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【御礼15,000PV到達】戸侯記  作者: 和音


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10-1 小田原城【交渉】


 城門をくぐると、永重(ながしげ)らの目の前に小田原城下が広がっていた。


土塁(どるい)水堀(みずぼり)が巡らされ、通りには民や足軽が整然と歩き、表向きは平穏を装っている。

しかし永重には、統制された動きの中にも緊張が漂っているのが見て取れた。


小田原城下へ入ったのは、如水(じょすい)と永重、輿(こし)を担ぐ者四名、世話役の小姓一名。

わずか七名であった。


「……城は、物理だけでは守れぬ」

城下へ入り、輿に再び乗った如水が低くつぶやく。


その言葉が耳に残る。

永重は呼吸を整え、城下を静かに観察した。


大通りを進むと、北条家の武士たちが出迎えの支度を整えていた。


輿の如水が静かに進む。

永重はその背を追いながら、人々の視線や武士たちのわずかな表情の差をつぶさに目に焼き付けた。



 一行は前後左右を北条家の武士に囲まれたまま、内門(うちもん)ではなく搦手門(からめてもん)を通って城内へ入った。


奥へ進むにつれ、空気が変わる。

城下のざわめきは遠のき、代わりに沈黙が厚みを帯びた。


広間に入る。

畳は新しく、障子(しょうじ)も白い。

(こう)の匂いがかすかに漂う。

戦時の城にしてはあまりにも整いすぎていた。


重臣と思われる者が左右に分かれて八人、居並んで()している。

そして上段には二人。


年嵩(としかさ)の男が目を閉じて静かに座している。

その隣に、まだ若いが背筋を伸ばした男。



如水は無言のまま中央を進む。

足を引く様子もなく、歩幅は一定である。


やがて杖を置いて座り、わずかに頭を下げた。


此度(こたび)御目見(おめみ)えかなったこと、(かたじけ)なく(ぞん)ずる。

黒田如水にござる」

声は低く、波がない。


永重も(なら)い、深く頭を下げた。


上段の年嵩が口を開いた。

「遠路、ご苦労であった。

北条氏政(うじまさ)である」


声は穏やか。

しかし底に沈むものがある。


若い当主が続く。

「当主、北条氏直(うじなお)である」


そして一拍おき


太閤殿下(たいこうでんか)御意(ぎょい)(うけたまわ)る」


永重はここで初めて、わずかに目を上げた。

若き当主の指先が(そで)の内で強く握られている。


――焦り。


しかし目は()らさぬ。



如水は、ゆるやかに顔を上げ、氏政を見た。


御噂(おうわさ)(たが)わず、良い城にございますな」


そして

「御意と申すほどのものにあらず」


静かな否定。

広間の空気がわずかに揺れた。


如水は氏政のみを見据えたまま

「北条は、何を望まれますかな」


沈黙が、重く落ちる。


やがて氏直が言った。

「……豊臣は、何を望む」


如水は即座に返す。

「北条が、何を守りたいか次第」


広間にざわめきが走る。

永重の背を汗が伝う。


年嵩の男――氏政がゆるやかに言う。

「守るべきは、家」


「ならば家を残す道を」

如水は間を置かず答えた。


「領を捨てよと?」

氏直の声がわずかに強まる。


如水は、初めて氏直を見た。

「領と家、いずれが重いか」


その問いは(やいば)であった。


沈黙。



「戦は、すでに決しておりましょう」


再びの沈黙。

家臣たちの間に、わずかな息の動き。


氏政がゆるやかに言う。

「決しておる、とは」


「兵は尽きぬ。糧もまだあろう。城も堅い」


如水は一拍置く。


「だが――」


一瞬、空気が沈む。


「心は、如何(いかが)か」


広間の温度が下がった。

氏直の瞳がわずかに揺れる。


如水は続ける。


「城は守れても、心は守れぬ。

恐れは石垣を越えまする」


氏政の視線が鋭くなる。

「脅しか」


「否」

即答。


「観察にござる」


永重は息を止めた。


如水はさらに踏み込む。


「城下に入る(おり)、子を抱く母の目を見申(みもう)した。

武士の目ではござらぬ」


沈黙。


永重は思い出す。


確かに――

視線は逸らされた。

誇示ではなく、警戒でもなく。


疲労。


如水は言葉を重ねない。

沈黙が重く落ちる。



永重はそれをただ見ていた。


氏政は動かぬ。

しかし氏直の呼吸がわずかに乱れている。


――揺れているのは、若い方。


如水はそこを見ている。


氏政がゆっくりと口を開く。

「……豊臣は、関東を望むか」


如水はそれに答えず、代わりに言う。

「北条は、滅びを望まれぬであろう」


沈黙。


長い。


やがて氏政が立ち上がった。


「今日のところは、ここまでといたそう」


如水が立つ。

永重も続く。


退出の折、永重は一瞬だけ振り返った。


氏直が、父を見ている。

そして氏政は――目を閉じていた。


(ろう)を戻る途中、如水が低く言う。


「何を見た」


永重は即答しない。


「……揺らぎにございます」


「誰が」


「若き当主に」


如水は歩みを止めぬ。


「では、崩れるのは」


永重は一拍。


「……父子の間かと」


如水の口元がわずかに上がる。


城門が再び開く。


外の光が差す。

しかし永重の胸には、別の影が落ちていた。


――心を攻める戦。


崩れるのは、石ではない。




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