二
九喜町。
〝八重の潮風到る処、一重の衣で肌に当たれば、此れ総じて九喜と為す〟。などと、その昔或る高名な歌人に謳われた町(しかしこの詩は後の人が観光事業のために作り上げたとも言われている)。
表情豊かな海を南に臨み、神々の住まうと讃えられ、野生の桜が数あまたに咲き誇る山々を北にそなえた、美しい町だ。
主な産業は漁業と農業である。海には大きな漁港と切り立った岸。山には幾重にも棚田が配置されている。しかしどちらも衰退傾向。この町の重要な収入源だった観光事業についても、昨今縮小傾向にある。
さて、この町にはそのほかに種々様々な神秘的な伝承がある。古来、不老不死の銀髪の女がここに逗留しただとか、巨大な鮫と喧嘩する白兎の話だとか、狼を欺いた狸の話だとか、いちいち数え上げては暇がない。
しかしながらそんな伝承もまた、知っているのは年寄りばかりで、町と同様衰退傾向にあるのだった。
*
さてさて、猫に憑かれていた少年は、高熱を出して寝込んでしまった。優の診断結果では熱の方は霊的な作用ではない、とのこと。
「長いこと憑かれていたから、疲れちゃったんですかね」
「そうね」
「…………」
「後悔するんだったら言わなきゃ良いのよ」
とりあえず、少年のことは医者に任せてふたりは猫の儀式の謎を追った。
そして優と恵のふたりは、こぢんまりとした、そして本がそこら中に転がった和室で、老婆を前に正座している。
「ふーん、猫の死体かき集めて山こさえるなんざ聞いたことないねぇ」
八十半ばか? 皺は深く肌の張りは失われて幾十年絶つのだろうか。疾うに背中は丸まっているが、瞳には威圧的な鋭さがある。
「典子さんでも分かりませんか。……これがその死体の山です」
優は携帯を典子に渡した。典子は一瞥し顔をしかめた。
「ふん、贄のつもりだか何か知らないが、まァ趣味の悪いこと」
「憑かれていた子供ですが――」
「そいつがコレをこさえたとなりゃ話は簡単。『猫を殺して恨みを買って憑かれました』。目的がどうであれそのガキ叱りつけて二度としませんって言わせりゃ、ま、こんなことがあった後だ、言うこと聞くだろうさ。んだがねぇ、もしそいつ以外が犯人なら、いろいろと調べなきゃならんだろうね」
「……それと、これが死体の下に描かれていた模様です」
優は続けて例の魔方陣を見せた。魔方陣に描かれていたのは〝鶏〟だ。それが三匹。
「ふーむ。これはこれは……」
猫と鶏。どうも典子には何かピンときたようだ。
「お前さんたち、『ネコマタと青鬼』って聞いたことないかい? 恵、お前どうだ」
「あ、うん、それなら知ってる。典子ばあちゃんに昔聞かされたよ」
恵は目を輝かせて、遠い昔でも思い出すように語り始めた。
猫又と青鬼
ある所に猫又の三姉妹がおりました。三匹とも化けるのが得意で、なんにでも簡単に化けることができました。
ある晴れの日、三匹は戯れに髪の長い美しい娘へと化け、着飾って野へ遊びに行きました。
そこへ現れたのは巨大な青鬼。早速猫又に一目惚れして、
「誰かひとり我が嫁になれ。断れば三人とも食い殺してやるぞ」
と脅しました。
鬼の嫁なんざまっぴらごめんと、長女と次女は断固拒否しました。ならば、と性根の優しい末の妹が引き受けて、青鬼と結婚することになりました。
母は、鬼なんぞのところへと嫁に行く娘を案じ、赤と白と黒の鶏を渡しました。
「いいかい、もし結婚生活に満足していたら、白い鶏を放って鳴かせなさい。もし不幸せなものだったら、黒い鶏を放って鳴かせなさい」
娘は嫁いで行きました。結婚してもしばらくは猫又であることはばれませんでした。そして喜ばしいことに、結婚生活は幸せなものでした。青鬼は娘にとてもよくしてくれました。
ある日、青鬼は言いました。
「いいかい、絶対に裏山のてっぺんに行ってはいけないよ。恐ろしいことが起きるからね」
