真夜中を突っ走れ
ルーは死刑執行車の運転手をしている、しがない個人事業主。日本帝国の命令により死刑が下された人間の所に、死刑執行人と一緒にかけつけ、車内で死刑を執行する。しがないながらも充実していた日々の中、死刑の命令がまだ小さいルーの子どもたちに下され、死刑執行人と一緒に向かうことになる。どうしても家に行きたくないそんな中、稀代のモテ男であるルーは女性の死刑執行人を口説き落として、そのまま旅に出る。ルーと死刑執行人の二人は、自らが超法規的に死刑を行う私刑執行人として、街中を駆け抜ける。二人は恋をして、死ぬべき人間を殺し続ける。死体を焼いて消し去ってくれる、橋の下の赤ん坊、「ゾロアスター風のボス・ベイビー」などの助けを借りながら、死ぬべき人間を殺し続ける日々。その日々は今でも続いており、彼らは真夜中を突っ走り続ける。
その夜、流川は酩酊した状態で家に帰り、ほとんど気絶するように眠りについた。
真夜中、流川は目を開けており、それに気づいた典子が声をかけた。
「生きているの?」
流川は答えた。
「もちろん俺は生きている。そして実存している。もちろん死体だって実存しているので、実存しているだけでは生きているとは言えないが、間違いなく俺は生きている。というのも俺は今、この夜のことを眺めているからだ。この、世界を半分包んでいる夜、歩いて端から端まで行こうとすれば恐らく海里が二十歳になるくらいの時間がかかるであろう夜。その夜を俺は今間違いなく眺めている。その眺め方は、バーのポスターに写っているブリジット・バルドーの扇情的な肉体を眺めるかのようでありながら、実は、頭が良い人間だと周りの人間に思われたくて図書館でミシェル・フーコーの『狂気の歴史』をわかりもしないのに眺めているかのような眺め方にも似ている。そして俺は今この夜を眺めながら、あまりにも深い孤独にうち震えている。その孤独は深海魚の眠りよりも重くて深い。実は君が今の俺に気づく前、俺はもう一時間も前からこの夜を眺めているのだ。そして、もう今夜は眠れることはないだろうと思いながら、ブリジット・バルドーを見るように俺はこの夜を見ている。君はそれがいったいなぜかと言うだろう。家族がいて、海里という子供もいて、俺は幸せに過ごしている。そのような状態でいったい何の孤独があるのかと。もちろんそうだ。この夜が終わり、ブリジット・バルドーの金髪のような朝がやってくれば、俺はまるっきり孤独ではなく、満たされている。俺は幸福な生活をしているのだ。それがどれくらい幸福かと言えば、世界中の流れ星をすべて食べてしまったくらいの幸福だ。俺の願いが叶ったからには、他の全人類の願いは叶わなくても良い。だから俺は世界中の流れ星を、ラーメンをすすりこむように全部食べてしまうのだ。こうして俺の幸福は世界一の幸福となり、他の誰にもこの幸福を上回る幸福を得ることは出来なくなる。何なら、この世の人民たちには、俺が食べた流れ星が肛門から出てきたものだったら提供して良い。下痢星とでも言うかな。俺は流れ星という旨すぎるものを食べて腹を下す。俺の下痢に混じった流れ星の残骸なら他の人類に提供して良い。それくらい俺は、最終的かつ不可逆的な幸福を享受しているのだ。しかし、一度夜が来てみろ。俺はあまりにも孤独になる。というのも、夜とは死の隠語だからだ。何を言っているのかと君は思うかもしれない。しかし、夜というものは人生の終わり、死の隠語なんだ。夜に輝いている星なんぞは、人間が最後に残した希望の隠語だ。夜は死で、死は夜なんだ。夜は死、死は夜。俺はこの夜、つまり死のことを眺めている。今・・・もう夜中の三時くらいか。俺はこの深夜三時に絶望しているんだ。この絶望とは、人間がみんな死んでしまうという事実に基づいている。俺は、この幸福な朝が、のんびりとした昼が、センチメンタルになる夕暮れ時が終わった後に、この夜が絶対にやってくることに耐えられないのだ。気が狂いそうになるのを、俺は今理性で止めている。理性とは情念の奴隷であるというディヴィッド・ヒュームの言葉に負けずに俺は今、理性でこの絶望による深夜三時の発狂を止めようとしている。ところで君は今、発狂間際のこの俺に話しかけている。君はなぜこの俺が死への恐怖を今さら感じているのかと不思議に思うだろう。その理由は正直わからないんだ。しかし俺は今、たしかに真夜中に目覚めて死に恐怖している。なぜだろうな。俺は最近まで、ほとんどうすら馬鹿のように死のことを忘れ、気の触れたイグアナの性交のような毎日を過ごしていた。毎日毎日、すごく気持ちよかったんだ。