悪魔でも悩む
話し終えた〈悪魔〉はペットボトルのジュースに口をつける。
「理想の人間ですら、他人一人、救うことは出来ない。理想になって、やっと誰かを救える。だから、私は悪魔になった。これでいいかい?」
〈悪魔〉の答えに尋問官は頷かざるを得なかった。彼女の答えはそうだったのだろう。
「彼は君を愛していたのか?」
その問いに〈悪魔〉は首をかしげる。
「気づかないようにしていたけど、確かに愛はあったと思う。ただ、私が愛を受け止めたらいけないと思って、彼の愛を受け付けなかった」
「その真意は?」
深く踏み込んでくる尋問官に〈悪魔〉は苦笑する。
「死にたい彼を肯定するためだよ。私が愛してしまったら、彼は自分の死にたい気持ちを殺してでも一緒に居ようとするだろう。だが、生憎、私はそこまでして生きて欲しいって思っていなかった。彼の苦しさが分かるからこそ、死ぬ手助けをしたかった」
それを聞いた尋問官は尋ねる。
「苦しみが分かると言うのなら、今、〈悪魔〉は苦しいのか?」
その問いに〈悪魔〉は天井を見上げる。
「苦しかったからといって救われるものじゃないよ。私の知っている世界は苦しい人間ほど救われないんだよ。だから、私は代償をもらう代わりに彼を殺した。彼以外の人間だって同じだ。皆、苦しんでいた。だから、私が救った。それ以上は言えない」
その言葉を尋問官は笑った。
「救い方は殺すしかなかったのか? 君が愛を受け入れれば、きっと彼は違う生き方をして死なずに済んだかもしれない。もちろん、君が彼のことを好きじゃなかったのなら別だが、そうじゃないのだろう?」
尋問官の問いに〈悪魔〉は声を震わせる。
「出来なかったんだよ……。私にその器がなかったんだよ。それ以上は言わせるな」
その答えを記録しながら、尋問官は呟く。
「〈悪魔〉も難儀だな」
それを聞いて〈悪魔〉は涙を拭うと尋問官を睨みつけた。だが、何も言わなかった。
記録が終わって彼女の方に向き直ると〈悪魔〉は唐突に語り出した。
「もっと傷つけて服従させるなんてやり方、やめなよ。北風が吹こうとたまには太陽が必要なんだよ」
私の言葉に青年は「理想だね」と嘲笑した。私も理想だなと思っていたが、言葉を重ねなかった。すると、青年が言う。
「実際に太陽が出てくると眩しいと言いながら人間は洞窟に行く。また、北風が吹くのならテントを思いついて作ってしまう」
青年にとって、太陽は眩しすぎるものだったようだ。
「抗うことをやめるべきだ。全てに抵抗せずに死ぬ方が良い。生きることに抵抗していると反論するのならば、生きることに意味を見いだそうとすることをやめろ。生きることは無意味だ。生物として生きなさい。人間なんかとして生きるんじゃない。人間なんて妄想だ。そうだろう?」
思わず、私はその言葉を嘲笑した。
「だったら、今頃、君は死んでるよ」
その言葉に青年は「何で死ねないんだろうな」と返した。私は少しだけ分かっていたが、そのときは言葉にしなかった。彼が幸せを求めていることを理解していたからこそ、言い当てたらいけないと思った。
「ボクにとっての〈好き〉は劣等感なんだと思う。〈あなたのようになれない)という諦めや〈あなたのようになりたい〉という憧れも恋愛感情と勘違いしてしまえば、苦しいよね。だって、諦めた理想が近づいてくるんだもん。諦めたから今があるのに、もう一度、夢を見て良いのかなって思ったら、辛い時期に戻るだけなんだよ。だから、僕は一人でいたい」
唐突に語った青年に私は「放置される権利とでも言いたいのかな?」と笑う。青年は頷いたので、私は彼に覚悟を尋ねてみようと思った。。
「権利を使うには力がないといけない。社会の〈生かしたい〉というエゴに対抗するなら、それなりに強いエゴを持たないといけない」
それだけで、意味を察したのだろう、青年は怒鳴った。
