第1話
―…かつては耳を塞ぎ、目をきつく閉じて息を潜めていた。それでも笑い声は聞こえて、凄く胸が苦しかった。
もはや何も感じなくなったのだけれど。
部屋の隅で膝を抱える私を妹が見て鼻で笑う。母はそんな妹を見て目を見開き、妹を連れて部屋から出ていってしまった。
部屋には妹の置いていった絵本が転がっている。私は貰ったこともなければ読んでもらったこともない。
だから、妹が読んでもらっているのを耳をすませて聞くようにした。妹の放り出した絵本を使って、その記憶と繋ぎ合わせて言葉も覚えた。
答え合わせをしてくれる人なんて居ないから合っているかはわからない。
でも、おかげで膝を抱えている時間は少なくなった。誰のものかもわからない本を読み耽る日々が多くなった。
恐る恐る扉が開き母が顔を見せた。けれども、入り口付近に幾つか果物を置くとすぐに居なくなってしまった。
妹が生まれてからは母が私と同じ空間に一分も居た試しがないと記憶している。
母は私と目も合わせない。私の前では話もしない。
それが当たり前だと思っていたから何も知らなかった時は何も感じなかった。
けれど、妹が生まれてからは全てが変わった。
母が笑った。母が喋った。母が人を見た。母が人に触れた。母が鼻歌を歌うようになった。母が誰かと一緒に部屋を出た。母が、母が妹を大切そうに抱えていた。
妹が生まれてたくさんのことを知った。熱くて苦しくて涙が出るようなことばかり。
そんなことなら最初から知りたくもなかった。
気付けば、胸の苦しさなんて感じなくなった。絵本を読むのをやめた。誰もが幸せになる話なんて遠すぎていまいちしっくりこなかった。
また目を閉じて、何もしないで膝を抱える日々が続いていた。
妹が母の手を離れて家の外に出るようになったのか、家の中が静かな時間が増えた。
母もまた出かけることが多くなって、顔を見せる回数は減り、置いていかれる果物の量が増えた。
いつも通りにお腹が空いたからリンゴをかじっていたら突然、扉が全開になった。
眩しさに目を細めてそちらを見ていると四人の人影が入ってくる。
「ほら、これだよ!うごくおにんぎょう!!」
声を発したのは紛れもなく妹。この部屋には私以外には本と果物くらいしかない。人形なんてあったかな?
ぐるりと辺りを見回してみたけれど、やはり人形なんてない。
妹は私を指差していた。
「しゃべらないし、やせこけてるし、ぶきみで、のろいのおにんぎょうみたいでしょう?おかあさんもこんなのはやくすてちゃえばいいのにね」
妹は私を指差していた手を下ろすと、一緒に入ってきた三人に笑う。
水色の髪の男の子が赤い髪の男の子を見ると、赤い髪の男の子は小さく頷いた。
「んなもんより、あそぼうぜ」
ぐいぐいと赤い髪の男の子は妹の手を引っ張っていく。妹は水色の髪の男の子ともう一人の男の子をちらちらと見ていたけれど、二人はここから立ち去る気配を見せない。
水色の髪の男の子が私に近付いてきて微笑む。その後ろで白髪の少年が私を冷めた目で見ていた。
「こんにちは」
「―…こんにちは?」
人と話したのなんて久しぶり……いや、初めてで凄く掠れた声が出た。
「僕はこれから辰貴になる者。こっちは結月だよ。君は?」
たつきにゆづき、これが名前と言うものだろうか。としたら、今、私は名前を聞かれたの?
