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背中合わせに繋いだ両手  作者: けら をばな
第一話 猫と青鬼と私
4/19

 恵と優は神社のお堂の中にいた。こぢんまりとした社の中である。

 土に固められた壁。板張りの床。神棚に据えられたご神体の鏡。見上げたならば、茅を支える木の骨組み。格子戸から這い入り込む、初夏のぽわぽわとした日差しに、むせるほどの苔と林のにおい。

 そして、かすかな風に木々が葉を擦る以外には、静か。

「愚虞羅」

 優に呼ばれると、天井からぽたりと狸の愚虞羅が落ちてきた。

「具離」

 続いて恵が、竹筒を取り出して狐の具離を呼んだ。金色の糸が這い出して、途端に具離を形作った。

 優はゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐いた。

「かの〝天児屋命(あめのこやねのみこと)〟が御姿どうかここに(ましま)せ給うや」

 愚虞羅は葉っぱを頭に乗せて宙返り。すると途端に、にゅるり、老人へと姿を変えた。白髪で白く長い髭、大きな花で腰の曲がった小さな老人である。服装は、

(……あれってなんていう服なのかな。歴史の教科書でしか見ないけど。古墳時代の最先端衣装?)

 と恵が感想を持つような衣装を召している。筒袖にゆったりとした袴。首にも手首にも勾玉を通した糸をじゃらじゃら付けている。

 続いて恵が、大きく息を吸って、吐いた。

「かの〝布刀玉命(ふとだまのみこと)〟が御姿どうかここに(ましま)せ給うや」

 緊張した面持ちで言葉を紡ぐ。具離は愚虞羅同様葉っぱを頭に乗せて、宙返り。するとにゅるりと姿を変えて……長い黒髪、きりりとした瞳で眼鏡をかけて、学校の夏制服を着たそばかす混じりの女学生へとなった。

(……怒られる)

 恵は瞳を優と合わせないようにして沈黙を守った。

「説明」

「はい! 〝布刀玉命(ふとだまのみこと)〟が占いの神様であることを聞いて、真っ先に思ったのが〝そーいえば、なんかクラスの女子が血液型占いやってたなー〟でありまして! 占いイコール女子という等式ができあがってしまっていたわけでございまして! 恐らくそのイメージが反映されてしまった結果だと!」

「見た目は、あんたの好み?」

「うーん、どーでしょ。姉さんに似ては居ますが、やっぱり本物には敵わないというのが感想です」

 優は大きく溜息をついた。宙に浮いている女子高生らしき姿へ変じた具離を見た。腰をくねらせたりウインクしたり、何故だかお色気アピールをしている。優は再び大きく溜息。

「ま、仕方ないわ。ダメ元でやってみましょう」

「はい! お任せ下さい!」

「返事だけは良いんだから……」

 さて、そうして儀式は強引に進む。愚虞羅扮した老人が床にそっと手を置いた。途端に、どろりと融解しタールのようなどす黒い溜まりができた。愚虞羅は躊躇なくそこへ手を突っ込む。探るような仕草の後手を引き上げると、そこには鹿のような頭蓋の骨が握られていた。

 続いて女子高生に扮した具離がその頭蓋に手を置いた。すると熱を帯びたように赤く灯った。

 優はプリントアウトした例の写真群を制服の胸ポケットから取り出してばらまいた。写真は重力に逆らって空中を旋回し、ボッと突然発火した。炎から首と手足が生えて、旋回しながら楽しげに踊り出し始めた。

 パリンと鹿の頭蓋が割れた。途端に旋回していた炎も写真も一度に消えた。すると頭蓋が粉々に砕けて、さらさらと地を這って、にょろにょろと意思を持ったように動き回り最後には、

