11-3 忍城【潜入】
翌朝――
柊は、穏やかな表情でそこに横たわっていた。
まるで、ただ眠っているだけのように。
夕霧はその身体を丁寧に拭き清め、自らの小袖で小さな身体を包んであげていた。
伴伊織は、ただ無言でそれを見下ろしていた。
「――私が付いていながら……申し訳ありません」
夕霧は深く頭を垂れ、床に額がつくほどに跪いた。
無言。
伊織は何も言わず、
泣くことも、
涙も流すことなく、
ただただ、柊の顔だけを見つめていた。
やがて――
「……誰が」
少しだけ擦れた、低く、抑えた声。
「どこの手の者だ」
夕霧はわずかに顔を上げる。
「……恐らくは、真田」
「根拠は」
夕霧は懐から布に包まれたものを取り出し、静かに床へ置いた。
鉄の音が、重く響く。
「それは……?」
伊織が振り向き、そのものを見下ろして聞いた。
それは俗に言う鎖鎌だった。
だが、ただの鎖鎌ではなかった。
鎌の曲刃に加え、反対側に直線の刃が備えられている。
斬るだけでなく突くことも出来る特殊な造りだった。
これは、距趹渉毛と言われる、ある特定の忍び集団が用いる異形の武具だった。
――戸隠流。
信濃を拠とし、伊賀の流れを汲む忍び衆。
そして、その戸隠流を抱え重用している家こそが六文銭の旗印を掲げる――真田。
堤を破ったのち、伊織が目にした旗であった。
三途の川の渡し賃。
死を恐れぬ者の印。
伊織はゆっくりと鎖鎌を拾い上げる。
冷たい鉄。
それを見つめるその目に、ようやく感情が宿る。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ――
「……そうか」
それだけを呟いた。
だがその目の奥には、火種が確かに灯っていた。
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水攻めにあっているため難しかったが、正木丹波守の差配により伊織と夕霧は柊を荼毘に伏すことが出来た。
そしてその日の夜――
伊織は自らの部屋に夕霧を呼んだ。
「夕霧殿」
白湯が入った湯呑を夕霧に差し出したのち、伊織は言った。
「そなた、忍びだな」
夕霧は覚悟していた。
城下に侵入してきた忍びを葬ったこと。
この日の朝、伊織に襲ってきたのが戸隠流である事を告げたこと。
「……左様にございます」
「やはりか。
そなたが受けた任は何だ?」
落ち着いた声で伊織は聞いた。
「二つございます」
そう言って伊織の目を見て夕霧は続けた。
「一つは件の書を届けること。
もう一つは、正木丹波守様をお助けすることです」
伊織はすぐに応えた。
「わからぬ。そなたらは敵方であろう」
すると夕霧もすぐにその問いに答えた。
「わたくしの主は、藤懸永重様にございます。
主が申したのは……忍城を落とさせてはならぬ、と」
「何故だ」
「忍城が落ちれば、小田原は更に身を固めます。
今よりもなお、城攻めは激しくなりましょう。
そして、それと同じぐらい他方で争いが起き、数多の人が死にます」
永重は、この戦を膠着状態にすることで、一方的な蹂躙ではなく和をもって事を成すべき、と考えていた。
その要所となるのがこの忍城と考えていた。
「失礼ながら……重臣ならばともかく、たかが足軽大将如きが考えることとは思えぬ」
伊織は馬鹿にするでもなく、皆が思うであろうことを正直に口にした。
夕霧はふっと笑うと言った。
「その通りにございます。
されど、戦とはそのお偉い様方を除く者たちにより左右されるものです」
伊織が言った。
「なるほど。
そなたの主は、多くの者の命を救うため、そなたに死んでこいと命じたのだな」
それを聞いた夕霧の顔色が変わった。
「それは違います」
はっきりと答えた。
「わたくしの……我が主は、危うければ引け、と」
「ならばなぜここに居る」
「私の意思でここに居ります」
夕霧が続ける。
「忍びは……忍びの命は軽く見られます。
死とはいつも隣合わせ。
しかも死する時は自らの身分がばれてもなりません」
一拍。
「しかし、我が主は違います。
忍びの、わたくしの命すらをも案じられる御方です」
すると真っすぐに伊織の目を見て言った。
「主は、わたくしが命を懸ける価値のある方にございます」
伊織は、しばし黙して夕霧を見つめていた。
灯明の火が揺れる。
その影が、二人の間に長く伸びる。
「……命を懸ける価値、か」
低く、噛み締めるような声だった。
「忍びにとって、そなたにとって主とはそれほどのものか」
夕霧は迷わず答える。
「はい。
主はわたくしに、生きよと申されました。
忍びに共に生きよと仰る御方です。」
言葉がわずかに震える。
「それだけで、命を差し出すに足ります」
伊織の目が、わずかに細められる。
「矛盾しておるぞ」
「承知しております」
即答だった。
「されど、命を粗末にせよと命じられるより、生きよと言われてなお、この身を懸ける方が――
はるかに重うございます」
沈黙。
遠く、水を打つ音がする。
水攻めの水はなお城を締め付けている。
やがて伊織が言った。
「……そなたは、わたしをどう見る」
突然の問い。
夕霧は一瞬だけ目を伏せ、そして答える。
「強い御方にございます」
「武か」
「いいえ」
きっぱりと言い切った。
「悲しみを飲み込み、涙を見せぬ強さ。
それは、誰にでも出来ることではございません」
その言葉に、伊織の瞳がわずかに揺れる。
柊の顔が脳裏をよぎる。
白い顔。
眠るような姿。
そして――冷たさ。
「……強くなどない」
ぽつりと零れた。
「わたしは、何も守れなかった」
夕霧は首を振る。
「守れなかったのではございません」
「では何だ」
「守ろうとした。
それは、消えませぬ」
静かだが、揺るがぬ声だった。
「忍びは、結果のみを問われます。
ですが……人は違います。
想いは、消えませぬ」
伊織は目を閉じる。
胸の奥で、何かが軋む。
怒りか。
悔恨か。
それとも――
やがて目を開けた。
その奥の火種は、今やはっきりとした灯となっている。
「夕霧」
「はっ」
「わたしは、真田を討つ」
声は静かだった。
だが決意は固い。
「だがそれは、仇討ちではない」
夕霧の目がわずかに見開かれる。
「戦を終わらせるためだ。
柊のような者が、これ以上死なぬために」
灯明の火が、ぱちりと鳴った。
「そなたの主の思惑とも、遠からぬであろう?」
夕霧は、ゆっくりと頭を下げた。
「……はい」
「ならば」
伊織は鎖鎌を手に取る。
冷たい鉄を握りしめる。
「敵であろうと味方であろうと関係ない。
この城を落とさせぬ。
そして――」
わずかに間。
「この戦を、終わらせる」
夕霧は深く、深く頭を垂れた。
「御意」
その声は、もはや忍びのものではなかった。
一人の武士に、
命を預ける者の声だった。
灯は揺れながらも、消えない。
外では、水が城を囲み続けている。
だが――
その夜、
忍城の一室で、
確かに新たな火が灯った。




