた。何これ、気持ちいい。あ、これがきっと毛布と言うものだ。なら、私の横たわるこれは敷き布団というものだろう。ふかふか、気持ちいい。もう一回、寝よう。
再び横たわろうとすると頭を背後から軽く叩かれた。振り返れば、結月という少年が私を見下ろしていた。あ、さっきの月、彼の髪と同じ色だ。
これなら手が届きそう。手を伸ばせば、掴まれた。届かない。
「―…寝ようとしたかと思えば、何のつもりだ」
「……ごめん、つい」
いきなり髪を触られそうになるのは嫌か。当たり前だ。
「かみをさわりたい」
「何だ、急に」
「つきとおなじいろ」
「月?」
「ゆめでみたしろくておおきくてきれいなつき」
ぎゅーっと力を強くして手をさらに伸ばしてみたけれど、倍の力で押し返された。言えば良いというものではなかったらしい。
彼は眉間に深く皺を刻み、不機嫌そうに私を見る。彼が私を見るときはいつも不機嫌そうだ。
「俺の髪は白じゃない。銀だ」
「ぎん」
じゃあ、あの月も銀色だったんだ。月というのはいつも金か青白いって言われていたから白なんだと思っていた。
言われてみれば、彼の髪もあの月もキラキラしている。
―…あの月をもう一回、見たいな。寝れば見れるかな。私が再び寝る態勢に入ると、掴まれた腕を引かれて布団から引きずり出された。床と擦れて熱い。
「起きたばかりだろ、寝るな」
「やだ」
「おい」
「もういっかい、ゆめみるの」
「駄目だ。起きたなら朝食を食べに行くぞ」
ああ、ふかふかのお布団が遠退いていく。別にお腹なんて空いて……いや、お腹すいた。何か体は痛いけれど、大人しく引きずられることにした。楽だし。
「こらこら、結月。女の子をそんな風に扱っちゃいけないよ」
朗らかな声が聞こえて、顔を上げた。優しげな表情を浮かべた例の危なそうなおじいさんが立っていた。手にはお盆がある。
「さあ、彼女の部屋に戻ろう。目覚めたばかりで混乱しているだろうからね」
「―…図太く、布団で二度寝しようとしていましたが」
「現実逃避というやつじゃないかな。残念ながら、もう一度、夢から覚めても現状は変わらないけれど」
……いや、別に夢に逃げようとしていたわけではないのだけれど。というか、そういえば、此処は何処だ。いつの間に私はこんな知らない場所に居たんだ?
結月という少年に引きずられるままに辺りを見回す。この家、とても天井が高い。なんというか、ああ、あれだ、解放感に溢れている気がする。
先ほどの部屋に戻り、私は机の前に座らされた。布団に戻ろうとする私を結月という少年は鋭く睨む。もう眠気も覚めてしまったし仕方ない。大人しくする。
おじいさんが持っていたお盆に乗った食べ物らしきものを食べるように進めてくる。何というものなのかはわからないけれど、皆キラキラしている。
私はリンゴの匂いのするそれに手を伸ばし、口にした。みずみずしくて甘い汁が噛んだところから広がる。それがとてもおいしくて夢中で食べた。
三個ほど食べれば、それは終わってしまった。私はそこで食べるのをやめる。
「もういいのかい?」
「うん」
「じゃあ、これからについて話を聞いてくれるかな?」
おじいさんは私に濡れた手ぬぐいを渡して優しく笑う。私は一度、頷く。
「私は辰貴。水の域の領主だ。知っているかな?」
「ほんで、すこしだけ」
「じゃあ、狼嘉については?」
「しらない」
じゃあ、一から説明しよう。とおじいさんはお盆を退かして、大きな紙を広げた。青の背景に緑色の横長の丸みたいのが描いてある。
おじいさん曰く、これが地図というものらしい。私たちの住む環という惑星の地図。この環という球状の惑星はほとんどを海が占めていて、その海に四つの大陸がある。
