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【御礼60,000PV到達】戸侯記  作者: 和音
■第四章■ ~文禄の役~

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80/253

21-3 越前府中城【覚悟】

【編集】

2026.8.24 文章構成含め、全体的に改稿しました。


その夜、一行は御殿にて一泊した。


翌朝。

まだ陽は山の端から顔を出したばかりで、越前の空には薄い雲が垂れ込めていた。

春の気配は確かに近づいている。

されど、庭にも道にも残る雪はそのことを容易には認めようとしない。


永重らは丹波へ向けて早くに発つこととなった。

城門の前には、雪乃とその父・木村重茲、母・お清が並んでいた。


「――それでは、また」

永重が馬上から言った。

「……はい」

雪乃の返事はそれだけだった。

多くを語る必要はなかった。

むしろ、これ以上何かを言えば、胸の内にあるものが声となってこぼれそうだった。


永重は一度だけ雪乃を見た。

白い小袖に薄鼠の羽織。

朝の冷気を受けてその袖がわずかに揺れている。


雪乃は背筋を伸ばしていた。

その後ろには重茲とお清がいる。

二人とも何も言わない。


永重は小さく頭を下げた。

そして馬首を返す。

夜光が雪を踏んだ。

ざくり、と。


静かな朝には、それがやけに大きく響いた。

続いて他の馬も動き出す。

蹄が雪を砕き、白い欠片を跳ね上げる。

一行はゆっくりと遠ざかっていった。


雪乃は動かなかった。

ただ、その背を見つめていた。

やがて人影が小さくなり、馬の音も遠のいていく。

それでも雪乃は立っている。


白い街道の先へ目を凝らす。

もう見えぬと分かっていても。


「――もう見えぬぞ」

背後から父の声がした。

雪乃はようやく我に返った。

「……はい」

振り返り、一礼する。

頬がほんの少しだけ赤い。


それを見逃さなかったのが、お清だった。

母は腕を組んで娘の横顔をじっと眺めている。


「どうであった」

重茲が問うた。

短い言葉だった。


雪乃はすぐには答えなかった。

永重の顔を思い出していた。

穏やかな声音。

静かな眼差し。

その奥にあった、容易には揺らがぬもの。


「……静かな方にございました」

「ほう」

「けれど――」

雪乃は言葉を探すように目を伏せた。

「目の奥には強い火を宿しておられました」


重茲の口元がわずかに緩んだ。

「戦の火か」

「いいえ」

雪乃は顔を上げた。

「守るための火にございます」


重茲は黙った。

お清が眉を上げる。

「たったあれほどの時間でそこまで分かるのかえ」

「分かります」

雪乃は少しだけむっとした。

「ほほう?」


「『共に歩む覚悟はある』と仰せになったとき――」

雪乃の声が、わずかに低くなった。

「あれは、戦場へ赴く覚悟だけではございませぬ」


「では、何だ」

「自らが戻らぬやもしれぬと知りながら――」

そこで一度、息を継いだ。

「残される家を託す覚悟にございます」


風が吹いた。

城壁の上に積もった雪がさらさらと崩れ落ちる。


誰も口を開かなかった。

やがて、お清が小さく息を吐いた。

「……やれやれ。嫁ぐ前から未亡人の覚悟とは。

縁起でもない」

「母上」

雪乃が咎めるように見る。


だが重茲は笑った。

「よい」

その一言で場の空気が変わった。

「永重殿は戦だけの男ではない」


重茲は歩き出した。

「前にも申したが、丹波で農の手立てを広げておるそうだ」

雪乃もお清も後に続く。

「大豆を植え、二毛作を試している。

戦のことばかり考えている男にはそうした発想は出ぬ」

「……お聞きしました」

「戦が終わった世を見ておる男だ」

雪乃の足が止まった。

父は気づかず数歩先まで進んでいる。


戦が終わった世。

その言葉が雪乃の胸の奥に静かに沈んだ。

戦が終わる。

そんな日が本当に来るのだろうか。

今はまだ、誰もが戦の只中にいる。

それでも永重はその先を見ている。

そのことが、なぜか嬉しかった。