俺は気の触れたイグアナの性交のように笑い、気の触れたイグアナの性交のように働き、気の触れたイグアナの性交のように海里をあやし、気の触れたイグアナの性交のように君を愛し、気の触れたイグアナの性交のようにほとんど死のことを忘れていた。しかしなぜか今夜俺は、この夜、つまりこの死のことをブリジット・バルドーの扇情的な肉体を眺めるように眺めている。まるで、ジェフリー・ダーマーが自分の下半身に巻き付けている臓物のようになまめかしい淫猥さを持った、テカテカに光った死。この俺に今、肉迫している死。俺は今この死に対して、この夜に対して、あまりにも絶望している。そして、真夜中にも関わらずもう一時間もこの夜のことを眺めている。こんな夜、俺は一杯のウイスキーとロック・ミュージックが欲しくなる。俺はこれから、真夜中にも関わらず起き上がって、バランタインのオン・ザ・ロックを作り、音楽を聴こうと思うんだ。せっかくだから、ラジオ番組風にいこうじゃないか。DJはこのノーベル文学賞候補の候補の候補であるこの流川亞世だ。イッツ・スリー・オクロック、アセイ・ルカワズ・ロックンロール・ナイト。今日はナイト、夜にまつわる歌のリクエストをつのるぜ、どんどんメールをくれよな。ヘイ、今夜の一曲目だ。AC/DCの『狂った夜』。いかしたギターの音だ。ユー・シュック・ミー・オール・ナイト・ロング。ここで少し俺の脳内で『狂った夜』が流れる。少し静かにな。ユー・シュック・ミー・オール・ナイト・ロング。いい歌だったね。やっぱりロックンロールは最高だ。ここからはリクエストだ。東京都杉並区在住、ダライ・ラマ一四歳さん、オジー・オズボーンの『バーク・アット・ザ・ムーン』。うーん、これはいきなりあれなのが来たな。俺は、ナイトって単語が入っている歌を考えていたんだけど、いきなり入っていないか。しかし、たしかに月に吠えるということは、夜ということだ。月は昼間に出ていることもあるが、月は基本的に夜に出ている。良しとしよう。聴いてくれ、『バーク・アット・ザ・ムーン』。これまた、クールなギター・リフから始まるね。聴いてくれ、月に吠える。ここでしばし俺の脳内でオジー・オズボーンの歌声が流れる。そして俺はバランタインのオン・ザ・ロックを飲む。よし、次のリクエストだ。香川県観音寺在住、二一歳の精神異常者さんから、ザ・ストロークスの『ラスト・ナイト』。いいね。まともだ。決して君は精神異常者なんかじゃない。精神正常者だ。しかし君は明日から気が狂うことだろう。まともな精神を持っていたら、この世に実存しているという事実に対して発狂してしまうからだ。つまり正常であるということは異常であり、異常であるということは正常なことなんだ。なんてこった。何のために生まれて来たんだろうね。聴いてください、『ラスト・ナイト』。ここでしばし俺の脳内でジュリアン・カサブランカスの情けない声が聴こえる。そしてバランタインをまた一口飲む。よし、次の歌だ。次は、福島県南相馬市在住、シャネルの八歳さんから、ガンズ・アンド・ローゼズの『ナイトレイン』。なんてこった。これまたひねってきたね。ナイトがつく歌とは言ったけど、ナイトレインだなんて。俺は、こんなこまっしゃくれた餓鬼が大嫌いなんだ。ガンズなんて聴いてんじゃねえ。殺すぞ。なんてことは言わないよ。俺もガンズは大好きなんだ。聴いてみよう。『ナイトレイン』。ここでしばし俺の脳内でナイトレインが流れる。とてもクールだ。そして次は、奈良県天理市在住、九九歳のロック・バルーンさん、なんと、キッスの『ロックンロール・オールナイト』。最高のリクエストだ。わかっている。今夜のリクエストはハード・ロック寄りだが、まさしく最高だ。聴いてください、『ロックンロール・オールナイト』。あああ~わなろけんろ~お~ない~。次は、レボリューション九歳さんから、えぇっと、これは何だ、相談ってやつかな。そういうものがついている。そのまま読み上げるね。流川亞世さん、ラジオ、いつも楽しく聴いています。今日は少し相談があります。実は私は、生まれながらに嘘つきで、物心ついた時から嘘以外のことを言った記憶がありません。昨日がものすごい雪の日だったとしても、吐き気がするくらいに湿気がひどく暑苦しい日だったと言いますし、神さまを信じていないのに、神さまはいるのだと友達に日々ふれ回っています。いまだに日本帝国の近くには独裁国家があり、反国家的な人間が公開処刑されたり、再教育施設という名の強制収容所に入れられたりしているというような、この二一世紀にあり得ないような大嘘も言います。