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【御礼10,000PV到達】戸侯記  作者: 和音


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■第三章■ 9-1 石垣山城【包囲】

第三章の幕開けです。


時は第二章から五年後の天正十八年(1590年)水無月(6月)――永重は十八歳です。



「――三河守(みかわのかみ)様!」


永勝(ながかつ)は、そう呼び止められても無視して廊下を進んでいた。


「お待ちくだされ!」


「待たぬ。

どうしても如水(じょすい)様へ是が非でもお目にかからねばならぬ」


永勝はそう言い張って進むと、先の部屋から一人の若者が歩み出てきた。

永勝を止めようとしていた小姓は、それが誰かを認めるとすぐに伏せて頭を下げた。


「――三河守殿、如何なされた」

眼光鋭く永勝を見据え、問いかけた若者――黒田甲斐守(かいのかみ)長政であった。


問われた永勝は、軽く頭を下げて言った。

「……お疲れのところ申し訳ない」


そう詫びたのち、永勝は頭を上げて長政の目をじっと見つめて言った。

「お父上――如水様とお話をさせて頂きたい」


「……父は今長旅で疲れたゆえ休んでおりまして……。

差し支えなければ、ご用向きだけでもお聞かせ願えぬか」

長政は眉尻を上げて聞いてきた。


「左様でござるか……まことにあいすまぬ。

出直してまいろう。お話ししき儀は某の倅のことにござった」


永勝はそう言って踵を返して帰ろうとしたところ、


「待たれよ。

永重(ながしげ)殿のことであるならば、父も聞きましょう。

しばしお待ちくだされ」


そう言うと、長政は部屋の中へ戻っていった。



藤懸(ふじかけ)三河守永勝――


羽柴中納言(ちゅうなごん)秀勝没後、永勝は太閤秀吉の直臣(じきしん)となった。

ほどなく従五位下(じゅごいげ)三河守に叙任され、領地も丹波国氷上郡のまま安堵された。



今度の小田原征伐にも、陣中奉行の一人として永重を伴い参陣していた。

永重は、物資管理の奉行衆として任じられた父・永勝の下で実務を行う予定であった。


ところが、急使のもたらした下知に永勝は驚いた。

そのため永勝は、永重の烏帽子親(えぼしおや)でもある黒田勘解由次官(かげゆうのすけ)如水のもとへ話に来たのであった。





一方――


永重は、永勝らと同じく石垣山(いしがきやま)城にいた。


ここは、小田原包囲戦が始まるとすぐ、小田原城を見通せる石垣山に太閤秀吉が新たに築いた城である。


つい先ごろまでただの山であったはずの場所に、白壁と石垣が天を突くようにそびえ、眼下には小田原城が沈黙している。

豊臣の威を誇示するための城――

人々は「一夜城(いちやじょう)」と(ささや)いた。


永重は、その石垣の上から小田原の方角を見つめていた。


潮の匂いを含んだ風が吹き抜ける。

城下の陣は整然としているが、張り詰めた空気がそこかしこに漂っていた。


「若殿」


声をかけられ、永重は振り返った。

直臣の多紀(たき)重兼(しげかね)であった。


「まことかでございますか。

御前(ごぜん)より直々の仰せとか」


永重はわずかに目を伏せた。

「……うむ。確かに拝命した」

声は静かであったが、指先はわずかに強く握られていた。


太閤秀吉の名で下された命は、

物資の改めでも、

兵糧の算段でもなかった。



――使者として小田原へ赴く、黒田如水に同行せよ。



石垣山の風が、ひときわ強く吹き抜けた。


重兼は思わず息を呑んだ。

「……それは、降伏勧告の使者にございますか」


「さだかではない」

永重は小さく首を振った。


小田原城はいまだ沈黙を守っている。

北条氏政(うじまさ)氏直(うじなお)父子は籠城(ろうじょう)を続け、諸将は包囲を固めて久しい。


和睦か。

恫喝か。

それとも――調略か。


重兼が口を開きかけて、言葉を止めた。

ちょうどその時、背後から足音が近づいた。


「永重様!」

平松(ひらまつ)半佐(はんざ)が駆け寄り、膝をつく。


「三河守様が、如水様の御前におられます!」


永重の目が、わずかに細められた。


父は慎重な人だ。

