11-1 忍城【潜入】
永重が如水に遂行し小田原城を訪っていた頃――
夕霧の姿は忍城下にあった。
忍城は、石田治部少輔を大将として数に物を言わせて豊臣軍が力押ししてきたものの、地の利を生かした成田軍が見事に撃退していた。
現在は豊臣軍の北国勢の合流を待ち膠着状態にあった。
夕霧はその初戦の少し前から忍城に潜伏していた。
夕霧が忍城に潜伏した理由は、城主・成田氏長に仕える正木利英に渡りをつけるためであった。
正木利英は、永重の父・永勝と文のやりとりをする旧知の仲であった。
忍城下は、泥と水と血の匂いが混じっていた。
城を囲む沼地は、冬を越えた水をたたえ攻め手の足を絡め取る。
遠くには豊臣方の陣幕。
近くには、忍城の土塁が低く、しかし頑強に横たわっている。
夕霧は、農家の裏手に干された筵の陰に身を潜めていた。
そしてその夕霧の隣には、一人の童の姿があった。
名は、伴柊という。
歳はわずか十であった。
隣で、柊が小さく息を整えている。
遠くで陣太鼓が鳴る。
豊臣方の兵が水路を塞ぎ、堤を築きはじめているという噂が流れていた。
石田治部少輔が水攻めを企てている、と。
夕霧が柊と出会ったのは、忍城に入ってからすぐだった。
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――十日前
忍城下の市は、平時を装っていた。
干し魚を売る声。
味噌を量る音。
だがその裏で、兵糧は密かに城へ運ばれ、若い衆は槍を握る手を慣らしていた。
夕霧は薬売りを装い、市を歩いていた。
そのとき、荷車の陰でひとりの童が袋を抱えて座り込んでいるのが目に入った。
痩せている。
だが目だけが、妙に澄んでいた。
「どうしたの?」
夕霧が声をかけると、童はびくりと肩を震わせた。
「……水の流れを」
童は小さく答えた。
夕霧は視線を落とす。
水路が城へ向かって流れている。
「名は?」
「伴柊」
「親はどうしたの?」
一瞬の沈黙。
「……先の戦で」
それ以上は言わなかった。
その時――
「柊ーーっ!!」
若者が、声を上げて柊を探していた。
夕霧は黙って手を挙げると、その若者が気付き近寄ってきた。
若者が側に来て、荷車の陰で座り込んでいる柊を認めると
「柊!側を離れるなと言ったろう?」
そう言うと夕霧に向かって振り向き
「忝い。何かご迷惑をおかけしておらぬか?」
頭を下げながら問うてきた。
「いえ、私は何も……
ただこの中で幼い娘が一人居たので心配で声を掛けただけなのです」
夕霧はそう言って立ち去ろうとしたところ
「名を……柊が自らの名をあなたに言いましたか?」
若者が更に聞いてきた。
「ええ。教えてくれました」
そう言うと、その若者は目を見開いて驚いた。
「そうですか。
この娘は……柊はずっと他人とは喋っていなかったのです。
両親が亡くなってから……」
やや伏し目がちに言うと、続けて夕霧を見て
「申し遅れました。
某は正木丹波守利英が家臣、伴伊織を申す」
そして柊を見下ろし言った。
「柊は某の妹にございます」
その伴伊織は見る限り夕霧と年は同じ頃に見えた。
眉目秀麗であり、発する声もまた落ち着きがあった。
「夕霧と申します。薬売りでございます」
夕霧は少し頭を下げて言った。
「……夕霧殿、お助けいただきありがとうございます」
伊織は少し頭を下げ、そして柊の頭に軽く手を置いた。
柊は俯いたままだったが、夕霧の方を小さく見上げるとかすかに口元がほころんだような気がした。
そして
「……ここはもうすぐ戦になります。
急ぎ忍城から出られよ」
そう言うと伊織は柊の手を引いて立ち去ろうとした。
「お待ちください」
夕霧は去ろうとした伊織らを呼び止め、声音を低くして続けて言った。
城内は戦の足音に満ちており、今ここで正木丹波守に面会を願い出るのはあまりにも危険な行為だった。
しかし、夕霧はためらいを見せず慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「――正木丹波守様にお目通りさせて頂けませぬか」