世界はブラック・ボックスの中にあり、輝いている太陽はプロジェクション・マッピングで写されたものなんかではなく、本当に空に存在していて、この世界を照らしているといったような、信じられない嘘までついてしまうのです。この世界が、ブラック・ボックスの中ではなく、開かれたものとして存在しているなんて、ちゃんと教育を受けたものなら噴飯ものの嘘さえ、私の頭は絞り出してしまうのです。幼稚園の先生には常日頃、自分の母親はテロリストが殺した無辜の人々の頭に数字を書いていく経理処理の仕事をしていると言っていましたし、父親は父親で、その人々の衣服をリメイクして、リサイクル・ショップに卸す職業をしていると言っていました。そしてこれは本当の話なのですが、私の叔父は『死刑執行車』の運転手をしているのです。ここでその『死刑執行車』という『働く車』がいったい何なのか説明させていただくと、その名の通り、車内で死刑を執行することが出来る車です。死刑にしたい人間を死体にするために現場に駆けつける、働く車です。死刑のロード・サービス。死刑執行車は、トヨタのハイエースを改造したもので、中には拘束具付きのベッドと薬物注射のキットを冷やしている小型の冷蔵庫があるだけです。車の中にギロチンや電気椅子を積むわけにもいかないというのもありますが、今時の死刑は非常に人道的で、苦しまずに絶命する注射を使用するのです。私の叔父はその死刑執行車の運転手をしていました。もちろん、私の叔父はあくまで運転手なので、死刑を執行したりはしません。ただ言われた通りの場所に車を運転していくだけの職業です。しかしとある日、私の叔父は、死刑執行車を走らせたくない場所へと行くように命令されます。それは何と、自分の自宅だったのです。私の叔父は男手一人で子供を三人育てていました。三歳の男の子の双子と、二歳の妹が一人です。叔父は思いました。何かの間違いではないか?と。三歳以下の子供が死刑になるなんて、この日本帝国のような国家ではあり得ないと思ったのです。死刑執行車とは、救急車やパトカーと同じように緊急車両なのでサイレンを鳴らしながら道路を突っ走ることも出来ます。今すぐに死刑にしなければならない人間がこの世には多すぎるからです。しかし実務上は、死刑囚に配慮してサイレンを鳴らすことはあまりありません。予算を消化するために死刑執行が立て込む年末などは仕方がありませんが、時間に余裕を持って死刑囚の元に向かうのが通常ですし、真夜中とか早朝の、静かで道路が空いている時間に行くことが多いのです。叔父は思いました。『この世には確かに一刻を争うほど、すぐにでも死刑にしなければならない人間がたくさんいる。俺はこの仕事にやりがいを抱いているし、この仕事に誇りを持っている。死刑のロード・サービス。すぐに駆けつけ、すぐに死刑を執行する。こんなに世の中に必要な顧客サービスがあるだろうか?決して給料は高くないが、俺はこの仕事に人生を賭けていた。今まで俺は、様々な人間の元に車を走らせた。わくわくしたもんだ。それは時に総理大臣だったし、道端で薬物を売っている商人だったし、売れっ子俳優や、いじめで人を死に追いやった高校生の時もあった。しかし、子供だったことは一回もなかった。いったいどういうことだ?こともあろうに、俺は今、俺の家に向かっているだなんて。俺の家に今いる人間は、俺の可愛い子供たち三人だけだ。あの子たちが死刑の対象になるわけがない。』そう考えた叔父は、車の後ろに乗っている死刑執行人に問いかけました。『あの・・・今向かっている所は私の自宅で、そこには子供たちしかいません。何かの間違いでしょうか。隣人のクローネル・リリーなら死刑に値します。あいつはいつだったか、私の下半身をまさぐって、こともあろうにちょん切ってホルマリン漬けにしようとしたのです。まあ、ちゃんと返してもらい、手術で私のものは元通りになったので、死刑はやりすぎかもしれませんが、もう、面倒臭いんで死刑にしちゃいましょう。今向かっているのは、私の家ではなく、隣のクローネル・リリーの家の間違いですよね?』しかし後ろの死刑執行人は言葉を返しません。『あ、じゃあクローネル・リリーのさらに二軒隣の、ショウコ・フセイン・ズケランの所ですね?あいつはクローネル・リリーよりも格段にやばい。私自体は被害を被ったことはないが、彼女、臓器を担保に高利貸しをやっているんですよ。彼女に金を借りて、いったい何人の人が臓器を奪われたことか。とある人なんか、脳みそを奪われちゃった。脳みそなんて移植出来やしないのになぜ担保に?と思うでしょう。世の中の金持ちには、ジェフリー・ダーマーみたいな人もいるんですよ。これが。偉そうな顔して、みんなの前でセミナーを開いている中年の親父が実はグルメだなんて面白いですよね。