2-2 称名寺【広瀬兵庫助康親】
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2026.8.5 文章構成含め、全体的に改稿しました。
「ようここまで段取りを整えられたな。
それがしも随行いたす。以後よしなに頼むぞ」
呵々たる笑いが、朝まだきの冷気を払いのけるように堂内へ響き渡った。
その声に、張りつめていた空気がわずかに緩む。
三之丞より、秀吉一門を美濃まで送り届けよとの命を受けた松丸は、いったん自邸へ戻り家族へ仔細を告げた。
母は黙して旅支度を整え、幼い弟妹は事の重さを量りかねたまま、不安げな眼で兄を見つめていた。
「無事に戻る」
その一言だけを残し、松丸は家を後にした。
長浜城で一行と合流すると、そのまま称名寺へ向かった。
戦支度ではない。
されど、誰一人として気を緩める者はいなかった。
秀吉の留守を預かる家族を送り届ける──それは一門の威信を背負う務めでもあったからだ。
松丸は広瀬兵庫助の前へ進み出ると、両手をついて深々と頭を垂れた。
「広瀬様、よろしくお願い申し上げます」
兵庫助は肩を揺らし、快活に笑った。
「兵庫助でよい。堅苦しいことは抜きじゃ」
その笑みは春の日差しのように温かい。
だが、笑みが消えると同時に、その双眸には武人らしい鋭さが宿った。
広瀬兵庫助。
諱は康親。齢二十四。
若年ながら幾度も修羅場を潜り、戦場では退かぬ胆力を、平時には人を思いやる細やかさを備えていた。
長浜築城の折には誰より泥にまみれて昼夜を分かたず働いたという。
その働きを秀吉は殊のほか喜び、近習や足軽に至るまで「兵庫助殿ならば」と慕う者は少なくなかった。
武とは剛だけではない。
人を束ねる徳を持つ者こそ、真に恐るべき将である。
松丸は、そのことを兵庫助の立ち居振る舞いから自然と感じ取っていた。
「──して、兵庫助殿。
美濃へはいつ頃出立いたしますか」
問いを受けた兵庫助は、一度堂内へ視線を巡らせた。
奥では侍女たちが静かに旅支度を整え、お方様の母堂へ温かな茶を差し出している。
誰もが声を潜めていた。
兵庫助は静かに口を開く。
「事が起きてよりというもの、皆、慌ただしくここまで参った」
その声音は穏やかであった。
されど、一言一言が胸へ染み込むように重い。
「お方様は終始、気丈に振る舞っておられる。
ご母堂様も、人前では取り乱されぬ」
そこで言葉を切る。
兵庫助は障子越しに射す淡い朝の光へ目を向けた。
「されど──胸の内はいかばかりか。察するに余りある」
堂内が静まり返る。
薪のはぜる小さな音だけが耳へ届いた。
兵庫助は静かに頷く。
「ゆえに、一刻も早くご安心いただかねばならぬ」
その声には、揺るがぬ決意が宿っていた。
「明朝、夜明けとともにここを発つ。
すでに手配は進めておる」
誰も異を唱えなかった。
否、唱える者などいるはずもなかった。
その一言で、この旅の覚悟は定まったのである。
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翌朝。
東の空がようやく群青を薄め始めた頃。
称名寺の境内には旅装を整えた一行の姿があった。
冬の名残を引きずる朝気は鋭く、吐く息は白く漂う。
馬は鼻を鳴らし、蹄で地を掻く。
乾いた音が静まり返った境内へ小さく響いた。
秀吉の妻――お方様は侍女に支えられながら輿へ乗り込まれた。
続いて母堂も静かに身を収める。
疲労の色は隠せない。
それでも背筋は崩れず、顔を伏せることもなかった。
悲しみを人へ見せぬこともまた、戦国を生きる武家の女の強さである。
その姿に、誰も軽々しい慰めの言葉を掛けようとはしなかった。
住職・性慶もまた輿の脇へ進み、静かに数珠を繰る。
読経こそない。
されど、その存在だけで一行の心はわずかに鎮まるようであった。
兵庫助は馬上から一同を見渡した。
供回りの足軽。
侍女。
僧。
そして松丸。
誰一人として気の緩みはない。
兵庫助は静かに頷き、腹の底から声を発する。
「よし──出立いたす」
その一声で空気が動いた。
手綱が引かれ、馬が歩み出す。
輿が軋み、静かに前へ進む。
荷車の車輪が朝露を含んだ土を踏みしめる音だけが、規則正しく続いていく。
松丸は最後尾につき、左右へ絶えず目を走らせていた。
街道脇の林。
人影のない農家。
橋の向こう。
わずかな異変も見逃すまいと、神経を張り巡らせる。
美濃への道は遠い。
しかも世は乱世。
敵は戦場だけに現れるものではない。
――父上に代わり、お方様方を必ずお守りする。
胸の内で固く誓った、その時だった。
「松丸」
兵庫助の声が風に乗って届く。
「はっ」
馬を寄せた兵庫助は、横目で松丸を見ながら穏やかに笑った。
「肩に力が入りすぎておる」
松丸は思わず姿勢を正す。
兵庫助は続けた。
「護りは皆でいたすものよ。そなた一人で背負うことではない」
そして、わずかに目を細める。
「されど、そなたの目配りは頼りにしておる」
その言葉は、若き松丸の胸へ真っ直ぐ届いた。
信じられている。
その重みがかえって心を静める。
松丸は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉。必ずや、この務めを果たしてみせます」
兵庫助は満足そうに一つ頷くと、馬腹を軽く蹴って隊列の先へ戻っていく。
やがて一行は街道へ出た。
山の端から昇った朝日が、長浜の城下を淡い黄金色に染め始める。
その光は、旅立つ者たちの背にも等しく降り注いだ。
松丸は知らず拳を握る。
朝日に照らされ、その拳は白く浮かび上がっていた。
この旅は、ただ人を送り届けるためだけの道行では終わるまい。
そんな予感が、春まだ浅い風とともに胸の奥で静かに芽吹いていた。




