一
空があくびしていた。水を張った水田に、きらきらと陽の光が反射していた。西の空に、あくび後の涙のように、少しだけ黒い雲が漂っていた。
虫と鳥、そして自動車の排気音。長閑で、あまりにも退屈だった。惰性が支配していた。眠るものは眠り続け、歩くものは目的もなく歩き続けるだけだった。
「姉さん」
しばらく黙って連れ立っていたふたりだが、沈黙に耐えかねたように、学生服姿の恵が、黒目がちな瞳を上目遣いに優に声をかけた。
「何?」
同じく学生服姿の優は、恵を睨みつける。単に瞳を向けただけなのだが、第三者にはそう捉えられかねない瞳の鋭さである。
しかしながら、そこは弟である。たじろぐ様子もなく、
「いえ、今日もかわいいなぁと思って。どうして姉さんはいつもいつもそんなにかわいいのでしょうか。かわいくないときがひとときでもありましたか? 少なくともぼくの記憶にはありません。笑っているときはもちろん、怒っているときも、泣いているときでさえも、罪悪感を感じながらもかわいらしいと思ってしまう。ああ、罪深い。その罪はぼくだけのものでしょうか? その、姉さんのかわいらしさもまた同様に、罪ではなかろうか? しかしぼくは、その罪を喜んで背負いましょう。そう、姉さんは、いつだって、かわいらしい。もうぼくは困っちゃいますよ」
と軽く演説して小さな掌で力強い拳を作る。
「…………」
優は視線を外して、表情も変えずすたすたと、やや歩調を速めて歩く。恵は慌て気味に小走りで追う。
「んああー、無視しないでー。冗談ですー、冗談です。いや、姉さんがかわいいのは本当のことですけど、それは今重要なことじゃない。いや? いやいやいやいや、違う。姉さんのかわいらしさ以上に重要なことがこの世にあろうか? いや、無い」
「用件を」
やはり姉と弟である。優はいつもの通りだという風に表情一つ変えない。
恵は半ば諦めたように、
「あー、はい。今日行く所なんですけど……今回の案件、本当に、あの、アッチ側関係なのかなー、と思って」
と、やや声のトーンを落として遠慮がちに聞いた。
〝アッチ側〟。
日常生活ではまず使わない言葉である。
そんな恵に対し優はと言うとまったく調子を変えない。
「さぁね。とりあえずポストに投函されていたのは、
『大人しかった中学二年の息子が急に凶暴になって引きこもっちゃいました。どうにかなりませんか』
だけですもの。そこまでうかがい知れたものではないわ」
「中学二年なんて、豹変するのにうってつけの時期じゃないですか」
優の調子に引っ張られてか、恵は先程までの遠慮のない口調に戻った。優は少々鬱陶しそうに眉をひそめた。
「だから、知ったこっちゃないわよ。先ずは行って確かめる。違ったら『時間をかけて根気強く接してあげてください』とかなんとか言って、適当に医者でもカウンセラーでも紹介して切り上げればいいわ」
「……うーん。憑き物じゃない方が厄介そうだなぁ」
「それこそいつものことよ。とかくこの世は住みにくい。誰にだって平等に。いい加減気づきなさい。そして諦めなさい。平穏は諦めた先にしか存在しない。さてと、そんなこと言っているうちに、――着いたわ」
田舎特有の木造二階建てのゆったりとした家屋。それを囲う白壁には、黄色い染みが塗りたくられており、それなりの年季を感じさせる。そしてしっかりと閉ざされた玄関。
恵は身体を心持ち緊張させた。対して優の身体のどこにも緊張は感じられない。ごくごく自然と、玄関のドアチャイムをならそうとした、そのとき……
どごんっ。
みしみしっ。
どちらも木の砕ける音である。
前触れなく始まった何かに、優はまったく心を乱すことなく、まるで当然のように、人の背を超える屏を、ぴょんと跳び越えた。
「あ、待って姉さん!」
恵は遅れて、一旦屏の縁に手をかけてから壁を蹴って越えた。
塀の中に広がっていたのは、しっかりと手入れされた庭、縁側を携えたゆったりとした家屋。
それを背景にして、ひとりの男の子が立っていた。
短髪、幼げな瞳、ニキビの目立つ初々し肌、そして来ているのは夏物の学生服だが、しわくちゃで、襟元は黄色く汚れていた。
「ふごぉおおおぉぉぉお」
少年は荒い息を吐いた。人間の声だとは思えなかった。
その一瞬、恵の瞳に、獰猛凶悪で鋭い牙を剥いた大きな猫が少年の姿に重なって見えた。
「恵」優が聞いた。
「猫ですか?」恵が答えた。
「そう」
どうやら正解らしい。恵は嬉しくなって調子に乗って、
「ネコマタかなんかが取り憑いたんですかね」
と聞いたところ、
「まだまだね」
と手厳しく返された。
少年はふたりを見て、幼げな瞳をぎょっと大きく開いて不気味に笑った。
恵は背景の家屋の屋根から砂埃がもくもくと立ち上るのにようやく気づいた。少年が天井を突き破ってきたのだろうか?