もちろん、その金持ちも死刑に値するけど、まず最初はショウコ・フセイン・ズケランだ。あの女はまず間違いなく死刑に値する。だって、担保の臓器取っちゃうから、結果として何人も殺しているんだもん。あいつは間違いなく死刑。死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑。百万回のアイ・ラヴ・ユーならぬアイ・キル・ユー。百万回の死刑。だから、今向かっているのが私の家だなんて、間違いでしょう?三軒隣の、ショウコ・フセイン・ズケランの家でしょう?』しかし死刑執行人は返事をしません。死刑執行人は、業務に関すること以外に言葉を発しないし、本来、死刑執行車の運転手も高速道路の料金所で小銭を払う時以外には業務外で話してはならないのです。叔父は絶望しました。まさか、死刑執行車を我が家に走らせているのです。しかし、死刑執行の命令は絶対で、誰にも妨げることは出来ません。そこで叔父はどうしたと思いますか?死刑執行人とセックスすることにしたのです。死刑執行人は綺麗な女性で、叔父好みでした。あ、流川さん、あなたは今まで私が話をしている死刑執行人のことを男だと思っていましたね?しかも非常に身分の低い、筋骨隆々とした髭面の男で、朝から酒を飲んでいるようなジプシー風の男だと思っていたでしょう?流川さん、あなたは差別主義者ですね。今はジェンダー・フリーの時代かつ、死刑執行とは非常に高貴な仕事なのです。サウジアラビアの首切り人が高貴であるのと同じです。むしろ、注射による処刑が主流の昨今を考えれば、丁寧に注射を射てる女性の方が死刑執行人に向いているかもしれませんね。ここで補足ですが、流川さんは、死刑執行人が女性だったら、男は抵抗して逃げてしまわないのか?と思ったかもしれません。しかしそれはありません。この国の法律で、もしも死刑執行に抵抗したら、後日六六六時間の拷問を受けた末に処刑されると決まっているからです。だからこそみんな諦めて死刑を受けます。六六六時間の拷問の末の処刑と、痛みもない注射の処刑、子供でもどちらが良いかわかることでしょう。死刑執行人とは何と素晴らしい職業でしょう。むしろ、死刑囚にとっては天使のようなものでしょう。しかし昔から死刑執行人は言われのない差別を受けてきました。もちろん、『最後のハング・マン』のように尊敬を集めた人もいますが、基本的には死刑執行人は下賤なものとされてきました。私にはそれがまったく不思議でならないのです。なんたって、世の中の極悪人の首を切る、死刑を執行するのは、文句なく『善いこと』だからです。死刑執行とは、ほとんど善のイデアだとさえ言っても良いかもしれません。死刑執行人という職業は、スリップノットのようなネクタイを締めた銀行員よりもよっぽど高貴な仕事です。世の中のゴミの中のゴミの中のゴミの中のゴミの中のゴミの中のゴミの中のゴミ、ゴミ界のエリートを一掃する職業は、下賤な金貸しよりもよっぽど高貴な仕事なのです。時代が変わったのは良いことです。良いことを、良いことだと言うことが出来る社会、良いことを進んでみんながやりたがる社会。時代が変わったからこそ、死刑執行人はいまや弁護士や医師よりもなるのが難しい高貴な職業です。このような高貴な仕事に女性も就けるようになったのはとても良いことです。日本帝国という国を流川さんは見くびってませんか?我らが帝国は世界的にも重要な経済大国です。男女平等についても徹底している国です。日本帝国とその死刑執行人制度は素晴らしい。どれほど素晴らしいかと言うと、路上セックスのあとに道端に残されたゴムの中のカピカピの精液くらいに素晴らしいのです。ゴミくずのように捨てられた命のもとを、ゴミくずのような虫たちが食べて生命の輪廻とするからです。食物連鎖と同じとは言いません。しかし、ゴミくずのような色魔たちの残した夢の跡に、これまたゴミくずのような虫たちがたかって生きる活力とするのは、まさしく持続可能な絶望の世界と言えるでしょう。それがたとえ絶望であろうと、持続可能であることはとても素晴らしいことなのです。というのも、希望というものは簡単に途絶えます。まるで、永遠の愛を誓い合った恋人たちのお互いへの優しさと、性的興奮の度合いのようにね。もしくは、世界の終わりのエンド・ロールのようにすぐ終わります。この世界が終わった時、それはそれは聖書とコーラン五万冊分くらいのエンド・ロールが流れると流川さんもお思いでしょう。しかし、この永遠に続くかと思われる校長先生の話のような世界には、実はまるで中身がなかったのです。