「ここより西へ一里二町一間。南へ二里二町三間。猫を蝟集し堆く積み上げし男、四方石壁に囲まれり(むろ)にてひとり座す」

 と描かれた文字を……達筆な草書体で恵も優も読めなかったので、代わりに愚虞羅が読み上げた。

「……成功、しましたか?」

 恵が優を見る。

「そのようね」

 優は溜息をついて、少し不満げに、女子高生に変じた具離に視線を投げた。具離は依然として微笑しながらお色気アピールを続けている。

「もういいわよ」

 具離は床に足をつけると、途端に元の通りの金色の狐へと戻った。愚虞羅は疲れたように溜息をついて、どっこいしょ、と言う風にバク転をすると、もとの姿へと戻った。

「いやぁ、かなりうまくいきやしたね。はじめはどうなることかと思いやしたが」

「ほんとにね」恵が答えた。

「多分、お相手さんが素人だからうまくいったんでしょう。気配を消されていたらこうはいかないから、しっかり勉強しなさい」

「はーい」

「返事だけは良いんだから……」



 さて、ふたりは二階建ての小さなアパートへと辿り着いた。見た目には平凡極まりないが、ふたりには、そこに纏わり付く不吉な空気に足を止めた。

「恵」

「はい、油断はしません」

 あまりに突然、何かが扉を突き破って飛び出してきた。気を張っていたつもりだが、想像を超えて速い。何かの拳が恵の顔面を狙った。拳が顔を抉る、その直前に、優が何かの脇腹に蹴りを食らわせ吹き飛ばした。

「留! 愚虞羅!」

 いつもの所作で、白狼の留と小さな狸の愚虞羅を呼び出した。留は牙と敵意を剥き出しにして、愚虞羅も鋭い瞳とゆがめた口許で威嚇している。

「具離!」

 ようやく恵も竹筒を取り出して狐の具離を呼んだ。具離もまた、いつもの余裕ぶった表情ではなく、糸目でその何かを見据えて尻尾をピンと天に伸ばしている。

「どうやら、素人だけど、大物よ」

 優はスカートのポケットから瓶を取り出して、ひと口飲んだ。するとすぐさま顔がほんのり赤くなって、瞳が更に鋭くなった。


 がぁあああぁあああッ!


 何かが雷鳴のように叫んだ。

 何か。二メートル近い長身で、筋張った手足の男だ。不健康なほど痩せていて、頬はこけているせいか瞳はぎょろりと大きい。そして何より青い肌をしている。頭には山羊のようにうねった角がある。そういうわけで人間だかどうだかは判別が付きにくい。


 ぐああぁがあぁあああああああッ!


 突如としてそれ以上の声で具離が鳴いた。本能だろうか? いつもとは異なる行動に、恵は動揺したし、優も少しだけ驚いた様子だ。

 男は一瞬たじろいだ。そしてキョロキョロと辺りを見渡した後、逃げた。

「んあ!」

 恵も優もすぐには反応できなかった。

 男を追おうとした恵を、優は引き止めた。

「待ちなさい」

「姉さん?」

「アンタは待っていなさい。わたしがやる」

「嫌です」恵はすぐに答えた。

「恵」

「昔みたいなのは、嫌です。姉さんをひとりにはさせません」

「恵!」

「止められても行きます。姉さんが知らないところでひとり苦しむのは、絶対に嫌です。側に居ます」

 恵の瞳は本気そのものだった。優は眉をひそめて唇をキュッと噛んだ。が、次の瞬間にはいつも通りの表情へ戻っていた。

「まったく。仕方ないわね。全力で行くわよ。憑依を許すわ。……留、入りなさい」

 優が命じると、留は優の額目掛けて飛び跳ねた。その巨体は、そのまま額に吸い込まれてたちまち消えてしまった。

 優は膝からガクンと崩れ落ちた。全身から汗を噴き出させ、がくがくと小刻みに振るわせた。

「んぁあ……!」

 頬を紅に染めて熱っぽい吐息の後、長い黒髪が一瞬にして真っ白になった。と、同時にぴょこんぴょこんと頭から留のものと同じ真っ白な耳、腰辺りから尻尾、頬から左右三本ずつ長い髭が生えた。犬歯は人間のものでは有り得ないくらい長く尖っていた。