「文字にしないと息で吹き消せてしまう揺らぐ自分のエゴをどう貫けばいいって言うんですか。嵐の中でろうそくの炎をともし続けるにはどうすれば良いんですか?」
私は一瞬、悩まされたよ。私ですら抗えない、人類の意思とでも言うべき大きいエゴに対抗する方法。そんなの、分かるわけがない。だが、〈救いたい〉というエゴに対して〈救われたくない〉というエゴを貫く覚悟を私は確認したかった。そのとき、ふと、とある情景が目に浮かんだ。
「別にランタンのような容器に入れれば良いだけじゃない?」
私の言葉に対して、青年は一言だけ答える。「その答えは既に検証済みだ」と。
そういえば、昔、引きこもりの扱いをされて逆に干渉が強くなったと言っていた。それに抗うためにも、職を探して、家を出たと言っていた。一人暮らしを始めた彼の根本だから、愚問だったに違いない。そんな彼を私は見つめることしか出来なかった。
そこまでを聞いて尋問官は資料を漁る。
「確か、その記述は彼の記録にもあったはずだ」
そう言うと、一枚の紙を取り出す。
「君たちが出会って五ヶ月後くらいの話とされている。青年は久しぶりに死に時が来たと思うだけ幸せだったそうだ。一方で、『だけど、やっぱり死ねなかった。もっと幸せになりたかったから』とも書き記している。彼なりに幸せだったようだ」
その言葉を聞いて〈悪魔〉は頭を抱える。
「そうだな、殺すなら本当はあの時が良かった。だけど、私が欲張ってしまった。もっと彼を幸せに出来ると思ってしまった。かなり後悔している」
その言葉を聞いて、尋問官はため息を漏らす。カジノでもやっているかのようなやりとりだ。
「どうして、そんなに気楽なことが言えるんだい? まるで命がチップのようだ」
その言葉に〈悪魔〉は苦笑する。
「〈悪魔〉の由縁かもしれないことを聞くんじゃないよ」
そう言いつつも〈悪魔〉は呟く。
「私は人間じゃない扱いを受けてきた。食事も親の残り物だ。何もかもが残り物だった。搾り取るように私は親から搾取されたし、足りないときは殴られた。だけど、私は彼らの期待に応えるだけの能力があった。だから、学校では成績も優秀だったし、自立できる頃には大分、お金もあった。彼らにばれないようにお金を貯める手段を知っていたからだ」
尋問官はメモを取る。被疑者の家庭調査は断念されている。なぜなら、被疑者の家族もまた〈悪魔〉の被害に遭っているからだ。
「だがな、満たされなかったよ。根本的に私はヒトに飢えていた。そして、簡単にヒトに酔ってしまうのも分かっていた。だから、深く関わった人間との縁は全て切れている。私が殺すか、相手が逃げるかの二択だ。逃げた相手が私のことを漏らすのではないか、人生の後半では殺さないことなんて無かった。確実に殺していた。だから、私のことを知っている人間のほとんどは死んでいるだろう」
その言葉に尋問官はうつむく。悲惨な人生だと思う。
「私は、一度、彼を怒りの末に殺しそうになったことがある。彼はこう言ったんじゃなかったかな。ボクは会話の内容なんかでなく、ボク自身に興味を持って欲しかった……だったと思う。私は彼を理解しているつもりで居たから激怒した。しかし、振り返ってみれば、全く分かっていなかったよ。だから、後で、彼に贅沢なディナーを奢った。でも、その頃には彼が奢られる理由を忘れていた。……奇妙なものだ。同じ言葉でもヒトによって重さが違う」
その言葉に尋問官は静かに頷いた。だが、理解できたとは思えなかった。
「私は最終的に理想になったのだよ。理想になれたから青年を殺せた。しかし、今でも思うことはある。……私、何のために理想になったんだっけ? ってな」
その言葉に尋問官は何も言えなかった。救うためだ、と言ったら彼女は死ぬほど反省するだろうか。多分、しない。だから、言わないに越したことはない。今の彼女を刺激するのは得策じゃなかった。