如水の動きに、自分が巻き込まれることを察したのであろう。


胸の奥に、熱と冷えが同時に走る。


「行こう」


短く言い、永重は歩き出した。

石段を下り、廊へ向かうその足取りは、迷いなく見えてわずかに速い。


石垣山の白壁は、夕陽を受けて赤く染まりつつあった。

まるで血潮(ちしお)の色のように。





その頃――


如水の前に座す永勝は、静かに頭を下げていた。

側に長政も控えていた。


(せがれ)が、此度(こたび)の御使に供するとの由……」


如水は痩せた指で膝を軽く叩いた。

「早いな、耳が」

声は低く、静かである。


「三河守。

そなたはあれをどう見る」


父として答えるか。

武士として答えるか。


やがて、ゆっくりと口を開く。

「才はございます。しかし――まだ若く……」


如水の片目が、わずかに細められた。


「若い、か」


「若さは時に刃となりましょう。

鋭くもあれば、折れもいたす」


室内の空気が張り詰める。


「ゆえに、御身の傍らに置かれるは――恐れ多きこと」

如水は、ふっと小さく笑った。


「ならば折らせぬよう、鍛えるのみ」

その声には、温度がなかった。

湯気の立つ茶にも触れない。


「小田原は、城を攻める戦にあらず。

心を攻める戦よ」


如水はゆっくりと立ち上がった。

「倅は、それを見る」


そのとき――


(ふすま)の外で足音が止まった。





「永重にございます」

静かな、しかし張りつめた声であった。


如水は長政に目をやった。

長政がうなずき襖を開ける。


夕陽の朱が、白い障子を透かして室内に差し込んだ。

その逆光の中に永重は端然と膝をついた。


「参上(つかまつ)りました」


如水は座したままじっと見下ろす。

その視線は、衣の乱れも呼吸の間も指先の震えも逃さぬものだった。


「面を上げよ」


永重はゆるりと顔を上げる。


父・永勝がいる。

その隣に黒田長政。

そして正面に――如水。


「此度御使に供せよとの仰せ、確かに拝命いたしました」


「うむ」


如水はわずかにうなずいた。

「何をする役目か、心得ておるか」


永重は一瞬言葉を選んだ。

「御威光を伝えるための御供にてございましょうか」


如水の片眉がわずかに上がる。

「違う」


室内の空気が凍る。


「威は、すでに山にある」

石垣山のことだ。


如水の声は低い。


「北条が、何を恐れ、何に縋り、何を失えば膝を折るか――

それを見に行く」


永重は息を呑んだ。


「そなたは、何を見る」


問われた瞬間、永勝の指がわずかに強く握られた。


「……敵の城を」


如水の視線が鋭くなる。

永重は続けた。


「敵の城を、城と思わずに見る所存にございます」


「ほう」


「人の集まりにてございますれば、恐れも迷いもございましょう。

石垣の高さではなく、人の心の揺らぎを見よとの御教えと――

拝察いたしました」


風が障子を鳴らす。

如水は、やがて小さく笑った。


「長政」


「は」


「面白かろう?」


続けて永重を見て

「小田原へ入れば、そなたは北条の者とも言葉を交わそう。

甘言(かんげん)もあろう。

怒りもあろう。

あるいは、哀れを誘う姿もあろう」


一拍おいて

「そのとき、そなたはどちらに立つ」


永重は顔を上げた。

「太閤様の御意(ぎょい)に」


「違う」


すぐさま鋭い否定。


永重の背に汗がにじむ。


如水は言った。


「太閤の御意はわしが読む」


永重の瞳がわずかに揺れる。


「そなたは、事実に立て」


静寂。


「目に見たことのみを持ち帰れ。

推し量るな。

飾るな。

恐れるな」


如水は一歩退いた。


「三河守」


「は」


「倅は預かる」


短い言葉。


永勝は深く頭を下げた。

「……よろしく、お頼み申します」



「明朝、辰の刻」

如水は言い残し、奥へと去った。


室内に残る三人。


長政が静かに微笑する。

「永重殿。

父上の傍らは冷えますぞ」



永重はひきつりながらもわずかに笑った。


障子の向こう、石垣山の白壁は、夜の色に沈みはじめていた。



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