私が口をきつく結んで黙っていると、結月と呼ばれた少年が眉間に皺を寄せた。
「名前は何かと聞いてるんだ」
「結月、そんな冷たい言い方したら駄目だよ」
ごめんね、と眉を下げた辰貴と名乗った……いや、これから名乗ると言った少年に慌てて首を横に振る。
何で彼が謝るのだろう?冷たい言い方をしたのはあくまで結月という少年だし、答えなかったのは私。彼が謝る必要はどこにもない。そもそも、彼の言い方を冷たいとは思わなかったけど。
それよりも辰貴って何処かで見たことがある気がする。
「なまえ」
「そう、名前。名字だとあの子と被るでしょう?君の名前を教えて欲しいな」
「―…わからない」
辰貴という少年の表情が固まった。
だってわからない。記憶の中でまともに人と話した覚えがない。ここで唯一、私の名前を知っているであろう母は私について何一つ口にしないから。
バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて、何度か見た覚えのある男が入ってきた。確か、私にとって父という存在。
この人は嫌いだ。顔を見せたかと思えば、痛いことをしてくる。男が来る日は、扉の陰から母がいつもよりも眉と口元を下げる。だから、嫌いだ。
男が私と少年たちの間に割って入る。私は膝を抱える腕を強めた。
「東雲家のご子息、これが失礼をいたしました。きちんと躾し直しておきますゆえ、どうか今日のところはお引き取りを」
「……いや、失礼など何もなかったよ。けど、急に訪ねてきて済まなかったね」
結月、帰ろう。と私たちに背を向けた少年たちをぼんやりと眺める。
辰貴……思い出した。この国の水を司るもの。部屋に転がっていた本の中にあった気がする。難しい言葉がたくさんあって、途中で読むのをやめてしまった本。確か、歴史書と書いてあったと思う。
男が顔を青くして私を見下ろしていた。いや、男の顔色はいつもと変わらない。ただあの二人よりもずっと青い顔をしている。
今さら気付いたのだけれど、これが血の気の引いた顔なんだと思う。人は恐ろしい時とかに顔が青くなると本に書いてあった。
私がじっくりと男の顔を眺めていると、男が私に目を向けた。男の声は震えている。
「何を話した」
「―…なまえがわからない、と」
男が私をきつく睨んだかと思えば、頬に痛みが走った。背中を強く床に打ち付ける。それから何度も色んなところを殴られる。
私がなすがままにされていれば、男は泣きそうな顔で笑う。最初は痛いのが嫌でいっぱい反抗した。でも、反抗すればするほど男の力が強くなるから終わるのを待つようになった。
殴るのが終われば、男は震える手で私を掴む。
「二度と、余計なことを言うんじゃない」
余計なこととやらが何かはわからないけれど、男の手がとても痛そうだったから一度頷いた。男は力なく立ち上がるとよろよろと部屋から出ていく。
食べかけのリンゴは踏み潰されて、とても食べられるものではなくなっていた。
また部屋の隅で膝を抱え、目を閉じて睡魔に身を任せた。
真っ黒な場所で、私は確かに寝ているはずなのに何かを見ていた。
明かりもなくて何も見えないはずなのに、確かにそこに何かが居るのがわかる。
私に凄くよく似たもの。でも、私とは何かが違う。
私と重なる呼吸音が徐々に近くなる。何処までも黒い世界。
目の前に確かに何かが居る。伸ばした手がそれに触れたか触れないか、その瞬間だった。
「や、やめてください!」
女性の大きな声で目を覚ました。母の声だ。でも、あんな声聞いたことがない。
足元に転がる本を避けて、今までに触れたこともなかった扉を開けた。明かりの眩しさに目を細める。
母のすすり泣く音が聞こえる。
行かないと。何となくそんな思いに囚われて足を動かす。
大きな扉。高い位置にある取っ手に手をかけて、ゆっくりと扉を開けた。
男が居た。母も居た。
男が母をきつく睨み付けていた。母は泣いていた。
