6-7 丹波亀山
風は、吹いていなかった――
障子が、誰かに触れられたかのようにかすかに鳴った。
囲炉裏の火は一瞬だけ背を低くし、椀に注がれた白湯の水面に指先ほどの揺らぎが走る。
気のせいだ、と自らに言い聞かせる間もなく、床下から鈍い音と気配がせり上がってきた。
家は声を上げぬまま、ゆっくりと身をこわばらせる。
柱はその重みを受け止め、梁はわずかに応えた。
立つ者は、その足裏に伝わる不確かな動きに、理由のわからぬ息苦しさを覚える。
瓦がひとつ、乾いた音を立てる。
土壁から砂がこぼれ落ち、静かな朝の均衡がわずかに崩れた。
しばらくののち――やがてその気配も、波紋が消えるように収まっていった。
「……今のは……地が鳴った(地震)か?」
兵庫助が中腰になり、呟いた。
「ええ……ただ、音ほどは揺れませんでしたな」
頼明が応える。
「しかし、地の底(震源地)がどこかは分かりませぬ……」
永重が言うと、二人はハッとなった。
天正大地震――
震源地ははっきりしないが、畿内から東海、北陸にかけての広い範囲で甚大な被害を及ぼした地震である。
後に明らかになるが、特に被害が甚大だったのは飛騨の帰雲城、美濃大垣城、そして近江長浜城であった。
「申し訳ござらぬが、某はこれより登城し、情報の収集と、それから父上と話してまいります」
永重が続けて言うと、
「承知した。我らも急ぎ領地へ戻らねばならぬ。
いずれまた近いうちに話そうぞ」
兵庫助がそう言い立ち上がると、頼明も頷きながら立ち上がった。
「――永重殿、またな」
頼明は少し笑みを浮かべながらそう言い、急ぎ足で土間へ向かった。
永重と華、治郎丸、半佐が門まで付き添い見送ると、門前に繋げていた馬に飛び乗り、二人の姿はすぐに見えなくなった。
家内に戻った永重は、その後も余震と思われる小さな揺れを感じながら身支度を急いだ。
着替えながら次郎丸と志野へ母の言いつけを守るよう伝え、身支度を整えたのち、半佐と共に丹波亀山城へ向かった。
外には、微かに揺れる空気と、瓦や土の匂いが混じった重苦しい空気が漂っていた。
城下町の様子もいつもとは違っていた。
道を行き交う人々は皆、不安そうな顔で歩いていた。
城門をくぐると、至る所で騒動が起きていた。
武士たちが声を荒げ、下人たちはあわただしく駆け回る。
何かが割れる音や、遠くで木箱が倒れる音が混ざり、城全体が小さな混乱に包まれていた。
永重は、三年前の本能寺の変直後の長浜城の情景を思い出していた。
そのまま永重と半佐は城内へ歩みを進め、父・永勝のもとに着いた。
「父上、如何状況なのですか?」
永重が問うと、永勝は深く息をつき、額の汗を拭った。
「……まず、城内に大きな被害はない。
しかし、領内の全てはまだ把握しきれておらぬ」
永勝の声は落ち着いていたが、その目には危機感が宿っていた。
「生活にも影響が出るかもしれぬ。
まずは急ぎ情報を集め、助けの手配を……」
永勝はそう言うと、城の窓から外を見た。
城内の混乱は依然として続いていた。
下人や足軽たちが報告や指示を求めて走り回る中、永重は深呼吸をひとつして、父の隣に立った。
「父上、某も領内の状況を自ら確かめ、必要があれば助けに参ります」
永重の声には、迷いのない決意がこもっていた。
永勝はしばし息をつき、息子の肩に手を置いた。
「頼むぞ、永重。儂はここを離れられぬ。
だが、城だけではない。民を守るのも我らの務めだ」
永勝は半佐を一瞥し
「永重を頼む」
そう一言いうと、永勝は再び外へ目を向けた。
永重は父の言葉を胸に刻み、二人は再び城門へと向かった。




