森野村
現代の女子大学、あるいは女学院、学院と名のつく私立学校を紐解けば、多くは人さまには知られていないが、女子の教養を高めるために、またキリスト教宣教のために創設された学校のなんと多いことか。女子校でなくともそれが言えるかも知れない。
森野村・・・それは名のごとく森と野原に恵まれた緑豊かな村であった。
明治時代の初めは武蔵知県事に属した。
その後東京府となるものの、現代の多摩地域が横浜に居住する外国人の遊歩区域であるとのゆえに、神奈川県知事陸奥宗光の上申により神奈川県に移管される。
そして、明治の終わりごろまた森野村は東京府となり、こんにちに至る。
マユは湯乃島(現在の下呂)で生まれたが、本人の強い希望と、周りからの彼女の機知を知る故の湯乃島で生涯を過ごすのはもったいないという勧めで、森野村の親戚を頼って尋常小学校を卒業した年に森野村に出てきた。
マユはその親戚の家から横浜にある女子学院へ通い、念願の西洋の本をむさぼり読む学生時代を過ごした。
学院では、西洋文化、英語を学び、女性も男性同様社会的地位は同等であるべきということを学ぶ。
しかし、当時は男尊女卑が当たり前の時代。学院の中と、一歩学院を出れば全く行われていることは違い、女性は良き母良き妻、良妻賢母になるを良しとし、男性に物申すことを憚れた時代であった。
マユの親戚の家のそばに小さな教会があった。
その傍らには教会付属の孤児院があり、また、日曜日には教会の礼拝が始まる前に近隣の幼子を集めた日曜学校が開かれていた。絵本を読み聞かせ、その教会に通うアメリカ人の夫人による英会話教室もあった。
マユはネイティブの英語に触れたいためにその英会話教室に通いその教室のお手伝いをした。
女子学院を卒業してから、マユは一旦は湯乃島へ里帰りしたものの、またやりたいことがあると家を飛び出して横浜に向かった。