9-2 石垣山城【包囲】
部屋に戻った永重は、畳に寝転び大きく伸びをした。
戦時の本陣とはいえ、服装は小袖に袴の軽装である。
しばらくして、
「月心、おるか」
そう言うと、襖の向こう側から
「はっ」
と返事があった。
「入れ」
永重がそう言うと、月心は襖を開け音もなく畳に膝をついた。
月心は三十四歳になっていたが、出会った五年前から全く変わらぬ容貌をしている。
二十歳と言っても通用するほどだった。
「御用にございますか」
「明朝、辰の刻に石垣山を発つ」
月心の眉がわずかに動く。
「如水様の御供だ」
永重は仰向けのまま天井を見つめ、静かに告げた。
「小田原へ入る」
「城内へ、でございますか」
「おそらくはな」
しばし沈黙。
「頼みたいことがある」
永重は身を起こし、胡坐をかいた。
「そなたは――残れ」
月心は一瞬顔を上げた。
「……なりませぬ」
即座の返答であった。
「若殿お一人で小田原に入るなど」
「だからこそだ」
永重の声が低くなる。
「如水様は余分なものを嫌う。そして――鋭い。
わたしは御使の“目”だ。
そこにさらに目を連ねれば、濁る」
月心は押し黙る。
永重は続けた。
「そなたには、外を見てほしい」
「外――と申されますと」
「陣だ。諸将の動き、噂、兵糧の流れを」
月心の視線が鋭くなる。
「戦は、城の中だけで決まらぬ」
永重は、昼間の石垣山からの眺めを思い出していた。
整然と並ぶ陣幕。
永重は月心を見据えた。
「包囲が長引けば、功を焦る者も出よう。
和議が進めば、不満を抱く者も出る」
「……豊臣方に、でございますか」
「内にも外にも、だ」
そう言うと、再び永重は仰向けに寝転んだ。
「夕霧はいま何をしている?」
寝転んだまま、永重は自らに仕えるもう一人の忍びについて尋ねた。
「はっ――いまは忍城のあたりに居り、探っております」
忍城――
城主・成田氏長は小田原城へ参陣しており、今は城代の成田泰季とその嫡男・長親が守っていた。
太閤秀吉は、忍城らを攻略するため石田治部少輔三成・大谷刑部少輔吉継・長束大蔵大輔正家を向かわせた。
初戦で猛攻を仕掛けたが守りが固く、上杉近衛少将景勝・真田安房守昌幸ら北国勢が合流を待つ状況であった。
「危ういようであればすぐに退かせてくれ」
そう言うと永重は目を閉じ、しばし物思いにふけった。
その頃、石垣山城の一室。
如水は灯火の前に座り、地図を広げていた。
小田原城、周囲の山々、諸将の陣――
黒田長政が背後に控える。
「父上。永重殿を如何ご覧になりますか」
如水は目を地図から離さぬまま答えた。
「若い」
「は」
「ゆえに、面白い」
長政はかすかに笑う。
「折れますか」
如水は指で小田原城の位置を軽く叩いた。
「折れるかどうかは、北条次第よ」
一瞬の沈黙。
「だが――」
如水は目を細める。
「折れぬ刃ほど、扱いは難しい」
長政の視線が鋭くなる。
「お疑いにございますか」
「疑いではない」
如水はゆっくりと顔を上げた。
「目を持つ者は、いずれ己の目で世を見る」
灯火が揺れる。
「太閤の御世は、長いようで短い。
だからこそ早く治めねばならん」
その言葉に、長政はわずかに息を詰めた。
如水は立ち上がる。
「心を崩す」
静かに言い切った。
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翌朝――辰の刻。
石垣山は朝靄に包まれ、白壁は淡く霞み、まるで雲上の城のように見えた。
永重は正装に改め、如水の前に立っていた。
朝靄の中、陣太鼓が遠くかすかに鳴る。
黒田長政も並び、数名の供回りが静かに整列している。
父・永勝は一歩退いた位置から倅を見つめていた。
「永重」
低い声で呼ぶ。
「は」
「目を凝らせ。だが、心は寄せるな」
永重は一瞬だけ父を見た。
それは幼き頃に聞いた訓戒と同じ響きであった。
「心得ております」
永勝はそれ以上何も言わず、ただ深くうなずいた。
足の悪い如水が輿に乗ると、言った。
「参るぞ」
一行は石段を下り、山を降りてゆく。
朝靄の向こう、小田原城の天守が淡く浮かんでいる。
永重は、あの城の内にいる者たちを思った。
北条氏政。
北条氏直。
――心を攻める戦。
如水の言葉が胸に残る。
山を下りきると、そこには豊臣方の陣幕が広がっていた。
整然と並ぶ旗指物。
加藤家の蛇の目紋。
福島家の三つ巴紋。
前田家の加賀梅鉢紋。
功を焦る武将たちの視線が、遠巻きにこの一行を追う。
「御使か」「和睦か」
囁きが風に乗る。
如水は輿に乗ったまま、振り返らず言った。
「見えるか」
「……は」
「どこが最も崩れやすい」
問われ、永重は一瞬迷う。
小田原か。北条か。いや――
「味方にございます」
長政が横目で永重を見る。
永重は続けた。
「和議となれば不満を抱く者が出ましょう。
戦を望む者も多うございます」
「見えておるではないか」
如水は小さく鼻で笑う。
「ゆえに急ぐ。
長引けば……内が裂ける」
やがて、小田原城へ通じる道に出る。
豊臣方の先触れが進み、北条方の使者が出迎える。
鎧は着けていない、礼装である。
だが互いの視線は刃のように鋭い。
永重の鼓動がわずかに早まる。
城門が重い音をたててゆっくりと開く。
如水は輿の縁に手を置き、ゆっくりと降り立つ。
足を整えるわずかな間もあったが、次の一歩に迷いはない。
永重はその背を追った。
そして城門が閉まると、外の世界の音が断たれた。
如水は低く言った。
「さあ、心を見に参ろうか」
永重は、静かに息を整えた。




