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【御礼10,000PV到達】戸侯記  作者: 和音


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6-4 丹波亀山


黒田孝高(よしたか)――

通称、黒田官兵衛。


今は亡き竹中半兵衛重治と並び称される、羽柴秀吉屈指の参謀である。

この年、秀吉は四国を平定して関白に就任していた。

その四国攻めの差配を一手に担っていたのも、ほかならぬ官兵衛であった。


関白殿下の側近中の側近。

藤懸家のような小身の家からすれば、たとえ目通りであっても叶わぬほどの高みにいる人物だ。


――その官兵衛が、自らの烏帽子親(えぼしおや)である。



あまりにも雲の上の名を告げられ、松丸はしばし言葉を失っていた。


「――松丸様」


背後から半佐の声に名を呼ばれ、松丸ははっとして我に返る。

慌てて背筋を伸ばし、深く一礼した。


「こ、此度は……恐れ多く……」


声を出したものの、言葉が喉の奥でつかえ、それ以上続かない。

目の前に立つ人物があまりにも遠い存在で、何をどう口にすればよいのか分からなかったのだ。


そんな松丸を見下ろし、黒田孝高――官兵衛は、ふっと小さく息を吐いた。


「そう固くならずともよい」


低く、静かな声。

それでいて、不思議なほどよく通る。

杖に体重を預けてはいるが、その眼光は鋭く、松丸の内奥まで見透かしているかのようだった。


「元服とは、主君に忠を誓う場でも、誰かに試される場でもない。

――己が、己として立つ。その始まりに過ぎぬ」


そう言って官兵衛は一歩、松丸に近づく。


「今日より名を変え、姿を変え、立場も変わる。

だが――中身まで変える必要はない」


官兵衛はそこで一度言葉を切り、じっと松丸の目を見据えた。


胸の奥で、何かが静かに落ち着いていくのを松丸は感じた。

先ほどまで渦巻いていたざわめきが、雨音に溶けるように消えていく。


「……ははっ!」


短く、しかし確かにそう答えると、官兵衛は満足げにわずかに口角を上げた。


「よい返事だ」


官兵衛はくるりと身を翻し、永勝の方へ目を向ける。



「永勝殿。

息子殿、なかなか胆が据わっておられる」


永勝は一礼し、穏やかに答えた。

「恐れ入ります。

本日は、このような大役をお引き受けくださり、感謝の言葉もございません」


「なに」


官兵衛は軽く手を振った。


「中納言様(羽柴秀勝)の覚えめでたい若者を、少しでも見ておくのもわしの務めよ」



そう言ってから、ちらりと半佐の方へ視線を投げた。

その一瞬に、半佐は背筋を正し、思わず息を呑む。


「……そなたが、近くで仕えている者か」


「はっ!

平松半佐にございます!」


名を名乗ると、官兵衛は小さく頷いた。


「よい目をしておる。

主をよく見ている目だ」


その一言に、半佐の胸が熱くなるのが、松丸にも分かった。



そして官兵衛は視線を松丸に戻すと、


「――さて、紹介しておこう。

そなたと共に元服するものだ」


そう言って振り返り、先ほどから控えていた、松丸と年の頃もさほど変わらぬ若者を手招きした。


若者は松丸の前に立つと、憮然とした表情のまま、形ばかりに頭を下げる。

「竹中吉助と申す」

それだけ言うと、踵を返して元の位置へ戻ってしまった。



「……やれやれ……すまぬな松丸」

官兵衛は苦笑し、声を落として続ける。


「あやつは、儂の旧友である半兵衛の息子でな。

後見のようなものだ」


竹中半兵衛――

竹中半兵衛重治。

前述の、官兵衛と双璧を成し歴史に名を刻んだ今は亡き大軍師である。


その名を聞いて、松丸の胸に湧いたのは怒りではなかった。

家格が違いすぎるがゆえ、ああいう態度になるのも無理はない――

そう妙に納得している自分が、そこにいた。


その場に、ひととき沈黙が落ちた。

雨の気配を含んだ空気が、広間の奥で静かに澱んでいる。


松丸は、無意識のうちに竹中吉助の背を目で追っていた。

先ほどの一礼も名乗りも、まるで義務を果たしただけのように淡々としている。


そこに敵意は感じられない。

だが、距離を置かれていることだけは、はっきりと伝わってきた。



「時刻だな」


官兵衛の一言で、空気がわずかに引き締まる。


「支度は整っておる。

このまま奥へ進もう」


その言葉に、半佐が一歩前へ出て、松丸に小さく頷いた。

松丸もまた、短く息を吸い、覚悟を胸の内に収める。


広間を出る際、前を行く吉助がふいに立ち止まった。


「……」


一瞬、声をかけられるのかと思い、松丸も足を止める。

しかし吉助は松丸を見もせず、低い声でぽつりと言った。


「――浮かれるな」


それだけだった。


言い終えると、吉助は何事もなかったかのように歩き出す。

松丸は一拍遅れて、その背を見送った。


浮かれるな――

その言葉が、胸の内で静かに反芻される。


(浮かれてなど……)



奥の間へと進むにつれ、香の匂いが濃くなっていく。

畳に落ちる足音さえどこか儀式めいて感じられた。


そこにはすでに、元服のための支度が整えられていた。

烏帽子、狩衣、そして新たに名乗るための名が記された文。


それらを前にして、松丸は一度だけ、拳を握る。


(中身まで変える必要はない)


先ほどの官兵衛の言葉が、ふと胸に浮かんだ。


名が変わる。

姿が変わる。

立場が変わる。


――だが、自分は自分だ。


その思いを胸に、松丸は静かに一歩、前へ進んだ。






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