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戸候記  作者: まさごろう
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①序章

もし、あの時にこの道を行かなければ。

もし、この時にこの言葉を口にしていれば。


これは、その時の選択が実際の歴史と異なった場合の「もし(if)」を物語にしたフィクションです。

 ※生没年など作者の都合で史実と異なるかもしれません。


ある一人の武士の、その人生劇場をご覧ください。

さぁ、開演です。


-------------------------------------


林を抜けた途端、風の匂いが変わった。

晩春の少し湿り気を帯びた風が肌を撫で、遠くで鳥の声がひとつ途切れる。

刻限は昼過ぎだが陽はまだ中天に差し掛かってはいない。


目の前には、藪がうねるように広がっていた。

奥にはまた林があり、木々の枝葉が影を編み様子は窺えない。


足音を殺し、慎重に一歩を踏み出す。

葉の擦れる音ひとつで相手に気づかれるかもしれない。


足を止め、息を潜める。

緊張が背筋を這い上がり、時間の流れさえゆっくりになる。

鳥の声も、虫の音も途絶えていた。

小弓を抱えて静かに藪へと身を滑らせる。


居た―。


奥の林から柔らかな足取りで光の差す方へと進み、立ち止まっている。

相手はまだ自分に気付いていない。


矢をつがえて弓を引く。

木のしなりが腕に伝わり、呼吸は細く静かに整えられる。

弦に触れた指先だけがひそやかに緊張を帯びて、狙いを定めたその時だった。


「あにさまーーーーー!!!!」


!?

刹那、踏み鳴らされた草と落ち葉の音だけが残り、視界にはもう鹿の姿はなかった。


「あにさまーーー、どこーーーー?」

緊張から解き放たれ、引いた弓を戻し深くため息をつきながら立ち上がり、

「はぁー……。ここだ、志野」

「いた!あにさま!!」


自分を見つけた小さな童が、満面の笑みで短い手足をバタバタさせながら必死に駆け寄ってくる。

その姿を見ただけで自然と笑みがこぼれる。


「どうした?何かあったか?」

「ははうえさまに、あにが動物つかまえに裏山にいったってきいたから手伝いにきた!」

自信満々のドヤ顔で言われたら返す言葉もない。


「そうかそうか、ありがと。

でも鹿や猪は今の時間は寝んねしてるみたいだ。

また出直そうか」


そう言いながら歩み寄り、志野のちいさな手を引いて家に向かって歩き始めた。



-------------------------------------



玄関をくぐり、弓矢を置き土間に据えられた沓脱ぎ石の上で草履を脱ぐ。

桶の水で自らと志野の足をすすぎながら、松丸は声を張らずに言った。


「ただいま戻りました、母上様」


板の間では、母が膝の上に針箱を置き、古手の小袖を繕っている。

手を休めることなく、ふっと視線だけをこちらに向けた。


「おかえり、松丸。如何でしたか」


 松丸は肩をすくめるように小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。

「志野のおかげで……」

「あにさまをおたすけしました!」

志野がかぶせてにこにこ顔でそう話すと


「あぁ、そう」

母はくすりと笑い、再び針先を布へと落とした。


「――父上から、何か便りはございませんか」

板の間へ上がり、胡坐をかいてそう問うた。

母、華は手にしていた針仕事をふと止め、しばし遠くを見るような目つきになってから、静かに答えた。

「若様のお側におられますゆえ。便りが無いということは、それだけお家のことを気に掛ける暇もなく御奉公に励んでおられるのでしょう」


父、藤懸永勝は主君・羽柴秀吉に従い、中国の毛利攻めに加わっていた。

折しも此度の戦は、秀吉の御子、羽柴秀勝の初陣にあたり、永勝はその傅役として常に側近く仕えていた。

天正10年(1582年)弥生(3月)の頃、秀吉の下知を受け秀勝は一軍を率いて備前児島へ攻め入り、これを鮮やかに攻め落とし初陣ながら見事な武功を挙げた。

その勢いのまま卯月(4月)には備中へと兵を進め、秀吉本隊と合流し高松城攻めに加わっていた。


松丸、志野、華の三人でそう話していると、遠くより地を打つような蹄の音が、ただならぬ速さで近づいてくるのが聞こえてきた。

何事かと縁側へ進み、音のする方へ目を凝らすと、鎧兜に身を固めた一騎の武者がまっすぐ此方を目指して駆けてくる。


――父上に、何か。


胸の奥にざわりとした不安が走り、知らず表情が強ばった。

武者は門前に馬を止めるや、鐙を蹴って飛び降り、此方を正面に据えて声を張り上げた。

「申し上げます! 火急の儀につき、速やかにご嫡男様にご登城願いたし!」


荒い息を整えつつ応じる。

「承知いたした。されば、何事が起こったのでござるか」


問うと、武者は一瞬言葉を選ぶように間を置き、

「ご登城の上、三之丞様(加藤教明)様より、直々にお話がございます。まずは何卒、お急ぎくだされ」


それだけを告げると、武者は再び鞍にまたがり、

「御免!」

と一声残し、馬首を返して疾風のごとく去っていった。

残されたのは、土の匂いと、胸に残る不吉な静けさばかりであった。



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