そうやって、恵が少し注意を逸らした、その僅かな隙に、少年はゆったりと身体を折って四つん這いで前傾姿勢になり地を蹴った。途端に恵の目の前にまで迫ってきていた。
(んな!?)
反応できなかった。少年の爪は大きく伸びていて、今にも恵の喉元を掻き斬ろうとしていた。それを理解した瞬間、別方向からの強い衝撃が脇腹に走った。
「油断しないの」
それが優の蹴りだと分かったときには、恵の身体は十メートル近く飛ばされていた。
少年の爪は空を掻く。少年は口許と鼻筋をゆがめ狙いを姉の方に変える。恵を真横から蹴り飛ばした後だ、優の体勢は崩れている。しかし彼女は、慣性など存在しないかのように身を仰け反らせ、悠然と少年の爪を躱した。
そして今度は仰け反らせた反動でそのまま地面に両手を付いて、両足を回転させ少年の頬に蹴りを食らわせた。
少年は恵同様に吹き飛ばされた。しかし、すたっと、空中でそれこそ猫のように身を翻し四つ足で着地した。
地面を顔面で舐めた恵とは大きく違う。
「……あんた、大丈夫?」
「平気です!」
恵は鼻血を垂らしながら元気よく答える。
さて、少年は悔しそうに毛を逆立てて優を睨みつける。その視界に恵の姿はない。
「ふしゅぅうううぅぅぅぅうううう!」
身体を小刻みに揺らし猫のような威嚇の声を吐いた。
突如、その身体中の毛穴から真っ黒な霧が吹き出して、そのまま少年の身体をすっぽり包み隠してしまった。
そしてその霧は、少年よりも一回りは大きい、大きな黒猫を形作った。
「姉さん、なんかあれ普通じゃない!」恵がうろたえる。
「今更?」優が呆れる。
優が少年を睨み返す。本人は単に視線を向けただけのつもりだが、少年はたじろいだ。格の違いが露わになったが、優は表情ひとつ変えることなく、ふと右手で拳を作り手の甲を上にして真っ直ぐ前に伸ばした。
そして力を緩めふわりと手を開くと、その掌から真っ白でふさふさな大きな丸い塊が質量保存則など無視してこぼれ落ちた。すとんと地に落ちると、丸めた身体が真っ直ぐに伸ばされた。
それは大きな大きな真っ白な身体の狼だった。全長は二メートルを超え、四つ足を着いた姿勢でも優の肩あたりまでの高さがあった。
狼はゆったりとした息づかいで、やや億劫そうに少年を見た。その瞳はつぶらでどこか愛くるしかった。が、少年の恐怖心を打ち消すことはできないようで、怯えたように「ぐるるるる」と喉を鳴らした。
「……ほら、あんたも。なに遠慮してんの」
「ん、あ、はい」
優に急かされて、恵は慌てて鞄から篠笛ほどの細さの竹筒を取り出した。
「〝具離〟ッ!」
恵がそれを呼んだ。竹筒の中からしゅるしゅると一本の細長い髪の毛ほどの金色の糸が這い出した。しゅるしゅるしゅるしゅると、一本の糸は腰ほどの高さのある繭になった。次いで繭からにょき、にょきっと、足が生えて、ぼんっと尻尾が生える頃には、金色に光り輝く一匹の狐の姿になっていた。〝具離〟と呼ばれたそれは、少年を一瞥すると小馬鹿にしたような瞳で、口許を人間のようにゆがめた。
少年は怯えた。
しかし猫に追い詰められた鼠のように、
「シャーッ!」
と精一杯果敢にも威嚇し返した。
「〝留〟」
優が狼の名を呼んだ。〝留〟はやはり億劫そうに大きく息を吸って、
「がぁあああああッ!」
と、ばりばりと身を震わせる雷鳴のような獣の咆吼を辺り一面に響かせた。
少年は怯え竦み縮こまった。戦う意思は完全に殺がれてしまった。
「恵」
「はい!」恵が元気よく返事。「具離、引き離せッ!」
具離は自分の尻尾を前足で梳いた。そして爪に何本か絡みついた毛を、ふうっと息で飛ばした。
ふわりと浮かんだ数本の毛は、そこから縦に裂けて倍に、また裂けて倍倍になって……数秒と経たないうちに数万という数になった。しばらくふわふわと少年の周りをたゆたい、ふいにぴたりと空中で静止した。