意味があるようで意味がない前衛的な現代詩のように、実はこの世界にはまるっきり中身がなかった。だからこの世界の終わりのエンド・ロールは、あまりにもすぐ終わってしまうのです。世界で一番短い曲として有名な、ナパーム・デスの『ユー・サファー』という一秒ちょっとの馬鹿げた曲がありますが、この世界の終わりのエンド・ロールはそれよりも短いのです。一秒なんてとんでもない。長すぎる。一秒あればものを盗むことも、人を殺すことも、人を愛することも出来ます。アメリカかロシアの大統領であれば赤道ギニアから北極くらいまでの世界を消すことも出来るでしょう。つまりたった一秒にも満たないエンド・ロールで締めくくられる人間の抱く希望というものは、それよりも、何倍も、何億倍も短い。短い短い希望。希望はすぐに途絶える。しかし絶望は種馬の精子のように永遠に生まれ続け、私たちの心を蝕み続けます。絶望というものはあまりにも粘着質なストーカーのようなもので、振り返ればすぐそこにあるものです。気の置けないと信じ切っている友人たちと昼下がりに飲むビール、あれは最高でしょう。しかし振り返ればそこには絶望。恋人、もしくは配偶者と愛し合った後にする気怠いキス、あれも最高でしょう。しかし振り返ればそこには絶望。これは私にはわかりませんが、仕事中毒の人が、全身全霊をかけて仕事を成し遂げた時、人や社会のためになった大きな仕事をしたと信じ込んでいる時の高揚、あれも最高なのでしょう。しかし振り返ればそこには絶望。絶望とはなんて素晴らしいものなのでしょう?希望とは滅多に目が合わないですが、絶望は振り向けばいつでも『そこ』にいてくれるのです。私はこの持続可能性を絶望というものに託しているのです。逆張りをする奇をてらった哲学者だと笑わないで下さいね。恐らくは流川さんも探しているであろう『永遠』、誰もが探しながら絶対に見つからない、しかし探すことを死ぬまで止められない『永遠』・・・私はこの持続可能な絶望の中に『永遠』を見たのです。すみません、あまりにも話が逸れ過ぎてしまいました。私はいつも『裸のランチ』のような混沌の中にいるのです。ともかく、この死刑執行人はとても綺麗な女性だったのです。死刑執行人と言っても作業着を着ているわけではなく、上下とも体のラインにぴったりのスーツを着こなしています。髪型はセミロングで少し赤みがかかっており、顔はとても死刑執行人とは思えないほどの儚さを持った清廉な顔です。そしてここが重要なのですが、その姉ちゃんはブリジット・バルドーよりも良い体をしていました。私は女の子なのであまり下品な言葉を使いたくはありませんが、いわゆる、『たまらねぇ、やりてぇ』体をしていたのです。それは体のラインが露わとなるスーツで明らかでした。この体を見て勃起しない男は、老衰や病気で死ぬ五秒前の男だけです。死ぬ五秒前ともなれば、さすがにマリリン・モンローやエリザベス女王が二人で相手をしてくれるインペリアルな高級風俗だったとしても勃起しません。というのも、挿入から射精、次世代に命を残すには五秒だとさすがに時間が無さ過ぎるからです。死にかけている男が勃起、挿入、射精をするためには、最低十秒は要るでしょう。たとえばシベリアの戦場で銃弾が内臓をかき混ぜていて死にかけている男でも、ブリジット・バルドー級の女性が迫ってくれば死ぬ半秒前にはことを終えることが出来るでしょう。寒さも、内臓の痛みも、死への恐怖もすべてが関係ありません。何も考えずに目の前に良い女がいればやる。それがたとえ母親や妹だとしてもね。私は女性なのでわかりませんが、恐らく世界中の男とはそのようなものではないでしょうか?これはリグ・ヴェーダでも読みましたし、他人のセックスを神経症的に追いかけるゴシップ誌にも、国連憲章にも書かれていることなのでまず間違いはないでしょう。男というものは野獣以下と言うと野獣に失礼なくらいの下賤な存在です。かつて羅針盤が発明された時代に空っぽの頭を首に乗せたヨーロッパの人間が、未開の地にいる人間をすべて野蛮だと言いましたが、すべての人間、特にすべての男どもは野蛮で、野獣よりも野蛮です。空っぽの頭がそうさせているのです。ほとんどの男は頭でものを考えているわけではなく、下半身でものを考えていると言っても過言ではありません。だってそうでしょう?男という生き物はたしか、平均で三十分に一回セックスのことを考えているとのことでしたが、実際は十秒に一回でしょう。日常で男は客先をペコペコして回りながらセックスのことを考え、電車で妊婦さんに席を譲りながらセックスのことを考え、忙しい昼にフォアグラになりたがっているのかとばかりにジャンク・フードを口に詰め込みながらもセックスのことを考え、夜にはなけなしの小遣いで風俗に行って、まさしくイっている間さえも別のセックスのことを考えている。