15 太閤秀吉
秀吉の威厳と怖さの表現に苦慮しました。
感じ取って頂ければ幸いです。
ここしばらく主人公(永重)が出ていませんが、もうしばしお付き合い願います。
北条左京大夫氏直が降伏に来る、前々日夜――
石垣山の天幕は夜でも明るかった。
篝火の赤が金の装束を照らす。
その中央に、
天下人――関白太政大臣豊臣朝臣秀吉が座していた。
顔は笑っている。
だが、目は笑っていない。
「如水、参れ」
静かに進み出る。
如水は、この日行われた小田原での話し合いの結果報告のため、秀吉のもとを訪っていた。
黒田如水はいつものように深く頭を垂れた。
「さて如水――どう崩す」
秀吉の声は軽い。
だが問いは重い。
如水は顔を上げぬまま答えた。
「崩す必要はございませぬ」
わずかに、空気が止まった。
諸将の視線が刺さる。
秀吉の眉が上がる。
「ほう?」
「城は、すでに崩れておりまする」
「ほう……どこがじゃ」
如水は、ゆるやかに言葉を継いだ。
「父子にて」
沈黙。
秀吉の指が膝を叩いた。
「氏政か。氏直か」
「両方にございます」
「……申せ」
如水は淡々と続ける。
「氏政は“家”を守ろうとし、
氏直は“名”を守ろうとしております。
守るものが違えば、見ている未来もまた違います」
秀吉の口元が歪む。
「ならば、離間か」
「いえ」
「では何じゃ」
如水は初めて視線を上げる。
その目は、冷たい水の色をしていた。
「待つのでございます」
ざわ、と諸将が動く。
「待つ?」
秀吉の声が低くなる。
「兵糧は尽きぬ。水もある。
外からの援軍も来ぬ。
だが城内では、日々“誰が降るか”が囁かれる」
「……」
「疑いは、刃よりも深く刺さりまする」
秀吉はしばらく黙ったまま、如水を見つめた。
「如水」
「は」
「おぬしは、戦が嫌いか」
問いは突然だった。
だが如水は動じない。
「戦は、方法の一つにございます」
「人は?」
「燃える薪にございます」
天幕が凍る。
だが秀吉は――笑った。
「ははははは!
相変わらず、寒い男よ!」
笑いが収まると、急に声を落とす。
「ならば聞こう。
この戦、勝ったのち――何が燃える」
如水は間を置いて答えた。
「太閤殿下の世にございます」
秀吉の目が細まる。
「申せ」
「北条を滅ぼせば、関東は空白となりまする。
諸大名は皆、殿下の顔色を見る。
それは安定にあらず。“次の火種”にございます」
「誰が火をつける」
「それは……殿下が」
一瞬、誰かが息を呑む音。
秀吉は立ち上がった。
「如水」
声が、低い。
「儂が天下を乱すと申すか」
「天下を動かす、と申し上げております」
静寂。
やがて秀吉は歩み寄り、如水の前で止まった。
「……儂は、太閤ぞ」
「存じております」
「天下は儂のものぞ」
「いずれ、天下は天下のものになりまする」
その言葉に、秀吉の目がわずかに揺れた。
如水は続ける。
「此度の戦、勝つことよりも、“勝ちすぎぬ”ことが肝要にございます」
「ほう」
「北条を滅ぼせば、諸侯は震えまする。震えは、やがて怨みに変わります」
秀吉が笑って言った。
「では、どうせよと言う」
「氏直を生かされませ」
「甘い」
即答。
「甘さは、毒を遅らせまする」
秀吉はじっと如水を見る。
やがて、ぽつりと。
「如水」
「は」
「おぬしは、儂の死後を見ておるのか」
「……見てはおりませぬ。
ただ、来るものを数えてはおります」
秀吉は笑わなかった。
そしてしばらくして、背を向けた。
「よい」
「……」
「氏直は生かす。
だが、関東は徳川にくれてやる」
如水の瞳が、ほんのわずかに動く。
「それもまた、一つの火種にございます」
「火種は多い方が、退屈せぬ」
秀吉が振り向いた。
その目には、野心と孤独の色が見えた。
「如水」
「は」
「おぬしは、儂を恐れておるか」
如水は静かに答える。
「いいえ」
「では何を恐れる」
「殿下が、恐れなくなることを」
沈黙。
やがて秀吉は、声を立てずに笑った。
「――行け」
如水は深く頭を下げ、天幕を出た。
外は夜。
石垣山の上から、小田原の灯が見える。
遠くで太鼓が鳴る。
その闇の中で、如水は独り呟く。
「まず崩れるのは――」
言葉は風に消えた。