しかし娘は好奇心から裏山へと行ってしまいました。
その頂で娘は、内蔵をくり貫かれ絶命した猫の死体の山を見てしまいました。
青鬼がやったのでしょう。猫又であることがばれたら自分もこれと同じ目に遭ってしまう。
娘は怯え、急いで家に帰って黒い鶏を放し叫ばせました。その声は凶兆を呼ぶものでした。黒々とした雷雲がたちまち立ちこめて、雷が青鬼に落ちました。
青鬼は、その雷が娘によるものだということが分かりました。
「ああ、お前が猫であることなどとうに知っていたというのに。お前と暮らしてからは、好物の猫を一匹たりとも食べていないというのに」
青鬼は灰になって死んでしまいました。
それを聞いた娘は嘆き悲しみ、悔い、最後には死んでしまいましたとさ。
ドントハレ……。
「つっこみ所が多すぎる」
「……姉さん、第一声がそれですか」
難しい顔で眉をひそめる優と、苦笑する恵。
「三姉妹の意味あった? 赤の鶏なんてまったく話に絡んでないけど? 母親もそんな便利なもの持ってるんだったら初めに使って殺しときなさいよ。青鬼も雷がそいつによるものだって、どうして分かったのよ」
「いや、聞かれましても……。民話だの昔話だの神話だのは、だいたいそういうのばっかりじゃないですか」
「開き直らないで。ちゃんと説明しなさい」
「ぼくに言われても!」
「……あんたたち姉弟は相変わらずだねぇ」典子は呆れたように呟いて、煙管に煙草を詰め火を点けた。「さて、あんたたちは猫の死体の山をみて、どう思った?」
「どこの馬鹿の仕業かしら、と思ったわ」
「いやー、もう気が動転して何がなんだか……」
それぞれ答えた。
「そうそう、それでいい」
典子は芝居がかったように大きく頷いた。
「かわいそうだ、なんて思っちまったらつけ込まれるからね。まったく、人間と同じさ。まァあんたらほど力がありゃ猫の死霊ごときにそんなヘマはしないだろうけどね」
不意に、明け放れた障子から庭を眺めた。庭には、五匹の雀が降り立って勝手気ままに啼いた。
「やれやれ、あたしの言えることはそんなところさ。後はお前さんたちでどうにかしな」
典子はふうっと白く濁った煙を吐いて背中を向けた。
すると計ったように、五羽の雀のうちの二羽がちゅんちゅんと鳴きながら優の肩に留まった。その耳元で、人の言葉を微かに囁いた。
「どうしました?」恵が聞いた。
「例の子供が目覚めたって」優は感情の起伏無しに答え立ち上がった。
*
ふたりはくだんの家へと舞い戻った。玄関で少年の母親に会うと、ぺこぺこと何度も何度も頭を下げられ礼を述べられた。
「ありがとうございますありがとうございます! 元の通りの優しい子に戻ってくれて! このご恩はなんとしても」
「貴方からは要らないわ。報酬ならそれなりの金額を貰っている」
優は表情を変えずに突っぱねた。
(……貰ってんだよね。国から)
流石に「我々は国民の皆様の血税でオカルト事象を解決しております」などとは言えなかった。
「それよりも、息子さんにいろいろ聞きたいことがあるわ。部屋には絶対に入ってこないように」
返事も待たず我が物顔にずかずかと少年の部屋を目指す。この姉ほどの傍若無人さを持ち合わせない恵は、気後れしながらもそれに続いた。
戸を開ける。少年はぼうっと布団に寝転がっていたがふたりの姿を見ると慌てて身体を起こした。
「寝たままでいいわよ」
「いえ、そういうわけには……」
パジャマ姿を見られたのが恥ずかしいのか? 申し訳なさそうに顔を赤くした。
(ふーん。こんな調子じゃ、確かに引き籠もられたらびっくりするかも)
恵はそんな感想を抱きながら、少年の側に座した優の隣に同じように座った。
「アネゴ、特に怪しげな気配は感じられやせんでした」
少年の枕元に座っていた狸の愚虞羅が報告した。
