13-1 石垣山城【大詰】
石垣山城――夜
石垣山は夜になると音が薄くなる。
陣太鼓も、兵のざわめきも、闇の中では遠い。
白壁は月を受けて青く沈み、山の上だけが別の世のようであった。
永重は、石垣の上に立っていた。
眼下に小田原。
黒い塊のように沈む城。
そのさらに先に、海がわずかに光を返している。
「戻られましたな」
声がした。
振り返ると、多紀重兼が控えていた。
「うむ」
それだけ答え、永重は再び城を見た。
「小田原城は、堅い」
ぽつりと呟く。
重兼は慎重に問う。
「北条は、折れませぬか」
永重は即答しなかった。
「……折れる」
「では」
「だが、どこから折れるかが問題だ」
風が吹く。
石垣山の白壁が、かすかに鳴った。
「城ではない」
重兼が目を細める。
「人、にございますか」
永重は小さく頷いた。
「氏政殿は動かぬ。だが氏直殿は揺れる」
あの広間の沈黙。
袖の中で握られた指。
一瞬の呼吸の乱れ。
「父子の間に、隙はある」
重兼は黙る。
「だが」
永重は石垣を軽く叩いた。
「それを突けば、家は残らぬやもしれぬ」
風が止む。
重兼が低く言う。
「御役目は、“見る”ことでございましょう」
永重はわずかに笑った。
「そうだ」
だがその目は、笑っていなかった。
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その頃――
黒田如水は灯火のもとに座していた。
地図の上に小石が置かれている。
小田原
忍
松井田
八王子
韮山
下田
長政は側に控えていた。
「永重殿は、何を見ましたか」
如水は地図から目を離さず答える。
「若さ」
「氏直殿の、にございますか」
「いや」
ゆっくりと顔を上げる。
「永重のだ」
長政の眉がわずかに動く。
「揺れましたか」
「揺れた」
即答だった。
「だが、崩れはせぬ」
如水は立ち上がる。
足取りに迷いはない。
「見た者は、いずれ選ぶ」
長政は黙って聞いている。
「それが早いか遅いかだけのこと」
灯が揺れる。
「小田原は落ちる。だが問題はその後だ」
長政が目を細める。
「関東ですか」
「いや」
如水の目が鋭くなる。
「太閤の御世だ」
沈黙。
「長引けば、功を焦る者が出る。
焦りは裂け目を生む」
小さく鼻で笑う。
「永重は、どこを見ているのか……実に面白い」
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部屋へ戻った永重は、刀を置き畳に座った。
重兼と半佐も側に座った。
目の前には月心が控えていた。
「忍城はどうだ」
月心は一瞬、間を置いた。
「水攻めが本格化しております」
「堤は」
「一部、崩れたと」
永重の指が止まる。
「崩れた?」
「正確には、崩したものと。
古き流路の跡と聞き及びます」
永重の目がわずかに細まる。
月心が続ける。
「北国勢の――六文銭の旗影も見えたとか」
永重はゆっくりと息を吐く。
「持ちこたえるか」
「五分にございます」
沈黙。
「……夕霧は?」
月心の目がわずかに動く。
「城内に」
短い答え。
永重の胸の奥に、微かな熱が走る。
だが顔色は変えぬ。
「危うければ退けと伝えた」
「はい」
「退かぬであろうな」
月心は答えない。
永重は目を閉じた。
如水の声が蘇る。
――情を抱くな。
内藤直行の声が蘇る。
――若い主を崩させるな。
そして、夕霧の声。
永重は目を開けた。
「月心」
「は」
「忍城の状況を詳しく探れ」
「……御自ら動かれますか」
「いや」
首を振る。
「私は、ここにいる」
石垣山。
白壁の城。威を示す城。
「ここが、最も揺らぎやすい」
月心の眉がわずかに上がる。
「味方にございますか」
「そうだ」
永重は立ち上がる。
「忍が持ちこたえれば戦は長引く。
その分、膠着すれば人は死なない。
ただ、長引けば不満が出る」
「誰に」
「加藤か。福島か。あるいは――」
言葉を切る。
「石田」
月心の目が鋭くなる。
「功を急ぐ者が、最も危うい」
永重は障子を開けた。
夜気が流れ込む。
遠く、小田原の方角にかすかな灯。
「心を攻める戦、か」
小さく呟く。
「ならば」
振り返る。
「攻められるのは、北条だけではない」
石垣山の白壁が、月に照らされる。
威容を誇る城。
だがそれは、諸将の野心の上に築かれた城でもあった。
永重は静かに言う。
「まず崩れるのは、どこだ」
風が、旗を鳴らした。
石垣山。
一夜城。
その静寂の下で、
目に見えぬ裂け目が、ゆっくりと広がり始めていた。




