ありふれた話
ありふれた話をしようか、と。男が言った。
「昔々、あるところに。一人の女の子がいた」
承諾した覚えはない、にも関わらず男は続けた。まるで子どもを相手にしているような言い方が勘に障って、視線を反らす。ランプが作った影が、壁に揺らめいていた。
「彼女は、自分の名前を嫌っていた」
本当によくある話だ。醒めた気分で眺めた影は、薄暗い部屋の中で最も輪郭を露にしていた。
「ありふれた漢字を二つ繋げただけの名前は、初対面の相手から正しく読まれた例がなかったし。一文字目を読み変えれば簡単に、嘲りの言葉になったからだ」
あぁ、そう。それで?
苛立ちを発散したくて放った声は、予測したよりずっと冷たく響いた。
「彼女はいつしか、名前を忘れかけていた」
淡々と続けた男に動揺は欠片もなく。それにうろたえそうになった自分が、ひどく忌々しい。
「名は体を表す、と言うだろう?名前を忘れる、ってことはね、自分を」
「心気臭い話はやめてよ!」
思わず叫んだ言葉が、懇願のようで。反応が気になって振り向いた瞬間、目が合った。
「心当りでもあるのかい?」
穏やかな口調が、苛立たしい。いつだって、こうだ。分かりきったことを、男は尋ねてくる。
長い沈黙を破ったのは、男の方だった。
「名前は、守りであり鎖。存在を認め、縛るもの」
独り言のように、男は続けた。
「泣いたそうだよ。名をつけた人は」
「なんの……」
関係もない話だ、と。言い切れずに息だけがこぼれた。かすれた声が、妙に耳につく。
「名は、守り。縛られ過ぎてはならないものだ」
「あんたなんかに、何が分かるっての!?」
怨みも、痛みも、怒りも、悲しみも、全ての負を詰め込んだ言葉を。息がきれるまで叫んで、罵って。そうして、ヒステリックさに追い詰められていたのは、男ではなかった。
「それで、満足かい?」
強い意志を秘めた双眸に、視線すら反らせないまま唇を噛む。
「約束を、していたはずだ」
「何」
適当なこと、言わないでよ
「願ったはずだ。そう遠くない日に」
「だから、」
何を、させたいわけ?
「誰も呼べない名前は、約束だったろう?」
「何を、言って」
誰も読めない名前なんて、意味がない
「六十億の中で、ただ一人の君が、存在してゆく約束」
「そんなの」
知らない、と。言おうとした言葉は、喉で止まった。
「まだ、間に合う」
薄暗い部屋の中で、ランプが弱々しく揺れる。声の厳しさにそぐわない視線の優しさが、落ち着かない気分をつのらせた。
「おかえりなさい、君の世界へ」
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