何て欲張りなのかしら。男は今よりも明日、明日よりも明後日のことを考えているのです。それが夢だとか自己実現であれば格好良いのですが、セックスのことを考えているだなんて、ああ、何て汚らわしい。このような場で失礼ですが、流川さんもほとんど似たようなものでしょう?まあ、流川さんの場合は、セックスのことよりも死のことを考えるのに忙しいんでしょうけど。まあ、セックスについて考えるのも、死について考えるのも、結局は同じようなものなんですけどね。童貞がセックスのことを考えるのが楽しいように、死のことを考えるのはなんて楽しいことなんでしょう?死というサムシング・グレート。未知のもの。生きていれば誰だって人生の最期にそのご褒美を味わうことが出来るのですもの。これはあくまで私の考えですが。流川さんは良く、死のことをおぞましい『敗北』であると考えているようですが、私にはどうしてもそのようには思えないのです。流川さん、このことについては是非、今後二人でセックスでもしながら議論しましょう。ああ、何て汚らわしい。あえぎながら死について議論するだなんて。でも私、流川さんが相手ならまんざらでもないと思うの。私、あなたの書くものが好きなのですから。あなたの書くものは、純粋な下半身からくる欲望の表象だと思う。だから、私はあなたの下半身も好き。ああ、何て汚らわしい。ともかく、私の叔父は死刑執行車に乗っている綺麗な女性の死刑執行人とセックスすることにしたのです。流川さん、私の話がやっと元に戻ってきてほっ、としましたね?かく言う私も、太陽がちゃんと北から昇ってきた朝のようにほっ、としています。学校でならった、太陽は北から昇ってくるという事実がなぜか私の世界ではあまり起こらないのです。太陽が東から昇ったり、南や西から昇ったり。私はクスリをきめているわけでもないので、なぜこのようなことが起こるのかまったくわからないのですが、それでもたまにちゃんと北から太陽が昇ります。私はそんな時、すごくほっ、とするのです。私の世界は、常に『裸のランチ』のような混沌の中にあるのですから。ともかく、私の叔父は死刑執行車を走らせながら、どうにかしてその死刑執行人とセックスをすることが出来ないかと考え始めました。死刑執行人は業務に関係のない言葉を発してはいけないと法律で決まっているのですが、あえぎ声なら出しても大丈夫です。ちなみに、これは私が決めました。というのも、あえぎ声は欠伸やため息と同じく、人間生来の声であり、会話には含まれないと思うからです。叔父は、死刑執行人とセックスをすることで時間稼ぎをしていれば、その間だけでも車の到着を遅らせることが出来て、自分がこのブリジット・バルドー顔負けの美女と永遠にセックスをし続けていれば、我が子は永遠に生きることが出来ると考えました。もちろん、叔父の性器は蛸の足のように何本もあるわけではなく一本しか無いので、永遠にセックスし続けることは無理です。しかし、私が考えるように、会話に含まれないあえぎ声で意思疎通を図り、なぜ我が子が死刑執行に選ばれたのか、年齢を考慮して無期懲役に減刑出来ないか、といったことを交渉しようと思っていたのでしょう。性交渉しつつ、我が子の命の交渉をするつもりだったのです。叔父は言いました。『あの・・・死刑執行人さん、私の家に向かっていることはわかりました。そのことについては現時点では受け入れています。その話は一旦横に置いておきましょう。ギロチンの横に執行済みの生首を置くようにね。そこでちょっと提案があります。私たちが目的地まで行かなければならない時間まで、まだ四時間もあります。道路は核戦争後のようにガラガラなので、時間にはかなりの余裕があります。少し休憩をしませんか?』しかし死刑執行人は返事をしません。『では、こうしましょう。私の目を見てください。』叔父はフロント・ミラーの中で死刑執行人に目を合わせるように言いました。しかし死刑執行人は返事をしませんし、目を合わせようともしません。叔父は粘り強く交渉を続けました。ギロチンの横に執行済みの生首をおくように、すべてのことを横に置いて、とりあえず目を合わせてもらえるように交渉しました。