21-3 越前府中城【出逢い】
その日一行は御殿内に一泊したのち、翌日朝早くに永重らは丹波に向けて出発した。
「――それでは、また」
「……はい」
その一言だけが、雪の残る越前の朝に静かに落ちた。
永重は馬上からもう一度だけ振り返る。
御殿の門前に立つ雪乃は、白い小袖に薄鼠の羽織を重ね、凛と背を伸ばしていた。
その背後には父・木村重茲、そして母・お清の姿。
冷たい風が吹き、雪乃の袖がふわりと揺れる。
永重は深く一礼し馬首を返した。
夜光が雪を蹴る音が静寂を裂く。
やがて一行の姿は白い街道の彼方へと溶けていった。
――永重ら一行が城門を出てから、しばし。
越前の空は薄曇りであった。
残雪の白が淡く光り馬の蹄の音が遠ざかってゆく。
雪乃は城門の陰に立ち、その背が見えなくなるまでじっと見送っていた。
やがて、完全に姿が消えると――
「もう見えぬぞ」
背後から父・重茲の声がした。
雪乃ははっとして振り返り静かに一礼する。
「……はい」
その頬はわずかに赤い。
隣では母・お清が腕を組み、じっと娘を観察していた。
「どうであった」
重茲の問いは短い。
雪乃は少し考え、やがて答える。
「静かな方にございます」
「ほう」
「けれど……」
言葉を探すように視線を落とす。
「目の奥に強い火を宿しておられました」
重茲の口元がわずかに緩む。
「戦の火か」
「いいえ」
雪乃は顔を上げた。
「守るための火にございます」
お清が眉を上げる。
「ほう?たったあれほどの時間でそこまで分かるのかえ」
雪乃は少しだけむっとした顔をする。
「分かります」
「ほほう?」
「"共に歩む覚悟はある"と仰せになったとき――」
雪乃の声が少し低くなる。
「あれは、戦場へ行く覚悟ではございませぬ」
重茲は腕を組んだ。
「では何だ」
「自らが戻らぬやもしれぬと知りつつ、家を託す覚悟です」
しばし沈黙。
遠くで鶯が鳴いた。
お清が小さく息をつく。
「……やれやれ。
嫁ぐ前から未亡人の覚悟とは縁起でもない」
「母上」
雪乃は抗議の視線を向ける。
重茲は静かに笑った。
「良い」
その一言で場が締まる。
「永重殿は、戦だけの男ではない」
雪乃は目を上げる。
「前にも申したが、丹波で農の手立てを広げておる。
大豆を植え二毛作を試みているそうだ」
雪乃の目にわずかな光が宿る。
「お聞きしました」
重茲はゆっくり歩き出す。
雪乃とお清も後に続く。
「戦が終わった世を見ておる男だ」
雪乃の足が、ほんのわずかに止まった。
戦が終わった世。
その言葉は雪乃の胸に静かに落ちた。
庭へ戻ると、梅の枝から雪がはらりと落ちる。
お清がふと娘を横目で見る。
「で?」
「何にございます」
「嫌ではなかろうな」
雪乃は一瞬きょとんとし、すぐに意味を悟る。
「……嫌ではございませぬ」
「ほほ」
「ただ」
「まだあるのかえ」
雪乃は梅の枝に触れた。
「祝言があまりに急にございます」
重茲が低く言う。
「朝鮮出兵が近い」
空気が少し冷える。
雪乃は静かに頷く。
「承知しております」
「永重殿も、永勝殿も、弟たちも出陣するやもしれぬ」
雪乃の指先がきゅっと梅の枝を握る。
「ならば」
その声は揺れていない。
「なおさら弱き心では支えられませぬ」
お清が目を細める。
「ほう。ではどうする」
雪乃は父を真っ直ぐ見る。
「武芸を鍛え、心をさらに鍛えます」
「また小袖に穴を開ける気か!」
即座にお清が叫ぶ。
雪乃は真顔で答える。
「今度は外で放ちます」
「そういう問題ではない!」
侍女たちの肩が震えている。
重茲はとうとう声を上げて笑った。
「ははは! よいではないか」
「殿まで!」
「武家の娘が弓を引いて何が悪い」
重茲は娘を見た。
「ただし」
雪乃の背が伸びる。
「弓だけでは足らぬ」
「……はい」
「丹波の地を知れ。
藤懸家の家風を学べ。
永重殿が何を見ておるのかを理解せよ」
雪乃は深く頭を下げた。
「はい」
お清がぽつりと言う。
「裁縫も忘れるでないぞ」
「……はい」
「針は敵より手強いのだからな」
雪乃の頬がわずかに緩む。
その時、庭の奥で鶯が澄んだ声で鳴いた。
重茲は空を見上げる。
「雪乃」
「はい」
「永重殿はそなたを見ておったぞ」
雪乃の心臓が跳ねる。
「……どのように」
「値踏みではない」
重茲の声は穏やかだった。
「確かめる目だ」
雪乃は静かに息を吸う。
「ならば、私も」
「うむ」
「確かめとうございます」
お清がにやりと笑う。
「祝言までに、もう一度会うつもりかえ?」
雪乃は一瞬言葉に詰まり――
「……それは、向こうが参られれば」
「来ぬとは言うておらぬぞ?」
「母上!」
笑いが庭に広がる。
だが、笑いの奥にあるのは――
戦の気配。
すぐの別れの予感。
そして、それでも歩む覚悟。
梅の枝から落ちた雪が白い庭に溶けてゆく。
雪乃はその白を見つめながらそっと胸の内で誓った。
――共に歩む、と仰せになった。
ならば。
ただ待つだけの妻にはならぬ。
支えるだけでもない。
並び立つ。
そのために。
「母上」
「なんじゃ」
「針を貸していただけますか」
お清が目を丸くする。
「どういう風の吹き回しだ」
「穴の開いた小袖を縫い直します」
重茲が吹き出した。
「ようやく覚える気になったか」
雪乃は真顔で答える。
「武も政も、家も」
そして少しだけ微笑む。
「まずは小袖から、にございます」
鶯がまた、楽しげに鳴いた。
越前の空はゆっくりと春へ向かっていた。