それぞれに、子の国、南の国、西の国、東の国と名前が付いていて、私たちが住んでいるのは東の国という大陸。
この中で東の国は更に水、炎、樹、雷、土の五つの領域に分かれ、東雲家の五傑と呼ばれるものたちがそれぞれを治めている。
かつて東の国が荒れに荒れていた頃、五つの加護を持つ英雄がそれを治めたという。それが東雲家の初代、蒼天。
ただ彼はその圧倒的な力を恐れられ、罪人とされた。かといって初代以外に国を治められる者も居らず、東の国は罪人の治める国となった。
初代が亡くなった後、初代の最後の力によってその巨大な加護は五つに分けられ、罪を負わされた上で五つの領域を治めることになった。
その加護と罪を背負う紋章を持つ者が東雲の血族の中で生まれる。それが東雲家の五傑。
水の域を治める者、名は辰貴、加護は龍
炎の域を治める者、名は紫鳳、加護は鳳凰
樹の域を治める者、名は鹿埜、加護は鹿
雷の域を治める者、名は夕麒、加護は麒麟
土の域を治める者、名は狼嘉、加護は狼
私はその内の狼嘉であるらしく、この左手の紋章はその証拠だと。おじいさんはそう言って自身の左手を見せてくれた。おじいさんの左手にも私の左手にあるのとよく似たものがあった。ただ、書いてある文字みたいなものが少し違うし、色が青色だ。これが辰貴である証拠らしい。
あのこれから辰貴となる少年は次期領主だそうだ。生まれながらの五傑。一緒に居た赤髪の紫鳳という少年もまた生まれながらの五傑で炎の域の次期領主だそうだ。
「そして、君は狼嘉。後天的に目覚めた五傑で、土の域の領主だ」
五傑として目覚める者は生まれつきの者も居れば、後天的な者も居るらしい。いずれにせよ、目覚めた者は生まれた家に関係なく東雲の姓を名乗ることとなるそうだ。
「本来なら前当主から様々なことを学ぶのだけれど、土の域は私たちの代の当主が居ないんだ。だから、私がしばらく面倒をみよう」
ここでゆっくりとすれば良い、とおじいさんは言った。それから、笑顔で警告を付け足す。
「ただし、この腕輪は外してはいけないよ。これは君がここに居るための許可証のようなものだからね」
おじいさんが指で示したのは、家に居た頃はなかった左手首に巻かれた腕輪。青色と赤色の石が編み込むような形で私の手首に巻き付いている。
扉を何度か叩く音がして、年配の女性が顔を見せた。彼女は私を見て微かに顔を強張らせたあと、すぐにおじいさんに目を向けた。
「あなた、皆さまがお待ちです」
「わかった、すぐに行こう。結月、着替えさせてからにしなさい」
「わかりました」
おじいさんはお盆を女性に持たせて「また後でね」と手を振って出ていった。部屋の中が途端に静かになった。
結月という少年が立ちあがり、備え付けの棚を開けた。綺麗な色の着物がいくつも並んでいる。少年はその着物と私を見比べてから藍色の着物と白い帯を取り出した。
その二つを持って近付いて来たと思えば、服を剥ぎ取られて着物を着せられる。動くことも面倒になっていた私はじっとしていた。
「苦しくないか」
「くるしい」
「耐えろ」
なら、最初から聞かないで欲しい。
たどたどしい手つきで、着替えさせられると今度は髪に櫛を入れられた。絡まって痛い。何度かすればそれもなくなった。
「じぶんでできたのに」
「何故、終わってから言う」
「どうして……あなたはわたしのめんどうをみてるの?」
ぼんやりしていたとはとても言えず、質問を質問で返した。少年の眉間に皺が寄る。
少年は私に左手を見せた。私の左手にある紋章によく似たものがあった。黒の二重丸の中心部に星形。でも、内側に沿うようにあった文字はない。
「俺がお前の鞘だからだ」
「さや?」
少年は私の疑問に答えることなく、私を立たせた。それから口を開くこともなく、私の腕を引いて部屋から出た。