「ふぅ……。って、アンタも早くしなさいよ。行くんでしょ」

 優は微動だにしない恵に首を傾がせた。

「いや、だって。見たいもの。そこは譲れない」

「さっさと」

「はい。……具離、入れ」

 命ぜられ、具離もまた彼の額目掛けて跳んだ。額の中に入り込むと、こちらは苦しむような様子もなく、髪が金色に染まり、具離同様の耳、尻尾、髭がすんなりと生えた。

「……羨ましいくらいのシンクロね」

「何ででしょうね」

 恵はぴょこぴょこと尻尾と耳を動かす。

「知ったこっちゃないわ。んじゃ、行くわよ」

「はい」

 ふたりの姿は瞬く間に陽炎のように消えた。



 男は森の中で立ち止まっていた。例の、猫の死体の山と魔方陣が描かれていた場所だ。待ち構えていたかのように、現れたふたりを見据えていた。

「かわいげがないわね」

「小物風情が。ナメられたもんですね」

 恵は瞳を爛々と輝かせている。こつん、と優は恵の頭を小突く。

「……すみません、ちょっと凶暴になってました」

「気をつけなさい」

 憑依させると性格が凶暴化するので、恵に関しては許可制を敷いている。

 ふたりの会話を遮って、男が吼えた。

 すると……


あな口惜しや

 我が身飢えさせ耐えしことを

君が姿は(まさ)春風細(さい)(なん)なり

 我が心は(まさ)に冬枯れが如しなり

あな口惜しや

 君が心を満たせざるがままに去ることを


 そんな詩が二人の頭に直接注がれた。

「……随分ロマンチストね」

「男なんてこんなもんです。ぼくにも憶えがあります。……まあ〝青鬼の詩〟なんですけどね。図書館の昔話集めたやつに書いてありました」

「どうでもいい」

「そーですか……」

 男の身体から真っ青な霧が溢れ出した。もくもくもくと大量に噴き出して、男の身体を包み隠し……もくもくもくもく、もくもくもくもく……みるみるうちに巨大な塊を作った。にょき。にょき。手が生え脚が生え。頭が生えて、最後には角が生えた。

 その高さ、おおよそ二十メートルはあるだろうか。筋肉隆々で、青い肌は鋼のように硬そうで、憤怒の形相で瞳からは真っ赤な涙を流している。

「……姉さん、でかいです」

「見りゃ分かる。来るわ」

 鬼は拳を強く握り締めた。にわかに風が立ち、真っ黒な雲がたちまち立ち籠めた。ざあざあと木の葉が舞い、枝葉がざわめく。森がおののいているようだ。

 ずどん。何の予備動作もなく振り下ろされた拳は力強く地を深く抉った。鬼は腕をどかす。クレーター痕にふたりの姉弟の姿はなかった。その一撃には巻き込まれず、森の木陰に身を隠して機会をうかがっていた。

 鬼はきょろきょろと辺りを見渡す。

 がさ――。物音。すかさず繰り出される拳。作り出されるクレーター。確かな感触。拳の下を確認。そこにあったのは、金色の狐の姿。狐は鬼と瞳を合わせると、にぃっといやらしく口をゆがませて、ぽんっと身体を煙に変えた。

 がさ。がさ。がさ。がさ。鬼を囲んで、いたるところから物音が立てられる。

 鬼が顔をしかめたと同時に、一斉に狐が四方八方から飛び出して飛びかかる。その数、百を超える。鬼の鋼のような皮膚に牙を立て、同時に発火。狐の一匹一匹が身体を燃料にして激しい炎を舞い上げて、鬼の皮膚をただれさせる。

 あああぁぁああああッ!

 苦しみ雄叫びを上げる青鬼。じたばたといくらもがいても牙が深く突き刺さっていて離れてくれない。

「ざまぁみろッ!」

 木陰に隠れていた恵がにぃっと口の端を吊り上げて笑い、勢い任せに飛び出して、四つ足で地を這い風になった。

「あンの馬鹿ッ!」

 優は追う。だが、速い。恵は四つ足で走っているうちに、大きな狐へと化けてしまった。ぱちぱちと身体中から火花が飛んで、次第に炎にその身を包ませた。そして空高く飛び跳ねて、青鬼の額へと噛みついて同時に身体を激しく燃やした。

 青鬼は炎の柱に包まれながらも、その顔を憤怒にゆがめた。そして、

 がぁああああああああッ!

 咆吼。空気を強く強くびりびりと振るわせた。恵の身体へ衝撃が伝播し雷にでも打たれたようにがくがくと痺れる。

 ぽんぽんぽんぽんぽん。纏わり付いていた狐の大群が次々と煙となって消えた。恵は途端に力が抜けた。彼の額からぎゅるぎゅると金色の狐の具離がぐったりとした身体を現して、恵は通常通りの姿へと戻ってしまった。そして青鬼の額、つまりは地上二十メートルから自由落下を開始した。

