8-2 丹波亀山【藤懸家邸】
父・永勝に呼ばれた永重は、こじんまりとしたその部屋に入ると永勝の正面に座り、両手を着いて頭を下げた。
それを見た永勝は、ふっと笑って言った。
「よい、楽にいたせ」
頭を上げた永重の表情は、なおも厳しいままだった。
永勝は口元だけをわずかに緩め、
「そなたは正直者だな。
やはり、納得はいかぬか」
と言った。
永重が応える。
「納得はいきませぬ。
が、それよりも……父上らしくありません」
「ふっ……そうか……」
そう言うと永勝は笑みを消し、永重をまじまじと見据えて言った。
「永重。今から言うことは、絶対に他言無用だ。
華にも半佐にも、誰にも言うてはならん」
永重は黙して永勝の目を見た。
「大げさではない。
――皆の命にかかわることだ」
「承知いたしました」
永重がそう答えると、永勝は語り始めた。
「ことの起こりは、本能寺だ」
本能寺の変。
三年前、明智日向守光秀が主君・右大臣織田信長を討った謀反であり、永重にとっても少なからぬ影響を及ぼした変である。
永勝は続ける。
「そなた、なにゆえ明智日向守が右府様を討ったと思う?」
「……わかりませぬ」
「では、太閤殿下――当時の羽柴軍が、なぜあれほど迅速に引き返し明智日向守を討てたと?」
「それは……情報を得た太閤殿下が毛利に露見せぬよう和睦し、すぐさま引き返したためでは?」
「それは間違いではない。
だが、その前の――『右府様が討たれた』という情報を、あの短期間でどうやって知り得たと思う?」
永重ははっとした。
右府様の行方が知れぬ。
右府様が討たれたかもしれぬ。
そこまでは誰もが思い至る。
しかし羽柴軍は、討たれたという事実を前提として引き返し、山崎の戦いで明智軍を打ち破っている。
もし信長が生きていたなら――
毛利との争いを放棄して畿内へ戻った秀吉を、信長が許すはずもない。
ということは……
「そうだ」
永勝は、言い切った。
「太閤殿下は――右府様が討たれることを、あらかじめ知っておられた」
永重は絶句した。
永勝は続ける。
「明智日向守は、元は足利義昭公に仕える直臣であった。
そして義昭公は、征夷大将軍だ。
当然ながら朝廷におわす公家とも近い」
永勝は側にあった湯呑を手に取り、白湯を一口啜った。
「義昭公は、公家衆より一つの知らせを受けた。
それは――『信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めれば、承認される可能性がある』というものだった」
黙して聞いていた永重が口を開く。
「……その義昭公が、明智日向守様をそそのかした、と?」
「もちろん、それだけではない。
明智日向守は、四国攻めと中国攻めの両方で太閤殿下に遅れを取っていた。
右府様はあのご性格だ。
恐らく、自らの失脚すら考えておられたやもしれん。
……すべてが合致した、ということだ」
一拍おいて、永勝は言った。
「話を少し戻すが――」
永勝はそう前置きしてから、続けた。
「義昭公に近い公家の一つが、二条家だ」
摂関家、二条。
右大臣、織田信長。
征夷大将軍、足利義昭。
明智日向守光秀。
そして――羽柴筑前守秀吉。
「義昭公は羽柴家とも近しかった。
右府様より京を追われた際に同行したのも、太閤殿下だ。
そして――あの織田信長を討ったとなれば、明智日向守の権勢は足利家を凌ぐ可能性すらあった。
そのため、近しい太閤殿下に討たせるべく動いたのだ」
永勝は再び白湯を一口啜った。
「ただ、義昭公にも想定できなかったのが、秀吉様の関白宣下だ。
源氏・平氏の血を引かぬ羽柴家が、よもや将軍家を凌ぐ勢いを持つとは想定外であった。
焦った義昭公が動き始めた――そして、今に至る」
しばらく、永重は黙していた。
あまりにも衝撃的な内容だったため、一つずつ理解し、そして、あることに気づいた。
「父上……今の話がまことならば、太閤殿下は、安土が、そして長浜が攻められることをご存知だったのですか……?」
そうなのだ。
秀吉は、光秀が信長を討った後、本拠・安土、そして有力家臣の本拠である長浜が戦地となることを、あらかじめ分かっていたことになる。
「……太閤殿下は、恐ろしいお方だ」
永勝は、そう一言だけ言った。
永重は再び、言葉を失った。
永勝は永重の背後――遠くを見るように視線をやり、言った。
「先にも申した通り、中納言様にもしものことがあれば、藤懸家は太閤殿下にお仕えする」
「……このことを、そなたに言うつもりはなかった。
しかし今日のそなたの報告を受け、悩んだ。
……いずれ儂の跡を継ぎ、太閤殿下にお仕えするのは、そなただ」
そう言うと永勝は、再び白湯を一口啜った。
永重は、少し熱を帯びたような、ぼんやりとした意識の中で、もう一つの疑問を口にした。
「父上は……なぜこのことをご存知なのですか」
「……このことは、中納言様は当然ご存知だ。
そして儂は、中納言様の傅役として、様々な相談を受けておる。
それゆえ知ることとなった。
ただし――」
一息つき、永勝は続けた。
「我々の側で生きている者の中で、これを知る者は、恐らく十人とおるまい」
永重は、もはや何度目かわからぬ驚愕に包まれていた。
永重は、ただ黙して座った。
何を言うべきでも、何を問うべきでもない――
そう思わせる重さが、部屋に満ちていた。
永勝の一言一言が、これからの自分の背負うものを静かに示していた。
手のひらがじんわりと熱くなる。
心の奥に、言葉にならぬ緊張が重くのしかかる――
そして一度、永重は大きく息を吸い、整えた。




