6-5 丹波亀山
元服の儀は滞りなく進んだ。
挨拶、姿勢、声の高さ――
その一つひとつに、これまでのすべてが量られる。
松丸は、目の片隅に映る半佐の小さな頷きに励まされながら、与えられた所作を一つずつ確かに果たしていった。
やがて儀式の中心にある台に立つと、官兵衛が松丸に向かって静かにうなずいた。
そして松丸は、烏帽子親である官兵衛より、名を授かった。
――藤懸永重。
その二字を、松丸は心静かに受け取った。
儀式を終え、外へ出ると雨はすでに上がっていた。
湿り気を含んだ空気に草木や石畳の匂いが立ちのぼり、夏の光と混じり合っている。
清々しさの中にどこか張り詰めた気配が残っていた。
官兵衛が近づいてくる。
その背後には、共に元服を果たした吉助――
名を改め竹中重門が、こちらを一瞥することなく控えていた。
「終わってすぐで悪いが、儂はこれから中納言様に拝謁し、そのまま播磨へ戻る。
永重、これからしっかりと勤めを果たすのだぞ」
それだけを告げると、官兵衛は踵を返し、重門を伴って城内へと去っていった。
永重らは頭を下げ、その背を見送った。
松丸として過ごした長い日々は終わり、これからは藤懸永重として歩み始める――
その実感が、胸の奥でじわりと広がっていく。
「……これからだな」
永重は低く呟き、確かな決意を胸に、ゆっくりと城門をくぐった。
夏の陽光が、湿った石畳を淡く照らす。
空気に混じる土と草木の匂いが
これから始まる生の期待と少しの緊張を包み込み、心地よく胸に染みた。
――永重としての生が、今、静かに幕を開けた。
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その夜――
藤懸家は、永重の元服と半佐の名字拝領を祝う宴を開いていた。
松丸――もとい永重は、いまだに気になって仕方がなかった。
なぜ黒田官兵衛孝高ほどの人物が、自らの烏帽子親になってくれたのか――
「父上……どうして、あの官兵衛様が…私の烏帽子親になってくださったのですか?」
意を決して父・永勝に問いかけると、少し酒の入った永勝は、杯を傾けながら目を細めた。
「……ああ、それはな」
そう言って、遠くを見るような表情を浮かべてから、永重の目をまっすぐに見据える。
「一つには、中納言様――羽柴秀勝様の御口添えがあった」
永勝は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「三年ほど前のことだ。
そなたが中納言様の中で、ひどく印象に残っておられたそうだ」
三年前――
本能寺の変の折の、羽柴家の御方様御一行の出来事が脳裏をよぎる。
「長浜城での泣き顔もそうだがな……十ほどの童が進言し、泣き言一つ言わずに働いた。
そのことに、いたく感服しておられた」
永勝はふっと表情を緩め、続けた。
「もう一つは、竹中重門様の元服の儀があったことじゃ」
永重もすでに察していた。
重門は、亡き竹中半兵衛の忘れ形見である。
「半兵衛様が亡くなられてからというもの、官兵衛様は重門様をお守りになってきた。
その重門様の元服を知った中納言様が、官兵衛様にお頼みになったのだ」
杯に口をつけ、一拍置いてから、永勝は言った。
「官兵衛様は、その願いを聞き届けてくださった。
日取りは動かせなかったが、急ぎ丹波亀山へ場所を移し、本日の儀と相成ったというわけだ」
そして杯を置き、永勝は静かに言った。
「よいか、永重」
その視線は、父として、また一武家の当主としての重みを帯びていた。
「官兵衛様は、間違いなく歴史に名を遺すお方だ。
だが……今、この世にいる者すべてがそうではない。
恐らく、儂も違う」
目線を奥の部屋へちらりと向けて
「そなたがよく読む『吾妻鏡』があろう。
そこには、頼朝公や義経公、北条得宗家、平家、公家に至るまで、多くの名が記されておる」
永勝は小さく息を吐いた。
「だがな――歴史とは、記された者たちだけで創られてきたわけではない。
その下には、はるかに多くの人々の生がある。
支え、願い、夢破れ、その積み重ねが、世を、そして歴史を形作ってきたのだ」
一拍。
「儂らは――その支える一人でよい。
自らが信ずる主君をお支えし、自らが望む世を創っていただく。
儂らは、その一駒でいい」
そして、静かに締めくくった。
「結果として名が残るなら、それはそれでよい。
だが、名を残すために動くことはならん。
このことは、肝に銘じておけ」
永重は、深くうなずいた。
父の言葉は、重く、しかし確かに胸に沈んでいった。




