託児依頼
「実華、あんたバイト見つかった?」
実家のリビングに荷物を置くやいなや、胸元ヨレヨレキャミ&短パン姿の姉が自室から顔を覗かせて聞いてきた。
姉の自室から漏れでる冷風にしばし癒されてから、鼻の下にかいた玉の汗をぐいと拭うと、返事もせずにリビングの隣に続くキッチンへーー冷蔵庫から麦茶を取り出した。大学の友達には絶対にできないが、家族には無視という超塩対応が普通にできてしまうから不思議だ。
「ねえ、ちょっと聞いてる?」
苛ちな姉は、しかしそっと襖を閉めると、返事を催促するように私の居るダイニングテーブルまで寄ってきた。
「この部屋あっついな」
そう、あっつい。立っているだけでじっとり汗ばんできて不快だし、人とのんびり会話していられるような室温ではないのだ。姉の部屋には2歳にならない甥っ子がいるので、エアコンを効かせているのだろう。右頬に畳の跡があるのを見ると、一緒になって昼寝していて姉だけ起きてきたのか。
ピッと姉がダイニングにあるエアコンを作動させる。快適な室内環境になるまでさほど時間はかからないから、ありがたい。チェアの背に手を置いて立ったまま冷えた麦茶を一気に流し込む。ふう、このセットでようやっと人心地つく。グラスを置いて姉へ向き直る。
「……なんで?」
しかしまだ姉への警戒は解かない。私が夏休みは実家で過ごすと伝えてから、メールでも姉はしつこく同じ質問を繰り返しているのだ。何かあるに違いない。
「なんでって、私も働かないといけないからさ、その間見てて欲しいのよ。うた、のこと」
さらっと託児依頼。
詩人くんとは1才8ヶ月の甥っ子のこと。姉は所謂出戻りで、今年の春に離婚してから両親とここに住んでいる。両親の持ちマンションで、学生時代から使っている6畳の和室に2人で居るようだ。
「えー!?働くって?お父さんのお店でしょ?キッズスペースで詩人くんのこと見ていられないの?」
両親はベビーグッヅ関連商品を、近くで店舗経営している。いまもそこで働いているだろう、営業時間は10時から18時。私もバイトで手伝ったことがあるが、そんなに忙しくきりきり舞いな訳でもなかった。まあ、暇でもないが。そこは家族経営だ、大目にみてもらえるに違いない。てか、孫溺愛の両親のことだから、率先して面倒みてくれそう。
「は?何言ってんの?ムリよ。ムリムリ」
外国人のようにオーバーに首を振る。彫りの深いエキゾチックな面立ちの姉がそうすると様になる。いまはひっつめているが、艶のある黒髪をかきあげる姿に昔は憧れたものだ。まあ、一応美人姉妹で通っているので悪しからず。一方の私は純日本風の顔で、母が秋田県出身なので秋田美人と言われることもあるが、生まれも育ちも東京なのでピンと来ない。髪の毛はショートヘアに昨日バッサリ切ったところだ。肩跳ねを我慢できずにいつもの挫折、憧れのロングにはなれたためしがなかった。
「こっちの台詞だっつーの。ムリだよ、赤ちゃんなんて預かったことないもん。てか、嫌だよ」
拒否!うわっ!めんどくさいこと頼まれるとこだった!!もちろん普通の触れあい程度のことは、せっかくの夏休み、楽しみにしていたけども。二人きりなんて、ハードル高過ぎでしょ。
「お願いお願い!ほんとにそんな面倒なことなんてないの。うた、いいこだから。手も掛からないし、人見知りもない、すぐなつくわよ。……分かった、午前中は連れていく。あんたは、午後の12時半から17時半まででいいから。お昼はもちろん、夜も融通してもらって早めに帰って私が食べさせるし。実華は公園と昼寝に付き合ってくれればいいから。昼寝なんて、オヤツ食べたら勝手に寝るし!ね!あんたも一緒に昼寝したっていーんだからさ」
早口にまくしたてられ.気圧されて息を呑む。その一瞬の隙に、
「一日2000円だすから!」
値段提示されてしまった。思わず突っ込む。
「安っ!!時給400円て!最低賃金以下だし!5000円にして!!」
勢い日給交渉してしまい、しまったと口に手を当て……た、ところでもう遅い。姉の目の端が憎たらしくニヤリと下がったのを悔しいかな見てしまった。
「そんなに出せないわよ。こっちの時給だって1000円ないんだから。3000円!!これ以上ムリ!!」
だから最低賃金、なんでもいいから言い返そうとしたところで、シーっと人差し指で制される。もうヤダ、完全に主導権握られた。
「うた、起きる」
そう言えば最初から姉は声のトーンを抑えていた。相当気を使っているのか、よく見ると目の下にクマ、漂う倦怠感。ちょっと見ない間に老け……ていうか、顔つき険しくなってない?!妊娠前より痩せぎすになってるし。実家に世話になってても子育てって大変なんだ……て!やっぱ大変なんじゃん!
「ねえ、やっぱり難しいよー。私、詩人くんと会うの、ほとんど生まれたとき以来なんだよ?なんかあったら責任取れないって!」
ヨレヨレキャミソールの胸元に黄色いシミが出来ているのに気付いて、姉に指摘すべきかちらちら見ながら逡巡していると、
「ちょっと、変なとこ見ないでよ」
さっとチェアに掛けてあったパーカーを羽織だした。あ、それ私の。無くしたと思ってたら、パクられてた!!
着古されたパーカーを今さら返せとも言えないし、文句くらいは言いたいけど……、でも姉はキャミの染み気にしてるみたいだし。
お互いの思いがカオスに交錯している気まずい雰囲気の中、
「とにかく、今さらそんなこと言われても困るから。なんかあったらケータイ鳴らせばいーでしょ。すぐ近くにいるんだから、飛んで来るわよ」
ここぞと一気に押し通されてしまった。
「じゃあ明日からよろしくね。明日は午後からバイト行くから、午前中にうたの世話の仕方教えるからね」
襖の奥にひらりと姿を消す姉の背中を見ながら、大学2年の夏、たぶん気兼ねせず遊べる最後の、二十歳の夏が、ロマンスとは縁遠いものになるであろうことを思って深いため息を吐いた。