それを聞いた伊織は、先程の柔らかい表情から一変し目線が鋭くなり、その左手を腰にある刀に添えた。
夕霧は声音を抑えたまま慌てることなく言った。
「お待ちください。
私は薬売りのついでで、書を預かっただけにございます」
「書とは?」
「藤懸三河守永勝が嫡子、永重様からの書にございます」
夕霧は深く息を吸い、周りに見られぬよう注意しながらゆっくりとした動作で懐から書を取り出した。
「この書を正木丹波守様に届けたく」
「内通を促すものか?」
左手を腰にある刀に添えたまま伊織が聞くと
「まさか……そのような物をここで出せば私が切られて終わりでございます」
夕霧は少し笑みを浮かべてそう言うと、表情を改めて続けた。
「私はただの薬売りです。
懇意にして頂いている永重様よりお預かりしたのみで、この書に何が書かれているかは存じ上げませぬ」
そして少し置いて
「されど、この今の中でさすがに表立ってお渡しするのは難しく……伊織様が言われた通り内通を疑われても仕方ありませぬ。
どうしようかと思っていた時に伊織様に出会えた私は、ついております」
そう言って夕霧は伊織に向かってほほ笑んだ。
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翌日――
城内は思ったより静かであった。
怒号も喧騒もない。
ただ、張りつめた糸のような空気が廊を満たしている。
夕霧は伊織に先導され、土塁裏の詰所を抜けさらに奥の一室へと通された。
襖が開く。
そこに座していたのは、年の頃四十を越えた武将であった。
痩せた頬、鋭い眼。
しかしその視線には、焦燥よりも冷静が勝っている。
正木丹波守利英。
忍城を支える柱の一人であった。
伊織が膝をつく。
「丹波守様。例の者にございます」
夕霧も静かに座し、深く頭を垂れた。
「薬売りと申したな」
低い声が落ちる。
「夕霧と申します」
「……薬売りが、なぜ今この城におる」
夕霧は顔を上げずに答えた。
「預かり物がございますゆえ」
伊織が懐より書を取り出し、丹波守の前に差し出す。
利英は封を確かめると、わずかに目を細めた。
室内の空気がさらに重くなる。
封が切られる音だけが響いた。
利英は無言で目を走らせる。
一行、また一行。
やがて、その視線が止まった。
「……ほう」
初めて、感情の色が滲んだ。
「夕霧と申したな」
「は」
「これを誰から預かった」
「永勝様が嫡子、永重様にございます」
利英は書を閉じ、膝の上に置いた。
「永勝殿とは若き頃、幾度も文を交わした。
あの御仁は軽々に筆を走らせる方ではない」
視線が、夕霧を射抜く。
「この書、内通ではない」
伊織が息を呑む。
「では……」
「“忍は落ちぬ”と書いてある」
利英の口元が、わずかに歪んだ。
「そして――水が来る、と」
遠く、地の底を揺らすような低い響きがした。
誰かが駆け込む。
「丹波守様!
豊臣方、丸墓山にて堤を築き始めました!」
利英はゆるりと立ち上がった。
「やはりか。治部め……」
城外で進む策は、水攻め。
沼と川を逆手に取る忍城に対し、さらに水をもって制する策。
利英は夕霧を見た。
「永重殿は何を望んでおる」
夕霧は初めて、まっすぐに丹波守を見返した。
「忍城が持ちこたえること」
「理由は」
「北国勢が動きます」
室内が凍る。
「それまで、忍が落ちてはならぬと」
伊織が思わず声を漏らす。
「北国勢……上杉か?」
夕霧は答えない。
ただ、静かに言う。
「私は書を届けるのみ。
されど、間に合わねば意味はございませぬ」
利英はしばし沈黙した。
やがて――
「伊織」
「は」
「この者を客分として扱え。
ただし、城外への出入りは禁ずる」
伊織が一瞬驚き、そして深く頭を下げた。
「はっ」
利英は夕霧に向き直る。
「薬売りと申したな」
「はい」
「ならば城兵に薬を回せ。
水が来れば、病も来る」
その目に宿るのは覚悟であった。
「忍は、沈まぬ」
遠くで太鼓が鳴っている。
水が、動こうとしていた。




