20-2 丹波【いざ、越前へ】
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2026.8.24 文章構成含め、全体的に改稿しました。
志野の祝言が終わると、永重らは自宅へ戻った。
多紀重兼も同行している。
祝いの席では酒も出たが、今夜は皆さほど酔ってはいなかった。
華やかな席の余韻がまだ身体に残っている。
しかしそれ以上に、誰もが胸の内に一つの話題を抱えていた。
座敷へ入ると永重が上座に腰を下ろした。
「皆、今日はご苦労だった」
そう言って軽く頭を下げる。
「いやぁ、実によい式でございましたな」
重兼が答えながら腰を下ろした。
脇差を外して膝元へ置く。
「志野様も、お綺麗でございました」
半佐も続いて座った。
その時、襖が静かに開いた。
「お帰りなさいませ」
夕霧である。
盆に白湯を載せている。
一人ずつ湯呑を置き、最後に永重の前へ差し出した。
「如何でございましたか」
遅れて伊織も入ってきた。
「「良かったぞ」」
重兼と半佐の声が重なった。
二人とも、妙に機嫌がよい。
永重は湯呑に手を伸ばした。
その横で半佐が口元を緩める。
「それよりも、ですよ」
「やめよ」
永重は即座に言った。
だが、遅かった。
「いやいやいや……」
重兼まで笑っている。
「何事です?」
夕霧が首を傾げる。
半佐は待っていたとばかりに姿勢を正した。
「若殿。この度はまことにおめでとうございます!」
深々と頭を下げる。
「はぁ……」
永重は大きく息を吐いた。
眉間に皺が寄る。
「何のことだ」
「とぼけられても無駄にございます」
重兼が笑いながら口を挟んだ。
「若殿のご祝言が、十五日後と。
しかとこの耳で聞きましたぞ」
「じゅ、十五日後……?」
夕霧の手が止まった。
湯呑がかすかに鳴る。
落としはしなかった。
だが、危うかった。
伊織も目を瞬かせている。
永重は黙って湯呑を置いた。
「……父上の策だ」
「策?」
「志野の祝言の席で、ついでのように告げられた」
「ついでとはまた豪気な」
伊織が苦笑する。
夕霧がためらいがちに尋ねた。
「お相手は、どなたにございます?」
永重は一瞬だけ黙った。
そして答える。
「木村常陸介重茲殿の御息女、雪乃殿だ」
座敷から、音が消えた。
木村家。
豊臣家中でも古くから名の通った家である。
重茲は政務にも明るく、太閤秀吉からの信も厚い。
その嫡女を娶るということは単なる婚姻ではない。
家と家を結ぶ。
それは、戦国の世では一つの力になる。
「……これはまた、大きなご縁にございますな」
伊織が静かに言った。
半佐はまだ笑っている。
「若殿も姉さん女房にございますか?」
「違う」
返事が早かった。
「年は……二つ下と聞いた」
「ほう」
重兼が顎を撫でる。
「それはそれで、張り合いがございますな」
「やめぬか」
皆が笑う。
だが、永重だけは笑えなかった。
十五日。
あまりに短い。
祝言を挙げるだけなら、それでもよいのかもしれない。
だが、その先にあるものを思えば話は違う。
朝鮮出兵。
太閤秀吉が進める大遠征である。
やがて自分も出る。
父も、弟も、おそらく出陣することになる。
ならば、その前に家を固める。
父・永勝が考えていることは分かっていた。
――……父上らしい
政も、戦も、家も。
一つずつ片付けていくのではない。
すべてを同時に動かし、最後には一つの形にする。
永重は、ふと母・華の顔を思い浮かべた。
祝言の席で見せたあの静かな微笑み。
あれは喜びだったのか。
それとも――
安堵だったのか。
「若殿」
伊織の声で永重は我に返った。
「雪乃様がいかなるお方にせよ、若殿の志を共にできる御方であればよろしゅうございますな」
「志?」
永重が聞き返す。
「民と為政者が、ともに安らげる世を築く――
若殿が常々申されていることにございます」
永重はわずかに目を見開いた。
半佐も頷く。
「そのような世を作る若殿の妻となられる御方。
きっとただの姫君ではございますまい」
夕霧が微笑んだ。
「若殿は案外と優しゅうございますゆえ」
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味にございます」
小さな笑いが起こった。
永重もほんのわずかに口元を緩めた。
