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摩天楼のピアノオルガン

作者: かじちゅ

 国一番の大都会、天を衝くタワーがある。その最上階の空中テラスに、一台のピアノが設置された。

 

 その代物、打鍵の機構はピアノのそれだが、発音部はオルガンにも似ている。現代のハイパーテクノロジーによって、巨大なハンマーが人の指先の打鍵の繊細な力を感じ取り、摩天楼の空に展開されたパイプを叩く。


 楽器設計のコンセプトであり最大の特徴。それは、奏でた音色が都市中を響き渡ること。


 街の音という音を塗り潰して、個人の旋律が支配する。なのだから、杮落しには生半可な演奏家を呼ぶわけにはいかないと、責任者たちは様々な賞を総なめにした国内で知りうる限り最高のピアニストを招聘した。

 だが、その人物は演奏を辞退した、高所恐怖症だったのだ。蒼空を吹き抜ける風さえ感じられる開けたテラスでは、指が震えてまともに弾けやしないと。その後も名だたる演奏家が候補に挙がったが、誰も引き受けることはなかった。彼らは己の技術と品位、格を疑ったのだ。万人の耳を楽しませる演奏は存在しないから。


 いや、正直なところミスタッチが怖い、観客のスケールが違い過ぎる、彼人を差し置いて自分が演奏する価値があるのか。きっと、初演奏はふさわしい誰かがやってくれる。自分は二番手なら喜んで――


 そうして、摩天楼のピアノオルガンは演奏されることのないまま、一般に開放された。


 その日に演奏者があらわれなければ、AIを搭載した演奏機に初公演をさせることに決まった。機械ならば設計通りに事が運び、滅多にミスタッチや不快音がおこる心配もないのだから、無難な着地点だろうと責任者の考えだ。

 

「ひうっ」


 貴音は息をのむ。大都会のタワーのてっぺんに美しいピアノが設置されたと噂を聞きつけてやってきた。というのは嘘で、ずっと前、今日一般公開される前からこのピアノの存在は知っていた。


 摩天楼の最上階で都市中に音色の響かせるピアノ、その魅力的なコンセプトは一介のピアノ履修者なら垂涎モノだ。なおかつ、まだ誰にも演奏されたことの無い処女楽器。下調べの段階から、貴音の心ははち切れんばかりに躍っていた。


 幼い頃に、コンクールでいくつか賞を取った経験のある自分ならいけると、漠然とした自信があった。

 今日、この演奏をきっかけに自分は憧れた何者かに、誰かに仰ぎ見られる人間になるんだ。エレベーターに乗っている時は、昂る感情が脳を支配していた。


 テラスに着いた途端、頭の熱は急速冷却された。 

 窓の外、謎の技術で都会の夜空に巨大なパイプがいくつも浮いている。まるで音を展開するための力場が構成されているかのような荘厳な空間、その中心に見慣れたただのグランドピアノがぽつり。ホテルにある様なロープに囲まれ、その外側に観覧に訪れた有象無象の群衆が集っている。


 誰もロープの内側に入ろうとしない。結界でも張られているかのように。

 貴音の心臓は別の意味ではち切れそうになり、呼吸は致命的なほどに浅くなる。


「むりだ」


 足がすくんだ。あのロープの中に一度でも足を踏み入れてしまったら、自分がやらなきゃいけなくなる。自分の奏でる音が、街中の人間に批評されるんだ。


 ミスタッチをしたら、芸術性に欠ける音を鳴らしてしまったら。街中、国中、インターネットで海も越えて世界中で、私は嗤い者になる。


 ちょっとコンクールで名をはせたくらいの自分が、あそこに座る資格などあるはずもない。否、誰もがあそこに座るべきではないのだ。音楽を望まない不特定大多数の耳に轟かせる、そんな傲慢なコンセプトの楽器など消えてなくなるべきであり、それを演奏しようなんて人間は恥知らずの愚か者。


 震える手、冷えた指先、そもそもこんなコンディションで弾ける楽器なんてない。また次でいいや。

 冷笑ひとつ、貴音が踵を返した時だった。


「っめんなさい……どいてくださぃ……ごめんなさぃ」


 蚊の鳴く様にか細く、歪な抑揚のある声。

 車いすに乗った少女が、ゆっくりと貴音の横を横切った。貴音は思わず目を見張る。彼女はまるで、病院からそのまま飛び出してきたかのような違和感のある身なりをしていた。水色のだぼっとしたレース生地の服は病院着のようだが、こまかな装飾からそれがドレスであることが分かる。なにより異質なのは、その瞳を覆うアイマスク。彼女の母親らしき人が車いすを誘導していることから、おそらく彼女が盲目なのだろうと気付く。


 そのまま彼女は群衆をかき分けかき分け。そのひ弱ななりで、いったいどこへ行こうというのか。


「まさか」


 カタカタと、車いすの進む音。モーセの海割りの如く群衆が二つに割れ、彼女の行く手を阻む人間はいなくなった。ひ弱な少女は、結界を踏み越え中へ。そうして彼女は、何のためらいもなくピアノの前に座った。


 貴音の握った手の平に、嫌な汗が滲んだ。

 自分とそう年の変わらない雰囲気の彼女が、堂々と背筋を伸ばしてそこに座る様を見ていられなかった。


 嫌だ、やめてほしい、それは私がやりたかったこと。いや落ち着け、彼女は愚か者の恥知らずなんだ。あの楽器を初めて弾くことの意味も、その重みも感じられない程に感性の欠落したバカに決まってる。


 だから失敗しろ、みっともない演奏をしろ、それで拙い音楽を都市中の人間に押し付けてしまった事を生涯悔いてしまえばいい。


 少女が青白い指をゆったりと鍵盤の上にのせる。視界がないはずなのに、一分の迷いもなく。

 

 ――――♪♪

       ――――♪♪


 それはモノローグ風の曲、ロマン主義の時代のとある作曲家のものだった。

 しっとりと、冬の寒い夜に染み渡る冷たい音色が、夜空に螺旋を描いて溶けていくように――


 けたたましい喝采の中、彼女を褒め称える有象無象の一部に落ちぶれた貴音は、肩を怒らせてよりいっそう両の拳を握りしめる。


「傲慢だねっ!!静かな夜を過ごしたかった人もいるはずなのに、自分の音楽を無理矢理おしつけるなんて。どういう感性してるの!?」


 貴音は吠えた。少女の演奏は素晴らしかった、悔しいが耳に残る甘やかな感覚がそれを証明している。だったら、別の論点から彼女を糾弾するしかない。万人に受け入れられる音楽など存在しない、音楽など無い完全なる無音を求める人だっている。だから、彼女の非の打ち所の無い音色にだって、耳を塞ぎたくなる誰かはいたはずなのだ。


 それは否定しづらい事実、さあどう言い訳する。貴音はほくそ笑んだ。


 少女はその言葉に一瞥もくれなかった。鍵盤の感触を懐かしむようにくすぐり、ただ風の吹き込む方、天窓の外の夜空を見上げている。


 有象無象の聴衆はその美しき有り様を仰ぎ見る。

 神話の一幕とも遜色ないこの情景は、それを創り出した少女の、光も音も失った彼女の脳裏にどのように描き出されるのだろうか。


 彼女の演奏に耳を凝らさんと先程まで己が営みの一切を停止していた都市は、千年に一度の静寂に包まれていた。


 そこには、やがて神話になる少女と、夢破れ塵となった自分があるだけだった。

 

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