『死刑執行人さん、ギロチンの横に執行済みの生首をおくように、西ベルリンの横に東ベルリンを置くように、自殺志願者の横に銃を置くように、消費期限間近に値引き販売されたハリウッド・スターの精子の横にマッシュルーム・カットの炭疽菌を置くように、初恋の丘の横に有給休暇中のジョン・ウェイン・ゲイシーを置くように、脳みその缶詰めの横にグランド・キャニオンを置くように、マニラ大聖堂の売上推移の横にアルビノの大根を置くように、コンクリート・ブロックの横に搾乳機を置くように、ゲシュタルト崩壊寸前のハングルの横に期間限定のモーター・ショーを置くように、チョコレートの横にサリンで化粧をした歌舞伎役者を置くように、因数分解されたメデューサの髪の横にナイキのバスケット・シューズを置くように、シャンパン・タワーの横に遺伝子組み換えの心臓を置くように、シェーキーズのウェイトレスの横に衛生兵を置くように、迷いクジラの横にカシミアのセーターを置くように、ステレオタイプの横に安楽椅子を置くように、右翼の横に北アイルランドを置くように、ミッキー・マウスの横にハンプティ・ダンプティを置くように、片足しかない魚の横にハリー・ウィンストンの言語処理機を置くように、薬物依存症患者の横にコーン・フレークを置くように、神さまの横に売春宿を置くように、公団住宅の横にマネキン工場を置くように、マイティ・ソーの横にチェーンソーを置くように、赤ん坊の横に悪意で出来た輪舞曲を置くように、ギターの横にポマードを置くように、東條英機の横にハロー・キティを置くように、ヴィックス・ヴェポラッブの横に原子核を置くように、郵便ポストの横に逆さ吊りの聖火を置くように、政治家の横にカトマンズの森林を置くように、シンデレラの横に乾燥した畜産物を置くように、エスプレッソの横に工業高校を置くように、ほうれん草の横に読書中のピート・タウンゼントを置くように、偏西風の横に商品タグを置くように、ザンビアの横に目抜き馬を置くように、ディジー・ガレスピーのサックスの音階の横に現金出納帳を置くように、便座の横にロマネスク様式の電気自動車を置くように、天王星の横に乞食たちの歌を置くように、円グラフの横に魚を置くように、関連性の横に形而上学を置くように、マスタードまみれの陪審員の横にガス管を置くように、ヤマハのギターの横に台北を置くように、聞こえて来た悪口の横にディアゴスティーニのブライダル・セットを置くように、インディアン麻雀の横に虫たちの審判を置くように、レズビアンのビランの横に印紙代の領収書を置くように、掻きむしったかさぶたの横に深海魚たちの恋愛を置くように、倫理観の横にデブリを置くように、曼陀羅の横に六本木の寝たきりアイドルを置くように、ナルシストの自殺の横に漁業組合を置くように、ドミトリィ・ショスタコーヴィチの横にルームシェア中のカタツムリと寄生虫を置くように、流れ弾の横に竜舌蘭を置くように、喪主の横にルーマニアの虫を置くように、盲目の三毛猫の横にモルモン教を置くように、ユング心理学の横に二日酔いの落花生を置くように、新宿駅前の詩人の横に空飛ぶスパゲッティ・モンスターを置くように、ソニー・ビーンの横に不動産賃貸借契約書を置くように、ゴブリンの離乳食の横にカーテンレールを置くように、マンホールの横に山吹色の豪華客船を置くように、狂った革靴の横に円周率を計算し続けて死んだカブトガニを置くように、ヴァスコ・ダ・ガマの横にアルビノのパンダを置くように、膵臓の横にラブ・ソングを置くように、日和見主義者の横に棚卸資産としての薬指を置くように、夜行性の太陽の横にマリリン・モンローを置くように、悲しみの横に花束を置くように、とりあえずすべてのことを横に置いて、私の目を見てください。』叔父は言いました。その時です。なんと、死刑執行人がミラー越しに叔父の目を見たのです。そして死刑執行人は叔父に恋をしました。嘘のような話ですが、これは本当の話です。叔父は、道を歩けば呼吸をするようにセックスが出来るほどにモテる人なのです。決して顔が良いわけではないのですが、彼は目がとてもセクシーなのです。流川さんも叔父の目を見れば同性愛者になるかもしれません。叔父のセクシーさは、異性であろうが同性であろうが関係ありませんし、種族さえ関係ありません。道行く猫や犬、トリケラトプスやスポンジ・ボブでさえも叔父に発情してしまいます。飛行機で飛んでいれば鳥も発情しますし、海を泳げば魚も発情しますし、皇居の中を歩いていれば天皇も発情しますし、天の川を歩けばエイリアンも発情します。もちろん、死刑執行人も例外ではありません。死刑執行人は死刑執行人としか恋愛してはならないし、結婚してはならないという法律があるので、本来この姉ちゃんは叔父に対して恋愛感情さえも抱いてはいけないのですが、彼の流し目は無法状態です。