11-2 忍城【潜入】
【注意】
ショッキングなシーンがあります。
苦手な方はご注意願います。
水は、音もなく来た。
最初に異変に気づいたのは城下の犬だった。
低く唸り、地を嗅ぎ、やがて遠吠えをあげる。
それから半刻もせぬうちに、忍城を囲む沼の水面がわずかに脈打ちはじめた。
「来ました」
物見の声は静かだった。
城の土塁の上に立つ伴伊織は、掌で陽を遮り水面を見つめている。
普段は穏やかな沼が、ゆるやかに膨らんでいた。
溢れる、のではない。
満ちてくる。
じわり、じわりと。
「丹波守様へ」
「すでにご存じだ」
背後から声がした。
正木丹波守利英は甲冑姿であった。
黒糸威。兜はまだ被っていない。
「水は敵にあらず。
敵は、焦りだ」
その目は、遠くではなく足元を見ている。
「堤が完成すれば、あとは時間との戦。
奴らは早く沈めたい。だが忍は浮いている」
そのとき、城下の一角から叫びが上がった。
水が、屋敷の床下へ入り込んだのである。
その頃――
夕霧は袖をたくし上げていた。
「床を上げて。藁を敷き直して。湿気を吸わせて」
女、老人、負傷兵。
誰彼の区別なく薬と乾布を配っている。
水が来れば、傷は膿む。
冷えれば、熱が出る。
そして、恐れが広がる。
柊が桶を抱えて戻ってきた。
「次はどこ?」
「西の長屋。子が三人いる家」
柊は頷き、走る。
十日前、荷車の陰で縮こまっていた童とは思えぬ足取りだった。
生きることに必死だった。
夕霧は一瞬、温かい目でその背を見送る。
(強い子だ)
奪われるものを知った子だ。
-------------------------------------
その日の夜。城内の一室。
正木利英は地図の上に石を置いた。
「水位は?」
「今宵で一尺上がりました」
「三日で三尺。五日で……」
沈黙。
やがて利英は言う。
「城は沈まぬ。だが城下は沈む……」
伊織が唇を噛む。
「救い出すか」
「できる限りは」
そのとき、障子の外から声がした。
「丹波守様」
夕霧であった。
「入れ」
夕霧は部屋に入ると静かに膝をついた。
「薬は足りております。ですが、塩が不足します」
「塩?」
「水に浸かれば腐りが早い。
清め、保つには塩が要ります」
利英は目を細める。
「城内の備蓄は兵糧優先だ」
「承知しております」
夕霧は顔を上げた。
「ゆえに、堤を崩せませぬか」
室内の空気が凍る。
伊織が思わず横から口を挟んだ。
「無茶を申すな」
「無茶ではございませぬ」
夕霧の声は静かだった。
「堤は長大。正面からは崩せませぬ。
ですが、まだ締まりきらぬ土。
水の勢いが最も強い一点を崩せば――」
利英の目が、わずかに動く。
「どこだ」
「南西。古き流路の跡」
伊織が驚く。
「なぜそれを」
夕霧は答えない。
ただ、言った。
「水は、道を忘れませぬ」
深夜。
雨がしとしと降っていた。
城から影が三つ出た。
伊織と屈強な足軽二名であった。
「本当にここか」
「ああ」
足軽の一人が裸足で泥を踏む。
「昔、親父が言ってた。
川は、こっちに流れてたって」
堤の南西。わずかに地が沈む箇所。
水圧が集中している。
「やるぞ」
鍬が入る。
湿った土が崩れる。
最初は、ただの小さな穴だった。
だが――次の瞬間。
轟音が鳴り響いた。
水が牙を剥いた。
「伏せろ!」
濁流が裂け目を広げる。
堤の一角が崩れ、奔流が方向を変える。
城へ向かっていた水が横へ逃げた。
完全ではない。
だが勢いは鈍る。
丸墓山の陣に、騒ぎが起きた。
翌朝。
利英は城下を見渡す。
水位は、わずかに下がっていた。
「……持ちこたえたか」
伊織が膝をつく。
「南西、崩落成功いたしました。
ですが敵も修復に動きましょう」
「よい」
利英は低く笑った。
「水は、味方にも敵にも牙を剥く」
そのとき、太鼓の音が変わった。
北からの狼煙。
城壁の上で兵が叫ぶ。
「北方に旗影!」
風が旗をはためかせる。
六文銭の紋。
夕霧は目を細めた。
遠く、川向こう。
北国勢が、動いた。
忍城はまだ沈まない。
