10-2 小田原城【交渉】
城門を出て、外気が胸に流れ込む。
小田原城の重みが、背後に残る。
やがて外郭を抜け、豊臣方の使者と北条側の見送りが形式的に礼を交わす場所に至った。
如水の輿が進みはじめた、その時――
「――少し、お時間を賜りたい」
低い声。
北条方の列から一人の武将が歩み出た。
年は三十に届くか届かぬか。
鎧は簡素だが、帯刀の位置が微動だにしていない。
目は静かで、だが曇りがなかった。
「津久井城主、内藤直行と申す」
如水の輿が止まる。
直行は視線を永重へ向けた。
「御供の御仁と少しお話しさせて頂きたい」
永重は一歩進み、静かに頭を下げる。
「藤懸永重にございます」
直行はわずかにうなずいた。
「一つ、問うてもよろしいか」
周囲の北条武士がわずかに緊張する。
豊臣方の者も耳を澄ませている。
「お答えできることならば」
永重は静かに言う。
直行は一瞬、小田原城を振り返った。
「黒田殿は、我らを滅ぼすために参られたか」
空気が止まる。
永重は、すぐには答えなかった。
如水の言葉が胸に残る。
――推し量るな。飾るな。恐れるな。
永重は直行を見た。
「滅ぼすか否かは、北条が何を守るかによりましょう」
直行の目がわずかに細まる。
「家を守ると言えば、領を差し出せと申される」
「家を守るとは、何を残すことにございますか」
問いを返す。
直行は黙る。
永重は続ける。
「名か、血か。
家臣か、土地か」
風が吹き抜ける。
直行の指が、わずかに握られる。
喉が小さく鳴った。
「氏直様は、幼き頃より御父君の影の中で育たれた。
だが――」
直行は城を振り返る。
「あの御方は、弱くはない」
永重は黙して聞く。
「御父君は現実を見ておられる。
だが氏直様は、北条の“名”を見ておられる」
氏政と氏直。
父と子。
現実と誇り。
直行は言葉を継いだ。
「御家を残すために退くべきと、頭では分かっておられる。
だがそれを“自ら選ぶ”ことが、どれほど重いか」
永重の胸に静かな痛みが走る。
――若さは刃。
如水の声が蘇る。
直行は一歩近づき、声を落とした。
「黒田殿は、あの御方を揺さぶられた」
否定はできぬ。
直行はまだ続ける。
「御父君は動かぬ。
だが氏直様は揺れる。
それを見抜いておられる」
すると永重が直行を見て口を開いた。
「貴殿はいずれに立たれる」
直行の目が鋭くなる。
「氏直様に」
即答。
「御父君が如何なる道を選ばれようとも、私は氏直様に従う」
風が吹く。
「だがな、永重殿」
声が低くなる。
「揺れているのは、氏直様だけではない」
永重は息を呑む。
「家中もまた、割れている。
戦を望む者、和を望む者。
だが当主が迷えば、家は崩れる」
直行の拳が、わずかに震える。
「私は、あの御方に“選ばせたくない”のだ」
永重の目が細まる。
「……選ばせたくない?」
「御父君が決めればよい。
だが氏直様が決めれば、その決断は生涯つきまとう」
沈黙。
それは忠義であった。
直行は続ける。
「永重殿。貴殿も若い」
永重は何も言わぬ。
「若い者が――若い主を、崩させるな」
その言葉は懇願に近かった。
永重の胸中に揺らぎが走る。
如水の命は明確だ。
事実を持ち帰れ。
だが――
目の前の男は、主の心を守ろうとしている。
永重は静かに答えた。
「崩すも守るも、私の役目ではござらぬ」
直行の視線が鋭くなる。
「私は、見るのみ」
「……それが最も恐ろしい」
直行は小さく笑った。
「見る者は、いずれ選ぶ」
永重はわずかに眉を動かす。
直行は一歩退き、正式に一礼した。
「皆様にお伝えくだされ。
北条はまだ折れてはおらぬ、と」
永重も深く頭を下げる。
「承った」
直行は最後に言う。
「氏直様は、強い。
だが――お優しい」
その一言が重く落ちた。
直行は北条の列へ戻る。
城門が閉まる。
重い音。
しばらくして如水が口を開いた。
「情を見たな」
永重は一瞬、答えに迷う。
「……は」
「それを抱くな」
冷たい声。
「情は、刃を鈍らせる」
永重は前を向いたまま答える。
「心得ております」
だが胸の奥には、直行の言葉が残る。
――若い主を崩させるな。
石垣山城が白く霞んでいる。
その白さが、なぜか冷たく見えた。




