19 論功行賞~帰還
これにて第三章の完結です。
少し遡って文月(7月)の十三日――
秀吉が小田原城に入った。
そしてこの日、今回の小田原征伐に対する論功行賞が行われた。
最も驚きを持って迎えられたのが、徳川氏の関東転封であった。
北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることになった。
空いた徳川旧領(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の一部)は織田権中納言信雄に与えられるはずだった。
のちの話になるが、信雄はこれに難色を示し拒んだ。
これが豊臣政権への反抗とみなされ、所領を没収されて改易された。
このことは、秀吉の旧主家の織田家の完全な没落を意味した。
また、この小田原征伐の一端にもなった上野沼田は秀吉の裁定で真田家に返還された。
ただ、沼田は真田安房守昌幸の長男・信幸が半独立での城主とされ、同時に姻戚関係のある徳川氏の与力大名とされた。
そして藤懸永重は、小田原開城において功を一つ成し得たとして三千石に加増された。
のち、忍城が開城した十六日には秀吉は小田原城を出発。
奥州を平定した源頼朝に倣って鶴岡八幡宮に奉幣すると、同月二十六日には宇都宮にある亀ヶ岡城に入った。
そこで関東および奥州の諸大名の措置を下した秀吉は、伊達左京大夫政宗の案内により北上し陸奥へ向かった。
そして葉月(8月)――
奥州仕置きを終えた秀吉は会津黒川城を出発。
翌、長月(9月)一日、天下を手にした関白太政大臣豊臣朝臣秀吉は京に帰還した。
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時を同じくして長月(9月)の十日――
永重らは自らの領地である丹波亀山へ帰還した。
永重(齢十八)に従い帰還したのは、
今回は小姓として永重を支えた平松半佐(齢二十三)。
石垣山でも周囲に目を配り永重を守り続けた多紀重兼(齢三十一)。
戸隠流との戦いで左腕を失うも、微塵もそれを感じさせない月心(齢三十四)。
忍城を最後まで支え続けた夕霧(齢二十三)。
そして新たに加わった伴伊織(齢二十四)。
忍城で妹を失い、それでも立ち続けた男は今は永重の直臣としてここにいる。
忘れてはいけない、永重の愛馬である夜光(齢八)。
帰途、誰も多くを語らなかった。
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月心――
夜。
月心は庭先で刀を振っていた。
右手一本で。
血の滲む包帯はもう外れている。
失われた左は戻らない。
だが、太刀筋は揺れなかった。
「痛まぬのですか」
背後からの声。夕霧だった。
「痛む」
即答だった。
「だが、痛みは生きている証だ」
振り向かぬまま言う。
夕霧はその背を静かに見つめていた。
あの夜、自分は死んでいたかもしれない。
守られた命だった。
「……私は、まだ未熟です」
ぽつりとこぼす。
月心は刀を止めた。
「未熟でよい」
そして続ける。
「忍びが完成したと思う時は、死ぬ時だ」
風が鳴る。
「生きろ。夕霧」
その言葉は、主のものとは違う響きを持っていた。
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伊織――
別の夜。
伊織は縁側に座していた。
手にはあの鎖鎌はない。
忍城で拾い、柊の仇と知った鉄はすでに溶かされた。
形を残さなかった。
「……よいのですか」
夕霧が問う。
「形があれば、そこに囚われる」
伊織は月を見上げる。
「わたしは、討つためにここへ来たのではない」
声は静かだ。
「終わらせるために来た」
柊の名は口に出さない。
だが、そこにある。
「夕霧」
「はい」
「そなたはあの時、なぜ私を助けた」
唐突な問い。
夕霧は少し考え、そして答える。
「強かったからです」
「守れなかった男がか」
「守ろうとしたからです」
伊織は目を閉じる。
忍城の水音が、まだ耳の奥にある。
「……そうか」
それだけだった。
だが、その声は以前よりもわずかに柔らいでいた。
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永重――
自宅の居間。
皆が座している。
永重は静かに言う。
「戦は終わった。だが世は変わる」
徳川家康が関東へ移ることで、天下の均衡は崩れた。
豊臣の世は絶頂にある。
だが、永遠ではない。
「我らは小さい」
誰も反論しない。
「ゆえに、流されぬ石となる」
視線が家臣一人ひとりを捉える。
「力で押すのではない。折れぬことで道を作る」
夕霧は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
この人は生きよと言った。
忍びに。
道具ではなく、人として。
だから――
命を懸けるに足る。
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それぞれの夜――
夜光が厩で鼻を鳴らす。
半佐は馬の飼葉をやっている。
重兼は黙々と刀の手入れをしている。
月心は右手で剣を振るい続ける。
伊織は書物を読み、知をつけている。
そして夕霧は、月を見上げる。
忍城の水面。
柊の笑顔。
血の温もり。
忘れない。
忘れぬが、囚われない。
「……ひとりじゃない」
あの言葉を胸に。
戦は終わった。
だが、生きることは続く。
天下は定まった。
されど、人の世は常に揺れる。
その揺らぎの中で――
折れずに立つ者たちがいる。
丹波亀山の空に、静かな星が瞬いていた。