「そう」優は視線を少年に向けた。「病み上がりのところ悪いけど、あなたに聞きたいことがあるわ」
「あ、あの……」
鋭い瞳に少年は竦んだ。
「姉さん、そんな脅さなくっても」
「……脅してなんかいないんだけど」
優は不機嫌そうに少し口を尖らせた。
「うわ、めちゃくちゃかわいい」恵は感想を心だけに留めておくことができなかった。
「恵のダンナ、そんなこと言ってる場合じゃありやせんぜ」
「いや、だってめちゃくちゃかわいい」
「二度仰られても困りやす。まったく、恵のダンナは大物なのか何なのか」
「いつもめちゃくちゃかわいい」
「あ、馬鹿なんすね」
「そうじゃなくて」優はムッとしながらもう一度仕切り直す。「あなた、自分がどうしてああいう風になってしまったのか、心当たりがあれば聞かせて欲しいのだけど」
少年は俯いて、身体を震わせた。恐怖している。ぽつりぽつりと雨だれのように話し始めた。
彼は中学のオリエンテーリングであの山へと登ったらしい。そして友人らとふざけ合って、山でかくれんぼが始まったようだ。
「中学生にも成って?」
「あの、すみません……」少年は頬を赤くした。
「姉さん、中学生なんてそんなものです。ぼくにも憶えがあります」
「アネゴも、結構変なところにこだわりやすよね……」
さてそこからである。山の森の中を進んだ。あの山に行くのは初めてではないし、慣れていた。
「そこで、見たんです。あの……」
少年はぎゅっと布団を握り締める。
森の中で男の後ろ姿を発見した。どうしてこんなところに? と訝しんだが、そんなものすぐに吹き飛んだ。
男は、猫の腹を乱暴に引き裂いて腸を喰らっていた。
「それからのことは……全然……」
どうしたことか、少年は背中を丸まらせて、息を止め苦しそうに身体を震わせた。顔がみるみる青ざめてゆく。
「まったく」優は面倒そうに少年の後ろに座った。「しっかりなさい」
優は少年の背中を、バンと一発叩いた。少年はその一撃で正気を取り戻したように大きく息を吸って、その後ぜえぜえと肩で息をしながら玉のような汗を滴らせた。
「そんなんじゃ、これから先もつけ込まれるわよ。人間にだってね」
「は……はい……すみません……」
少年はしゅんとして俯いた。
(……これ以上の情報は望めないかな)
恵は優を見た。優も同意見なのか目を合わせ頷いた。
「愚虞羅、いつもの」
「はーいな」
愚虞羅は優に指示されると、前足を揉み、そこから沸いて出たすすを少年に吹きかけた。
「え?」
少年はそのひと言だけ残して、こてんと横になってしまった。優は立ち上がる。恵が少年の布団を掛け直す頃には、既に部屋を出て行ってしまった。
心配して待っていた母親はふたりの姿を見ると駆け寄ってきた。
「あ、あの、息子はどう――」
「愚虞羅」
愚虞羅は同様にすすを母親にも吹きかけた。母親も、こてんと横になった。恵が慌てて、すぐ側の洋間のソファーに母親を横たわらせる頃には、既に優は玄関の外へと出て行ってしまっていた。
「待って下さいよー」
恵は優を小走りに追った。
「まったく。どーせすぐ起きるからいいのに」
優は溜息をひとつ。
起きた頃にはもう、この姉弟に関する記憶はなくなっている。「誰か」が助けてくれた。「誰か」と会話をした。しかしそれが「誰」なのか、思い出せなくなっている。
「あの様子じゃこれ以上危害が加わる様子もないわね。ただ犯人捜しには繋がらなかったけど」
「そうですねー」
恵は生返事をしながら、きょろきょろと背後の家を気にしていた。
(ふたりとも、大丈夫かなぁ……)
優はその様子を敏感に感じ取った。
「……恵。あんまり気をかけるのはやめなさい。あのふたりをこちら側へ引き寄せることになるわ」
「……はい。すみません」
注意されると、もう振り返ることはなくなった。