14-1 小田原城【評定】
夜――小田原城 本丸上段の間。
如水と滝川下総守雄利が訪ったのちの夜である。
灯は一つを残して落とされ、障子の外では風が松を鳴らしている。
遠く、かすかに陣太鼓の音が聞こえる。
上段に、北条氏政。
その少し下に、北条氏直が座っていた。
他に人はいなかった。
沈黙の中
「……如水は、何を見たと思う」
不意に氏政が口を開いた。
氏直は一瞬、目を伏せる。
「城を」
「違うな」
短い否定。
「城は、山を削れば出来る」
氏政は静かに言う。
「だが家は、削れば消える」
氏直の指が、膝の上でわずかに動く。
「父上は……如何されるおつもりか」
直截だった。
氏政はすぐには答えぬ。
やがて言う。
「如水の申した、退くとは何だ?」
「領を失うこと」
「違う」
氏政の声は低い。
「退くとは、家を残すことだ」
氏直の眉がわずかに寄る。
「それでは、北条は敗れたことになります」
氏政は初めて、ゆっくりと氏直を見る。
「敗れぬ戦などない」
静かな言葉。
「勝ち続けた者は、いずれ滅びる」
氏直は拳を握る。
「ならば……なぜここまで抗したのですか」
「時を買うためだ」
即答。
「時?」
「豊臣の内が裂けるのを待つ」
氏直の目が見開かれる。
氏政は続ける。
「包囲は長い。
功を焦る者は必ず出る。焦りは亀裂を生む。
そして亀裂は刃になる」
氏直は低く言う。
「それは、賭けにございます」
「戦は常に賭けだ」
沈黙。
やがて氏直が顔を上げる。
「では……どうされると?」
氏政はわずかに目を細めた。
「忍がまだ、持ちこたえている」
氏直が息を呑む。
北条家に属する近隣の城は、このひと月の間に次々と落とされていた。
韮山城。
館林城
鉢形城。
八王子城。
とりわけ八王子城では、氏政の弟・氏照の正室比左を初めとする城内の婦女子が自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げた。
滝は三日三晩、血に染まったと伝えられた。
その中にあって、忍城はいまだ落ちず、豊臣軍を寄せつけずに耐えていた。
氏政は真っすぐに前を見据えて
「儂は、退かぬ」
氏直の喉が鳴る。
氏政は続ける。
「この戦、負けぬ。だが……」
一拍。
「勝てはせぬ。如水はそれを言いに来たのだ」
沈黙。
「城下の母の目を見た、と言ったな」
氏直は思い出す。
あの言葉。
――武士の目ではござらぬ。
氏政は静かに言う。
「心を攻める戦、か」
氏直が問う。
「父上は、揺れませぬか」
その問いは、刃であった。
氏政はわずかに笑う。
「揺れている」
氏直の目が揺れる。
「だがな」
氏政はゆっくりと立ち上がった。
「揺れを見せる者と、見せぬ者がある」
氏直も立つ。
「早雲公以来、北条は領土を、関東を広げた」
氏政の目が遠くを見る。
「儂は、守る戦を知らぬ」
沈黙。
氏直は声を震わせずに問う。
「退かぬならば、守り方をお示しください」
氏政は氏直をまっすぐに見る。
「氏直」
初めて名を呼ぶ。
「そなたは、北条の“名”を守ろうとしておる」
氏直は否定しない。
「わしは、北条の“血”を守ろうとしておる」
違いは、重い。
氏直は低く言う。
「名を失えば、血はただの民にございます」
氏政は頷く。
「血を失えば、名は空だ」
沈黙。
やがて氏直が言った。
「父上は……それでも退かぬのですか」
その言葉は重かった。
氏政の目が、わずかに揺れる。
「……そなたは、逃げるか」
「逃げませぬ」
即答。
「しかし」
氏直は一歩進む。
「父がいるうちは、子が選ぶべきではございませぬ」
沈黙。
風が強くなり、障子が鳴る。
氏政はゆっくりと息を吐いた。
「そなたは優しい」
氏直の拳が震える。
「優しさでは、家は守れぬ」
「守れます」
氏政は静かに言い切った。
「優しさがあるから、退ける」
氏直の目に、初めて熱が宿る。
「退くことが、守ることならば――」
言葉が止まる。
氏政が問う。
「ならば?」
氏直は顔を上げる。
「退きましょう」
空気が凍る。
だが続けた。
「ただし、北条が“折れた”とは言わせませぬ」
氏政の目が細まる。
「どうする」
「豊臣の威に屈したのではない」
氏直は静かに言う。
「天下の理に従った、といたします」
氏政は、わずかに笑った。
「言葉遊びだ」
「この戦は、言葉で終わります」
氏政は、氏直の向こう側に如水の影を見た。
そこに、あった。
長い沈黙。
やがて氏政は座り直した。
「氏直」
「は」
「北条は、猿如きに媚びぬ。退かぬ」
一瞬、刻が止まった。
氏直は、深く、深く頭を下げた。
畳に涙が落ちる。
夜は更けていく。
小田原城は、まだ堅い。
だが――割れようとしていた。
伊達政宗と北条氏直。
同じ左京大夫という官位を記載していますが、これは間違いではありません。




