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作者: 志麒亭盧琴

  冬の或る寒い夜の出来事でございます。川端と云うあばただらけの醜い顔の青年が目を覚ますと、街灯が煌々(こうこう)と輝き、星一つ見えない都会の大空には黒々と嫌な塩梅の雲が居座っておりました。


「ウゥン」欠伸をしながら覚えずも唸ってしまって川端は気付きました、此処は外なのです。何となく空気が薄くてしかも仄かに白んでいます。彼は奈津美を探しました。どうして自分が外に倒れているかなど、今の彼には問題ではありませんでした。


  向かいの家の方から奇妙な声が聞こえてきます。彼は奈津子のことを忘れて「田中さんはまた夫婦喧嘩でもやって、奥さんに箒で打たれているんだ」と笑いました。笑い声がしんみりとした夜空によく響き渡ります。「オゥい奥さん、好い加減にしといてやれ」彼は快活な声で叫びましたが、変な呻き声はまだ止まずに聞こえます。

「へへ、相当やられてやがる・・・・・・あれ」

彼は声のことなど忘れ、にやけている自分がどうして地面に臥しているのかと不思議に思いました。アスファルトの細かい凹凸が後頭部に刺さって痛いのです。彼はどうして倒れているのだろう、と悩んでみました。


  五分くらい、真剣に色々考えてみましたが一向に答えが出ません。

「おれが奈津美に殴られでもして追い出されたのかなァ、でもおれは最近(ふと)って来たしあいつは非力だ。酒でも飲んだっけな……」


  考えたけれども、というよりは考えられないと云った方が正しいのですが、今の彼はとても頭が廻っていないのです。彼は寝起きだからだろうと考えました。本当はそれ所の話ではないのですが、実際寝ぼけている所もありました、その廻らない頭も次第にマシな具合になってまいりまして、顎に手を当てようと思いました。川端はその足りない頭をどうにか活用しようとするとき必ずその仕草をするのでした。しかし、腕は思うよりも重くて少しも動きません。それじゃあ足はどうだろうと思い、ウンショコラショと足に力を入れてみますが微動だにしないようです。彼は動くことを諦めてしまいました。


  おれは家の前にいるんだな、彼は気付きました。しかし眼前にはコンクリートの塀しか見えません。「おれは足をおれの家へ向け頭を田中さんの家へ向けて仰向けに倒れているんだな」と考えました。そう確信しました。見えるのは田中さんの家の塀と空と街灯だけで、自分の体は何一つ見ることができません。


  つまり、自分以外の景色と音と匂いだけで世界を考えなくてはなりません。彼は自分独りが世界から切り離されてしまったような気がして震えました。震えると云っても体には力が残っていなくて、顔だけがぷるぷると上下左右に動くのですから、他の誰かが見たら滑稽だったでしょうしかし彼には自分が人の目にどう写るかなどと云う考えは浮かびませんでした。


  田中さんの声ははじめ蚊のように貧弱だったのにどんどん大きくなっています。川端には田中さんの声が音楽に思えて来ました。きっと長いクレッシェンドが楽譜の端から端まで書かれているんでしょう、田中さんの叫び声は際限なく逞しくなってゆき、遂に叫び声に変わりました。


  その瞬間急に激痛が体中を走ったのを感じました。しかし彼はそれほど気に留めずに、「田中さんの声は凶悪過ぎていけない」などと云って笑っておりました。


  バタン、玄関の戸が開いた音がしました。彼は出来うる限り目玉を左端に寄せて往きました。この右の目玉が左に移って往けばもっと見えるはずなのに。彼がそうやって頑張っていますと、視界に人が這入って来ました。久々に人が這入ったものですから、彼の瞳は充血して涙までこぼれ出しました。

「田中さん!」と嬉しい声を出しました。しかし田中さんの様子は奇妙でした。まず田中さんは地面を這っています、そして服がぼろぼろに破れていて、白目が異様に目立っています暗闇に二つの目が浮いているようでもありました。芋虫がもぞもぞと進むようにして近寄って来た田中さんはさっきよりも声を抑えていました、デクレッシェンドでも付けられたのかしら、川端は「田中さんどうしたんだよ地面を這ったりなんかして」と馬鹿にしました。


  眼前に立ち止まった田中さんの顔は真っ赤でした。「そんなに怒った顔なんてなかなかないぜ」田中さんは「ああ川端さん」とか細く云って、川端さんの家へ入ろうとしました。しかし田中さんは彼の視界の中で力尽きてぱたり。

「おいおい大方酒でも飲んで怒られたんだな、うちなんかビール一本て決まりで、一本でも多く飲むと小遣い減らされちまうんだよ、悲しいが、そんなところで寝てたら風邪引くぞ」

彼は手を田中さんの肩に掛けようとしましたが、手はやはり動きません。そうしていると小便が込み上げて来た気がしました、彼はその勢いに任せて・・・・・・股間がぽかぽかと暖かくなって往く気がして川端は穏やかに目を瞑りました。


  彼は暫く眠ってしまいました。夜も明け始め、つとめてと云うべき頃合に、顔に痛みを感じて目を開けると、一匹のカラスが彼のあばただらけの顔をつつき回しております。「やめろ」川端さんは叫ぼうとしましたが声が出ません。喉の辺りがヒュルヒュルと音を立てるくらいなのです。思い返せばさっきから彼は声を出す度にヒュルヒュルと聞いておりましたが、気に留めるほどのことだとは思っておりませんでした。カラスは彼の肌を以前より醜い顔にして飛び去って往きました。


  田中さんの頭には大きな硝子が刺さって街灯の光を照り返していました。田中さんの頭蓋骨はぱっくりと割れています、脳髄が漏れ出るのを見て川端さんは吐きました。少しだけ喉から血が上がってきたのを吐き出しましたが、胃の中には胃液すら残ってないのでしょうか、それ以上何も出てこないのです。


  俄かに強い突風が吹いて彼の全身は飛ばされました。彼の家が視界に現れました。彼はうろたえました。倒壊した家、そして彼の妻の奈津美が書棚に潰されて気を失っていたのです。「どうして、書棚があんなところに倒れているのだろう。しかしおれの体を飛ばすほどの突風だったからな」と彼は呑気に考えました。そして、「オイ奈津美」と何度叫んでも妻は反応せず、またヒュルヒュルと云う音がするのです。実はこの音こそが本当で、彼の口から声は全く出ていなかったのです。


  彼は家が異様に明るく、一帯が焦げ臭いのに気が付きました。パチパチと音が鳴り、家が崩れる音があらゆる方向から聞こえます。「あぁ火事が起こってるな」、彼はとても冷静に受け止めました。


  あっという間に彼の妻のそばまで(ほのお)が辿り着きました。愈々書棚に焔が燃え移って彼女は目を覚まし美しい顔をひどく気味の悪い形相にしかめて泣き叫びました。彼は田中さんの声よりも落ち着くなと思いながら、穏やかな心持で妻が燃えるさまを眺めました。ひとしきり燃やし尽くした焔が鎮まって、彼の前には真っ黒こげの妻が固くなっておりました。そこから一メートルほど離れた所に首のない夫の遺体がありました。彼はそれを見ると安心して息を引き取りました。


  百年に一度とか云う大きな地震が起こった或る夜のお話でございます。


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