「ぎゃッ!」
金色の糸は突如として少年に向かって飛んだ。少年を包む真っ黒な霧へと突き刺さった。猫の形を保っていたそれは、途端に力を失ったように剥がれ落ち、もとの少年の姿を露わにした。少年の身体にはひとつとして傷がない。
少年を包んでいた真っ黒な霧は、いくつもの塊になってぼろぼろと地面を転がり、にゅっと四つ足が伸びて、尻尾が伸びる頃には小さな猫を形作っていた。
十匹ほどの真っ黒で小さな猫は、真っ白で巨大な狼の留と金色に光り輝く具離を前にして、怯え、一目散に逃げ出してしまった。
「〝愚虞羅〟」
優が呼ぶと拳ほどの小さな狸が優の髪の毛から這い出した。
「はいよ! この子はお任せ下さいまし」
「頼んだわ」
優は逃げ出した子猫を追って駆けだした。一瞬にしてその姿は消え失せてしまった。
「え? 待って姉さん!」
恵は少し遅れて優の後を追った。
*
「ぜー……はー……」
森の中に立ち止まる優らに追い付いたときには、恵は虫の息だった。肩で息をする彼に向かって、
「遅い」
と優は無情なひと言を投げた。優は息ひとつとして乱れていない。傍らにはいつの間にやら留と具離が控えている。
「いや…………あの…………」
恵は反論もできないほどへばっている。何せここへ来るまで、五キロ以上のろくに補填されていない山道をほぼ全速力で走ってきたのだから。靴は砂埃にまみれてズボンのいたるところにくっつきむしが引っ付いている。
「それよりも」と言って優は前方の何かを指差した。「あれが原因みたいね。禍々しいったらありゃしない」
森の中に少しだけ(人工的に?)拓けたところがあって、その中央に、何やら黒いものが腰の高さほど積み上げられていた。
「え、何ですか?」
良く分からなかったので無防備に近づいた。優はあえてそれを止めなかった。顔を近づけてよくよく観察したところで……後悔した。
「なんだこれ……」
酷い腐臭が鼻をついた。
黒い塊は、積み上げられた猫の死体であった。
血がどす黒く凝り固まっていたので遠目からは黒い小山にしか見えなかった。よく観察すれば茶の猫や斑の猫もあった。
「何のために……」
恵は、そんな言葉を口から出してみたものの頭が回らなかった。嫌悪感しか心になかった。しかし優はこんな状況でも飄々としていた。
「さあね。儀式のようだけど聞いたことないわ。後で典子さんに聞いてみましょう」
と猫の死体の山に近づいて、懐から取り出した携帯電話でぱしゃりぱしゃりとシャッターを切った。
「……女子高生の携帯に猫の死体の写真って、ちょっとなぁ」
「愚痴ってないでしっかりしなさい男子高校生」
「はい……」
そうして返事はしたものの、手持ち無沙汰に猫の死体の山を眺めるほかなかった。
「とりあえずこれくらいでいいかしらね」
優は写真を撮るのを切り上げた。恵は思い出したように、
「あ、そうだ。姉さんが追っていた、何でしたっけ、真っ黒の、猫の、霊? あれはどうなりました」
「さあね。皆ここまではやって来たんだけど、それからはどっかに行ってしまったわ。あのまんま成仏できるとは思えないけど……とりあえず、死体は片付けておきましょう。未練が残らないように。迷ってしまわないように」
「はい。それじゃあ、ぼくが片付けます。具離」
呼ばれると、具離は、ぽんっと前足で地を叩いた。そこから、ぼん。ぼん。ぼん。炎が飛び飛びに走り死体の山へ向かって、突如激しい炎が猫の死体を包んだ。
「……止めて」
「?」
優の制止に恵が炎を止める頃には、ほとんど死体は蒸発してしまっていた。優は死体の山があった場所へ今一度近づいた。恵もそれに従った。
「これは……?」
「さあね」
優は再び、猫の死体の山の下に描かれていた、円形の、所謂「魔方陣」を携帯に納めた。