だが、それも長くは続かなかった。
戦は避けられない。
海を渡る。
異国へ行く。
そして、生きて戻れる保証などない。
永重は湯呑の中を見つめた。
白湯の表面に燭台の火が揺れている。
「……十五日しかない、か」
誰に言うでもなく呟いた。
「何をなさいます?」
重兼が問う。
永重は顔を上げた。
迷いはなかった。
「会おう」
「は?」
「雪乃殿に。一度でよい。祝言の前に」
皆の顔が止まった。
「それは……異例では?」
伊織が慎重に言う。
「承知している」
永重は答えた。
「だが、共に生きると決まった以上、言葉を交わさず夫婦になるのは性に合わぬ」
その言葉に誰も反論しなかった。
しばしの沈黙の後、部屋の隅から声がした。
「木村常陸介重茲様といえば……越前ですな」
いつからそこにいたのか。
月心が立っていた。
「そうだな」
「ここからなら、急げば二日。
往復で四日ほどかと」
「道中は?」
重兼が尋ねる。
「今の時期は風が強く雪も多うございます。
ただ、重茲様の居城である越府城までならさほど問題はないかと」
月心の返答に永重は頷いた。
「供は最小で参る」
そして三人を見る。
「重兼、伊織、半佐。三人でよい」
「承知」
三人の声が揃った。
「夕霧」
「はい」
「留守を頼む」
夕霧は静かに頭を下げた。
「かしこまりました。どうか御無事で」
「月心は先触れとして越前へ向かってくれ」
「承知いたしました」
月心が下がる。
ほどなくして戻ってきた月心の手には、巻かれた地図があった。
座敷の中央に広げる。
燭台を近づけると、紙の上に細かな道筋が浮かび上がった。
「丹波より若狭路を抜け、北へ」
月心が指で道を辿る。
「積雪はございますが、馬を替えつつ急げば二日。
帰路を含め四日」
「四日……」
永重は地図を見つめた。
細い道筋の先に越前がある。
そこに、自分の妻となる女がいる。
まだ顔も知らない。
「殿には?」
半佐が問う。
「既に書状はしたためた」
永重は淡々と答えた。
「雪乃殿に一目お目通り願いたく、越前へ参る、と」
「それでよろしいので?」
「叱られるなら、戻ってからでよい」
重兼が声を上げて笑った。
「それでこそ若殿だ」
座敷にまた笑いが起きた。
だが永重は笑わなかった。
地図の上。
自分の指先が越前を示している。
その先に何が待っているのか。
まだ、分からない。
ただ一つ。
会わねばならない。
そう思っていた。
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夜は更けた。
やがて皆が去り、座敷には永重だけが残った。
燭台の火が時折ふっと揺れる。
先ほどまで人の声が満ちていた部屋が、今は妙に広く感じられた。
永重は一人、火を見つめた。
越前。
木村家。
そして――雪乃。
名しか知らぬ女である。
顔も知らない。
声も知らない。
どのような気性なのかも知らない。
それでも十五日後には夫婦になる。
戦へ向かう前に家を固める。
父が何を考えているのかは分かっていた。
太閤の朝鮮出兵はもはや噂ではない。
大軍が動く。
春には出陣するとの話もある。
時は待ってくれない。
永重は立ち上がった。
障子を開ける。
冷気が一気に入り込んできた。
縁側へ出る。
庭には、昼に降った雪がまだ残っていた。
松の葉に積もった白が月明かりを受けている。
美しい。
だが、寒い。
永重は庭を眺めたまま口を開いた。
「夕霧」
「はっ」
返事はすぐだった。
振り返ると、庭の暗がりに夕霧が立っている。
音がしない。
いつからそこにいたのか、永重には分からなかった。
「そなたに一つ頼みがある」
「はい」
夕霧が顔を上げる。
永重はしばらく何も言わなかった。
頼むべきか。
胸の内にしまっておくべきか。
考えた末、ようやく口を開く。
「……実はな」
その声は、先ほどまでのものとは違っていた。
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
夕霧は黙って待った。
庭に積もった雪が月の光を返している。
白い光の中で、二人の影だけが長く伸びていた。
その頼みごとの内容はまだ、誰の耳にも触れぬもの――。
雪に照らされた松の枝の影が、夜気に揺れ長く伸びて縁側を染めた。