庭へ戻ると、梅の枝から雪がひとひら、またひとひらと落ちてきた。

雪の下で耐えていた枝先には固い蕾がついている。


お清が娘の横顔を見た。

「で?」

「何にございます」

「嫌ではなかろうな」

雪乃は一瞬、きょとんとした。

だが、すぐに母の言わんとするところを察した。

「……嫌ではございませぬ」

「ほほ」

「ただ――」

「まだあるのかえ」


雪乃は梅の枝へ手を伸ばした。

指先に触れた枝は思いのほか冷たかった。


「祝言があまりに急にございます」

重茲が答えた。

「朝鮮出兵が近い」

その声を聞いた途端、春を思わせた庭の空気がわずかに冷えた気がした。


雪乃は黙って頷いた。

「承知しております」

「永重殿も、永勝殿も、弟たちも――出陣するやもしれぬ」


雪乃の指が梅の枝をきゅっと握った。

白い雪の中に細い枝が軋む。

それでも、声は揺れなかった。

「ならば」

雪乃は言った。

「なおさら、弱き心では支えられませぬ」


お清が目を細めた。

「ほう」

母の口元が少しだけ上がる。

「では、どうする」


雪乃は父を見る。

まっすぐに。

「武芸を鍛えます」

一拍置いた。

「心も、さらに鍛えます」


「また小袖に穴を開ける気か!」

お清の声が飛んだ。

雪乃は真顔で答えた。

「今度は外で放ちます」

「そういう問題ではない!」


背後に控えていた侍女たちの肩が震えた。

重茲は堪えきれぬように笑い出した。

「ははは!よいではないか」

「殿まで!」

「武家の娘が弓を引いて、何が悪い」

笑いながらも、重茲の目は真剣だった。

「ただし――」


雪乃の背が伸びる。


「弓だけでは足らぬ」

「……はい」

「丹波の地を知れ」

重茲は一つ一つ、言葉を置くように言った。

「藤懸家の家風を学べ。

永重殿が何を見ておるのかを理解せよ」


雪乃は深く頭を下げた。

「はい」

その横から、お清がぽつりと言った。

「裁縫も忘れるでないぞ」

「……はい」

「針は敵より手強いのだからな」

雪乃の頬がほんの少し緩んだ。


そのときだった。


庭の奥から鶯の声がした。

まだ春浅い。

それでも、その声だけは春を疑わぬように澄んでいた。


重茲が空を仰いだ。

「雪乃」

「はい」

「永重殿は、そなたを見ておったぞ」


雪乃の胸が跳ねた。

「……どのように」

「値踏みではない」

重茲は静かに答えた。

「確かめる目だ」


雪乃は息を吸った。

冷たい空気が胸に入る。

それが、不思議と心地よかった。


「ならば、私も」

「うむ」

「確かめとうございます」

重茲は何も言わなかった。


代わりに、お清がにやりと笑った。

「祝言までに、もう一度会うつもりかえ?」

「……それは」

雪乃の言葉が詰まる。

「向こうが参られれば」

「来ぬとは言うておらぬぞ?」

「母上!」


庭に笑い声が広がった。

けれど――。

その笑いの底には、誰もが知っているものがあった。


戦。

別れ。

戻らぬ者が出るかもしれぬという、言葉にしがたい予感。

それでも、人は明日を迎える。


梅の枝から雪が落ちた。

白い庭に触れた雪は、音もなく形を失っていく。

雪乃はそれを見つめた。


永重の言葉が、胸の奥に残っている。

――共に歩む覚悟はある。

ならば。

ただ待つだけの妻にはならぬ。

支えるだけでもない。

同じ景色を見て、同じ道を歩く。

並び立つ。

そのためには、自分も強くならねばならない。


「母上」

「なんじゃ」

「針を貸していただけますか」

お清が目を丸くした。

「どういう風の吹き回しじゃ」

「穴の開いた小袖を、縫い直します」

重茲が吹き出した。

「ようやく覚える気になったか」


雪乃は真顔で答えた。

「武も、政も、家も」

そして、ほんの少し笑った。

「まずは小袖から、にございます」


再び、鶯(うぐいす)が鳴いた。


その声を聞きながら、重茲は空を見上げた。

越前の空には、まだ冬の名残がある。

けれど雲の向こうでは確かに春が動き始めていた。




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