21-3 越前府中城【覚悟】
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2026.8.24 文章構成含め、全体的に改稿しました。
その夜、一行は御殿にて一泊した。
翌朝。
まだ陽は山の端から顔を出したばかりで、越前の空には薄い雲が垂れ込めていた。
春の気配は確かに近づいている。
されど、庭にも道にも残る雪はそのことを容易には認めようとしない。
永重らは丹波へ向けて早くに発つこととなった。
城門の前には、雪乃とその父・木村重茲、母・お清が並んでいた。
「――それでは、また」
永重が馬上から言った。
「……はい」
雪乃の返事はそれだけだった。
多くを語る必要はなかった。
むしろ、これ以上何かを言えば、胸の内にあるものが声となってこぼれそうだった。
永重は一度だけ雪乃を見た。
白い小袖に薄鼠の羽織。
朝の冷気を受けてその袖がわずかに揺れている。
雪乃は背筋を伸ばしていた。
その後ろには重茲とお清がいる。
二人とも何も言わない。
永重は小さく頭を下げた。
そして馬首を返す。
夜光が雪を踏んだ。
ざくり、と。
静かな朝には、それがやけに大きく響いた。
続いて他の馬も動き出す。
蹄が雪を砕き、白い欠片を跳ね上げる。
一行はゆっくりと遠ざかっていった。
雪乃は動かなかった。
ただ、その背を見つめていた。
やがて人影が小さくなり、馬の音も遠のいていく。
それでも雪乃は立っている。
白い街道の先へ目を凝らす。
もう見えぬと分かっていても。
「――もう見えぬぞ」
背後から父の声がした。
雪乃はようやく我に返った。
「……はい」
振り返り、一礼する。
頬がほんの少しだけ赤い。
それを見逃さなかったのが、お清だった。
母は腕を組んで娘の横顔をじっと眺めている。
「どうであった」
重茲が問うた。
短い言葉だった。
雪乃はすぐには答えなかった。
永重の顔を思い出していた。
穏やかな声音。
静かな眼差し。
その奥にあった、容易には揺らがぬもの。
「……静かな方にございました」
「ほう」
「けれど――」
雪乃は言葉を探すように目を伏せた。
「目の奥には強い火を宿しておられました」
重茲の口元がわずかに緩んだ。
「戦の火か」
「いいえ」
雪乃は顔を上げた。
「守るための火にございます」
重茲は黙った。
お清が眉を上げる。
「たったあれほどの時間でそこまで分かるのかえ」
「分かります」
雪乃は少しだけむっとした。
「ほほう?」
「『共に歩む覚悟はある』と仰せになったとき――」
雪乃の声が、わずかに低くなった。
「あれは、戦場へ赴く覚悟だけではございませぬ」
「では、何だ」
「自らが戻らぬやもしれぬと知りながら――」
そこで一度、息を継いだ。
「残される家を託す覚悟にございます」
風が吹いた。
城壁の上に積もった雪がさらさらと崩れ落ちる。
誰も口を開かなかった。
やがて、お清が小さく息を吐いた。
「……やれやれ。嫁ぐ前から未亡人の覚悟とは。
縁起でもない」
「母上」
雪乃が咎めるように見る。
だが重茲は笑った。
「よい」
その一言で場の空気が変わった。
「永重殿は戦だけの男ではない」
重茲は歩き出した。
「前にも申したが、丹波で農の手立てを広げておるそうだ」
雪乃もお清も後に続く。
「大豆を植え、二毛作を試している。
戦のことばかり考えている男にはそうした発想は出ぬ」
「……お聞きしました」
「戦が終わった世を見ておる男だ」
雪乃の足が止まった。
父は気づかず数歩先まで進んでいる。
戦が終わった世。
その言葉が雪乃の胸の奥に静かに沈んだ。
戦が終わる。
そんな日が本当に来るのだろうか。
今はまだ、誰もが戦の只中にいる。
それでも永重はその先を見ている。
そのことが、なぜか嬉しかった。