「もうッ!」

 優がどうにか恵と具離の両方を受け止めた。肌がただれ怒り狂った青鬼は、恵を優もろとも踏みつぶそうとした。

 どすん。

「ぐッ!」

 優は、片手にぐったりとした恵を抱き、もう片方で青鬼の巨大な足を止める。青鬼が足に力を込める。地面がゴガンゴガンと円形にえぐれる。

 それでも優は負けない。口から血が滴り落ちるほど歯を食いしばって、耐える。脚ががくがくと震える。それでも、更に力を込めて押し返す。

 青鬼がいくら力を込めても、ついには微動だにしない。ピキピキと青鬼の皮膚が熱せられたガラスのように音を立ててヒビが入る。青鬼は驚いて足を離す。

 優は肩で息をしながらも、鋭い瞳で睨み付ける。青鬼は仰け反って一歩二歩後退り。

 優は髪の毛を一本プツンと抜き取ってひらひら揺らすと、それを一瞬で手品のように、勾玉のじゃらじゃらと巻き付いた両刃の刀へと変身させてしまった。

 そして何の前置きもなく跳び跳ねて、遠慮も躊躇もなく鬼の右腕を肩から斬り落としてしまった。

 あ、あ、ぁ、あ、あ、ア、あぁああああああああッ!

 苦しみわめきたてる。どすん、めきめきめきめきめき。落下した巨大な腕が大木をなぎ倒す。太く大きい、力強い腕を、いとも簡単に、綺麗にすっぱりと斬り落としてしまった。

 一転優勢……に思えたが、優は着地してよろりとバランスを崩す。息が荒い。続けざまに攻撃は少々難しい。

 しかし青鬼はそんなことに気づかずおののき竦む。きょろきょろと見回して突破口を探す。

 怯える。縋る。

 そして丁度その時である。

「うっ……」

 地面に寝そべっていた恵が目を醒まし身体を起こす。そして青鬼と目を合わせる。

 恵は、青鬼の瞳の中に、優しい光を垣間見た。

(なんか、いい人そうだなー)

 暢気にもそう思った。言うなれば、付け入る隙を与えた。

 その瞬間に恵の中に何かが這入り込んだ。恵の脳内に、真っ黒な背景に浮かぶ無数の猫の瞳がイメージされた。

(やばい――ッ!)

 本能からそう思ったが遅い。恵の脳内に記憶が次々と流れ込み、ひとの人生を、さまざまなことを勝手に体験させられた。


 彼は勉強をして東京の大学に行った。

 彼は親に励まされながら心配されながらひとり暮らしを始めた。

 彼は友達ができなかった。

 彼は無為に四年間を過ごした。

 彼はあまり良い会社に就職できなかった。

 彼ははじめのうち、彼なりにがんばった。

 しかし、彼は逃げた。

 彼の親は、彼を罵った。

 彼には味方が居なかった。

 (つい)には、彼には逃げ場さえなくなった。


 そんな、赤の他人の人生の断片を無理矢理突きつけられて、恵はついつい思ってしまうのだった。


(かわいそうじゃないか……)


 その瞬間、にぃっと、彼の頭に浮かんでいた猫の瞳が一斉に笑った。

 途端に彼の身体は金縛りに遭った。声も出ない、息もできない。心臓を鷲づかみにされたように、血の流れさえも留まった。のたうち回ることさえもできなくなった。

 恵が青鬼と目を合わせてから数秒も経っていないのだが、

「恵ッ!」

 優はすぐに彼の異変に気づき、叫ぶ。足がふらつく。

 その様子を青鬼は見ていた。

 青鬼は余裕を取り戻し、にぃっと口をゆがめた。斬り落とされたはずの右腕がひとりでに浮遊した。優を目掛けて空を切って飛び、そのまま彼女の身体を大きな掌で掴み、きりきりと締め付けた。

「くッ!」

 もがけどももがけども身動きが取れない。青鬼は一旦彼女を無視して、残った左腕で恵に拳を叩きつけた――。

 どすん。拳は恵に届かなかった。代わりに鬼の左腕が、膾になってドスンドスンと次々地へ落ちていった。

 青鬼は、いったい何をされたのか、何が起こったのか、何ひとつ理解できなかった。

 ただ、彼の目の前には、空中に張り付いたように静止する男の姿があった。手には巨大な両刃の剣。太く濃い凛々しい眉、腰まで蓄えたごうごうと堅そうな髭、腰には実に八本もの大小の剣を携えている。男はギョロリと不動妙王のような瞳で鬼を睨みつけた。

「調子乗ってくれたじゃねぇか小僧」

 それは愚虞羅の声だったが、それには剥き出しの怒りがあった。ケモノ的な衝動があった。

 優は、青鬼に握りつぶされながら、ふうっと溜息をついた。

「ありがとう、愚虞羅。愚弟が迷惑をかけるわね」

「これくらいどうってことございやせん。さァ、アネゴ、お待たせしました。さァさァ、ご命令を。アネゴのお召し物に泥を跳ねやがった落とし前、つけてもらいやしょうや」

「ええ、いいわ。思う存分やりなさい。暴れなさい、〝建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)〟……」