しかし、水は再び行き場を失おうとしていた。
-------------------------------------
それから二度、堤は破られた。
水無月(6月)中旬、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったものの、なんとか持ちこたえていた。
夜半――
その夜、月は雲に隠れていた。
城下の一角、床を上げた長屋の中で夕霧は湿布を替えていた。
「熱はどう?」
「……少し、楽……」
負傷兵が目を閉じる。
柊が小さな灯りを持って寄ってきた。
「次、東の家だって」
「分かった」
その時だった。
――かすかな、水音。
雨ではない。
沼の水が軋むような、重たい音。
夕霧の背筋を氷の刃がなぞった。
この気配は――
「柊」
声を落とす。
「外へ出ないで」
柊は頷いた。
けれど、その瞳は不安で揺れていた。
夕霧は灯りを吹き消し、闇の中へ滑り出る。
土塁の陰。
見張りの兵が喉を押さえて崩れ落ちた。
黒装束。
泥に溶ける影が四つ。
――忍び。
胸が強く脈打つ。
(忍城を内から裂くつもりか)
背後に気配。
振り向いた瞬間、刃が月光を裂いた。
夕霧は身を捻り、短刀で受けると火花が散った。
夕霧は受け流し泥へ転がる。
「女か」
低い声。
「構うな。殺せ」
二人目が横に回り込む。
夕霧は下がる。
(数が多い)
その時――
視線の先の長屋の裏口に、顔が浮かんだ。
恐怖ではなく、心配そうな顔で。
夕霧の心臓が止まる。
「出ちゃだめ!!」
夕霧が叫んだ。
「おねえちゃん……?」
その小さな声に、黒装束の一人が振り向く。
刃が、迷いなく閃いた。
夕霧が飛び込む。
――だが
届かない。
鈍い、嫌な音。
柊の身体が、ふわりと揺れた。
刹那、時間が止まる。
柊は、自分の胸を見下ろした。
小さな手。
そこに、赤。
信じられない、という顔。
「……あれ?」
その声が、あまりに幼い。
血が静かに溢れる。
夕霧は絶叫した。
声にならない叫び。
黒装束に体当たりし、泥へ叩きつける。
短刀を喉に突き立てると温かい液が手を濡らした。
傍らには鎖鎌が落ちていた。
それを見た、残る影が退いた。
「引け!」
影は、闇へ溶けた。
追えない。
夕霧は振り向くと、柊が立ったまま揺れていた。
「柊……」
夕霧が駆け寄って抱き留める。
軽かった。
あまりにも。
「しっかりして」
声が、震える。
柊は目をぱちぱちと瞬かせた。
「……あったかい」
血が、夕霧の着物を濡らす。
止まらない。
止められない。
「大丈夫。大丈夫だから」
何が。
何も大丈夫ではない。
夕霧の手が震える。
押さえる。
血が溢れる。
柊は不思議そうに、夕霧を見上げる。
「……泣いてるの?」
夕霧は気付いた。
涙が頬を流れている。
「泣いてない」
嘘だった。
柊は小さく笑った。
十日前に荷車の陰で見せた、あのかすかな笑みと同じだった。
「……おねえ、ちゃん」
夕霧の喉が詰まる。
「ここにいる」
「……さむく、ないよ」
夕霧は強く抱きしめる。
「寒くない。寒くない」
小さな指が、夕霧の袖を握る。
弱い。
あまりにも弱かった。
夕霧は強く、強く抱きしめた。
「……もう、ひとり、じゃないよね」
その言葉が、夕霧の胸を貫いた。
「ひとりじゃない」
柊がまた微笑んだ。
「……よかった」
柊の目尻から、涙が頬をひとすじ流れた。
その涙を、夕霧は指で拭う。
「柊、目を開けて」
「……うん」
だが瞼は、ゆっくりと重くなる。
「柊」
揺する。
「柊っ!」
呼ぶ。
もう一度。
何度も。
だが返事はない。
小さな身体が、すっと力を失う。
腕の中で、重さが変わる。
夕霧は、柊を抱きしめたまま動けなかった。
血と泥と涙が混ざる。
声が出ない。
そして、胸の奥から何かが崩れる音がした。
(守れなかった)
その事実だけが、冷たく沈む。
柊の頬に、自分の額を押し当てる。
まだ、ほんのり温かかった。
忍城の水は、静かに揺れていた。
まるで、何も起きていないかのように。
静かに。
あまりにも静かに。