庭へ戻ると、梅の枝から雪がひとひら、またひとひらと落ちてきた。
雪の下で耐えていた枝先には固い蕾がついている。
お清が娘の横顔を見た。
「で?」
「何にございます」
「嫌ではなかろうな」
雪乃は一瞬、きょとんとした。
だが、すぐに母の言わんとするところを察した。
「……嫌ではございませぬ」
「ほほ」
「ただ――」
「まだあるのかえ」
雪乃は梅の枝へ手を伸ばした。
指先に触れた枝は思いのほか冷たかった。
「祝言があまりに急にございます」
重茲が答えた。
「朝鮮出兵が近い」
その声を聞いた途端、春を思わせた庭の空気がわずかに冷えた気がした。
雪乃は黙って頷いた。
「承知しております」
「永重殿も、永勝殿も、弟たちも――出陣するやもしれぬ」
雪乃の指が梅の枝をきゅっと握った。
白い雪の中に細い枝が軋む。
それでも、声は揺れなかった。
「ならば」
雪乃は言った。
「なおさら、弱き心では支えられませぬ」
お清が目を細めた。
「ほう」
母の口元が少しだけ上がる。
「では、どうする」
雪乃は父を見る。
まっすぐに。
「武芸を鍛えます」
一拍置いた。
「心も、さらに鍛えます」
「また小袖に穴を開ける気か!」
お清の声が飛んだ。
雪乃は真顔で答えた。
「今度は外で放ちます」
「そういう問題ではない!」
背後に控えていた侍女たちの肩が震えた。
重茲は堪えきれぬように笑い出した。
「ははは!よいではないか」
「殿まで!」
「武家の娘が弓を引いて、何が悪い」
笑いながらも、重茲の目は真剣だった。
「ただし――」
雪乃の背が伸びる。
「弓だけでは足らぬ」
「……はい」
「丹波の地を知れ」
重茲は一つ一つ、言葉を置くように言った。
「藤懸家の家風を学べ。
永重殿が何を見ておるのかを理解せよ」
雪乃は深く頭を下げた。
「はい」
その横から、お清がぽつりと言った。
「裁縫も忘れるでないぞ」
「……はい」
「針は敵より手強いのだからな」
雪乃の頬がほんの少し緩んだ。
そのときだった。
庭の奥から鶯の声がした。
まだ春浅い。
それでも、その声だけは春を疑わぬように澄んでいた。
重茲が空を仰いだ。
「雪乃」
「はい」
「永重殿は、そなたを見ておったぞ」
雪乃の胸が跳ねた。
「……どのように」
「値踏みではない」
重茲は静かに答えた。
「確かめる目だ」
雪乃は息を吸った。
冷たい空気が胸に入る。
それが、不思議と心地よかった。
「ならば、私も」
「うむ」
「確かめとうございます」
重茲は何も言わなかった。
代わりに、お清がにやりと笑った。
「祝言までに、もう一度会うつもりかえ?」
「……それは」
雪乃の言葉が詰まる。
「向こうが参られれば」
「来ぬとは言うておらぬぞ?」
「母上!」
庭に笑い声が広がった。
けれど――。
その笑いの底には、誰もが知っているものがあった。
戦。
別れ。
戻らぬ者が出るかもしれぬという、言葉にしがたい予感。
それでも、人は明日を迎える。
梅の枝から雪が落ちた。
白い庭に触れた雪は、音もなく形を失っていく。
雪乃はそれを見つめた。
永重の言葉が、胸の奥に残っている。
――共に歩む覚悟はある。
ならば。
ただ待つだけの妻にはならぬ。
支えるだけでもない。
同じ景色を見て、同じ道を歩く。
並び立つ。
そのためには、自分も強くならねばならない。
「母上」
「なんじゃ」
「針を貸していただけますか」
お清が目を丸くした。
「どういう風の吹き回しじゃ」
「穴の開いた小袖を、縫い直します」
重茲が吹き出した。
「ようやく覚える気になったか」
雪乃は真顔で答えた。
「武も、政も、家も」
そして、ほんの少し笑った。
「まずは小袖から、にございます」
再び、鶯が鳴いた。
その声を聞きながら、重茲は空を見上げた。
越前の空には、まだ冬の名残がある。
けれど雲の向こうでは確かに春が動き始めていた。