男が母の胸ぐらを掴んで拳を振り上げていた。母は両腕で必死に頭を隠していた。
男が母に痛いことをされそうになっている。母が痛い思いをしそうになっている。
―…止めないと。
伸ばした左手に、もふもふとした何かが触れた。
左手が何だかとても熱いような気がする。
男と母がこちらを向いた。私を見た瞬間に二人とも顔を青くする。いや、母は元から青い顔色をしていたのだけれど。
母を助けないと。私が一歩近づけば、男は微かに身を引く。
「そのひとにいたいことしちゃだめ」
その人は私に果物をくれる優しい人。おとぎ話の優しい人は皆、幸せになっていた。だからその人が痛い思いなんてしていいはずがない。
「はなして」
男が息を飲む。男の震える手に微かに力がこもるのが見えた。
母は苦しそうにもがく。きっと男の手が母の首を圧迫しているんだ。
「はなせ!」
左手が熱くなって私の周りに風が起こる。左手から放たれた影のようなものが男に向かって突き進む。男は母から手を離して、自身のみを守るように顔を腕で覆った。
しかし、男に突き刺さる前に水に阻まれた。そして、背後から誰かに肩を掴まれた。
びっくりして振り返ると同時に左手を掴まれる。そして左手に何かを嵌められてしまった。
見たこともない水色の目のおじいさんが、人の良さそうな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「駄目だよ、土の宮。そんなことをしたら彼が死んでしまう」
さあ、気持ちを静めなさい、とおじいさんは穏やかに言う。
どうして、どうして男が母を殴るのは許されるのに私が男を攻撃するのは許されないの。
おじいさんを睨み付けて振り払おうとするも、掴まれた左手は全く動かない。
おじいさんはやはり穏やかに笑って、部屋の中を指差した。
「このままだと、彼女は苦しいままだよ?」
おじいさんが示す方向には、母が苦しそうにもがいていた。もちろん、男の手は既に首元から離れている。
おじいさんの言うことから考えれば、母を苦しめているのは私だ。
母を楽にしてあげないと。
おじいさんが言うには心を静めろと、心を静めるって何?落ち着くってことだっけ?どうやって落ち着けばいいの?
おじいさんが微かに眉をしかめた。それから、私に向かって皺だらけの手を伸ばしてきた。
この手は危ない。攻撃しないと。
右手を振り上げると、今度は別の誰かに掴まれた。妹と共に入ってきた結月という男の子が、やはり冷めた目で私を見ていた。
「狼嘉」
彼の掴む手が少しだけ強くなる。
「大丈夫だ、狼嘉」
そう言って頭を撫でられる。何が大丈夫なのか全然わからない。し、狼嘉と言うのが何なのかはわからない。
でも、なんかこんな風にしてもらえるのは嬉しい。心がほっこりとする。
「―…うん」
「落ち着いたか」
「うん」
彼は私から手を離すとおじいさんを見上げた。おじいさんは優しそうに彼を見ていた。
何だか、いいな。
ぼんやりとそれを眺めていたら、彼に手を引かれた。全然、気付かなかったけれど辰貴になるらしい男の子と妹と出ていった赤い髪の男の子も居た。
赤い髪の男の子は唇を尖らせていてとても不機嫌そう。辰貴になるらしい男の子はさっきのおじいさんみたいに穏やかな笑みを浮かべている。
「こいつがろか?」
「そうだよ、紫鳳」
「ほっそ。ほねとかわじゃん」
「五月蝿いぞ、紫鳳」
「うるさいってなんだよ。じじつだろ?」
とっても仲が良さそうな三人。結月という少年は私から手を離した。
―…あの部屋に戻ろう。母はあのおじいさんが居るからきっともう大丈夫。此処は明るくて苦しい。早くあの部屋に戻ろう。
私が歩き始めると、今度は赤い髪の男の子に手を掴まれた。紫鳳と呼ばれていた彼は私を不思議そうに見る。
「どこいくんだよ」
「―…へや」
「へやってあそこか?んなとこ、いくひつようねーよ」
彼はにっこりと私に笑う。
「おまえはつちをつかさどるろか。きょうからおれたちのいもうとだからな!」