「応ッ!」

 愚虞羅は手に握った剣をパチンと鞘に収め、再び八本の剣のうちのひとつ、特に一番みすぼらしい短剣を抜き放ち、空高くかざした。

 暗雲が濃く折り重なった。ごろごろごろごろ。天ががなり立てる。雷が蜘蛛の巣状に黒雲を這い回る。青鬼が怯える。

「ごめんなさい、鶏は用意できなかったわ。でも安心なさい。苦しむいとまなんて与えないから」

 愚虞羅が剣を振り下ろした。

 雷が青鬼の脳天へと突き刺さった。



 青鬼はその姿を保てずにぼろぼろと崩れ落ちた。すると崩れ落ちた破片のひとつひとつが黒く変色して、にゅっと尻尾と四つの足が飛び出して猫を形作った。すとんすとんと着地して、行く当てもなくその場に立ち尽くしてにゃあにゃあと寂しげに鳴いていた。

 そして青鬼の額があった位置から、やせ細った男の姿が現れた。気を失って、そのまんま重力に引き寄せられるままに落下していった。

「おおっと! こいつァいけませんねえ!」

 愚虞羅は空中で宙返りしてもとの狸の姿へ戻り、空中を掻いて掻いて魚のように泳ぎ、すぐに男へ追い付いた。そして股間の管へ息を吹き込み、袋を大きく膨らませ、ぼすんと男をそこへ着地させた。傷ひとつない。

 優はその様子を一瞥し、

「……別に助けなくたってよかったのに」

「アネゴ、恵のダンナいたぶられて腹が立つのは分かりやす。しかし人殺しは後味が悪いし、何より恵のダンナが悲しみやす」

「……別に、本気で言ってないわよ」

「へいへい、分かっておりやす」

 ふて腐れたようにそっぽを向く優に、愚虞羅はにっこりと笑って、そしてまた宙返りすると、空気に解けて消えてしまった。

「……さて」

 優は未だ苦しみもがく恵に近寄った。

「恵」

 手を差し伸べようとせず、じっと冷たく見下ろしていた。

「自分でどうにかなさい。それ以外に方法はない。在れば教えて貰いたいくらいよ。……解っているでしょう。押し付けられた未来を、地面這いつくばって生きて行くしかないのよ」

 恵はゆらゆら揺れる視界の中で、優の姿を捉えた。声を聞いた。げほげほと咳をする度、口から真っ黒な霧が吐き出される。依然息はできない。それでも両手を地について、膝を立てる。げほげほと黒い煙を吐き出させる。じっとりと額に脂汗を浮かべて、がくがくと震える身体を懸命に支えながら、立つ。

 すると恵の口からどろりと真っ黒な塊が吐き出されて、途端に猫を形作り、周りでにゃあにゃあ騒ぐ群れに混ざった。

 足がよろめいた。優は咄嗟にそれを抱き留めた。

「……がんばりました」

「……うん」

「これからもがんばりますのでよろしくお願いします」

「……うん」

 恵は優から離れて、にっこりと朗らかな笑みを見せた。優は何かを誤魔化すように、ぷいっとそっぽを向いた。

 さて、もう少しだけやるべきことが残っている。ふたりの足下に、にゃあにゃあと騒ぎ立てる猫たちの魂。

「送ります」

 恵は髪の毛をぴっと抜いてゆらゆら揺らす。すると手品のように横笛が現れた。祭りなどで囃し立てる、普通の篠笛である。

「ぼくの中に居場所は作ってあげられないけど、送り届けることはできるから。どうか、皆が苦しむ必要がない場所へ」

「……相変わらず言うことが甘いわね」

 恵は口を当てて吹いた。

 ここ九喜(ここのき)町では死者を送るとき笛を鳴らす。棺を担ぎ笛の音を響かせ町を練り歩くのだ。仏教支配が強いこの地だが、そういう神道的な風習は未だ色濃く残っている。

 彼の笛の音が風に乗る。猫の魂もまた、風に乗って、次々溶けていった。

 そして最後の一匹が溶けて去っても、なお、恵は笛を吹き続けた。

 誰のために吹いているのだろうか。彼自身も理解できないまま、延々と吹き続けた。

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