『パージ』という、二四時間だけ殺人を含むすべての犯罪が合法になるというクレイジーで私の大好きな映画があるのですが、言うなれば叔父の流し目は『セクシャル・パージ』です。そして死刑執行人はぶっ飛んでしまいました。叔父は言いました。『これであなたと私は一つのチームですね。もう離れることはない。』そして叔父は突っ走っていた道路を川崎方面へと折れて走りました。ラブホテルと言えば川崎ですが、彼らはもちろんホテルに向かったわけではありません。彼らはとりあえず人目につかない橋の下に向かったのです。叔父は自らの色目が通用したことで子供の命がとりあえずは助かること、彼からすると死刑執行人というエリートの女性に色目が通用したこと、そもそもこれから後ろにいるブリジット・バルドー並みの色気を持った女性とセックスが出来ることに喜びを感じて興奮していました。ほとんど、我が子のことを忘れるくらいに興奮していたのです。ああ、男って何て汚らわしい。我が子の命より、目の前の美女とのセックスですからね。何が『これであなたと私はひとつのチームですね。』よ。やることしか考えてないくせに。まあ私は男ではないのでこれ以上言うのは止めましょう。男だから仕方ないと、イブとやることしか考えていないアダムも言うでしょうし、神さまもトランス・ジェンダーではなく恐らく男なので、同じことを言うでしょうから。しばらく走ると鷹野大橋という鶴見川を横切る橋に着きました。橋の下には赤ん坊か浮浪者か、女とやるためにバーベキューをやるバーベキュー・ピープルしかいないと相場が決まっているのですが、その橋の下にもやはり赤ん坊と浮浪者とバーベキュー・ピープルがいました。その橋の下での力関係は、赤ん坊、バーベキュー・ピープル、浮浪者の順番でした。赤ん坊がその場所での最高権力者でした。というのも、赤ん坊の指示で浮浪者がバーベキューとしてバーベキュー・ピープルに焼かれていたのです。もちろん赤ん坊やバーベキュー・ピープルはアルバート・フィッシュではないので、浮浪者を焼いた所で食べたりはしません。ただ焼きたいから焼いていたのです。焼き終わった浮浪者は、単に焼き終わった浮浪者であり、それ以上でもそれ以下でもなく何かのイデアのようにそこにありました。赤ん坊は焼き終わった浮浪者に対してゾロアスター風の祈りを捧げ、バーベキュー・ピープルも同じようにバーベキューにして焼き上げるか、それとも恩赦をするか迷っていました。バーベキュー・ピープルも焼いてしまった方が良いのでは、と赤ん坊が考えたのは、浮浪者と同じく、単に彼らを焼きたかったからです。バーベキュー・ピープルは、まさか自分たちが焼かれると思ってもいなかったので、浮浪者の焼きたてを横目に、牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉、羊肉、馬肉、くじら肉、うさぎ肉、猿肉、猫肉、モルモット肉、アザラシ肉、ペンギン肉、ライオン肉、キリン肉、犬肉、アリクイ肉、イグアナ肉など、ありとあらゆる種類の肉塊を焼いて食べ、メチル・アルコールのショットを飲みながら人生の春を謳歌していました。それを見ていた赤ん坊は、愚かなバーベキュー・ピープルたちを微笑ましく思い、全員を焼き上げるのは止めようと思いました。しかし、彼らは男女合計五人だったので、つがいからあぶれた一人、つまり残り物の一人だけを焼くことにしました。あぶれた一人はつがいではないので、この世に子供を残すことが出来ません。つまり、生産性がないので生きている意味がないのです。生産性がない人間はせめて焼かれ、バーベキューという生産性のあるものの一部になって罪滅ぼしをしなければなりません。もちろん、赤ん坊は大人を火にくべたりする力はないので、その最後の一人を焼く仕事は、つがいになった仲間の男女四人なのですが。最終的にバーベキュー・ピープルのつがいは、鈴木一郎と鈴木一子のつがい、鈴木二郎と鈴木二子のつがいが出来て、鈴木三郎だけがあぶれる形となりました。そこで赤ん坊は鈴木三郎を焼くように指示を出しました。鈴木三郎と鈴木一子は昔付き合っていたのですが、鈴木三郎があまりにも生産性がない男であることに鈴木一子が愛想を尽かして別れたのでした。鈴木一子は鈴木三郎に言いました。『あなたはいつでもどこでも生産性のないゴミくずなのね。』鈴木一郎は鈴木三郎に言いました。『お前はいつでもどこでも生産性のないゴミくずなんだね。』鈴木二子は鈴木三郎に言いました。『あなたはいつでもどこでも生産性のないゴミくずなのね。』鈴木二郎は鈴木三郎に言いました。『お前はいつでもどこでも生産性のないゴミくずなんだね。』そして鈴木一郎と鈴木一子と鈴木二郎と鈴木二子は声を合わせて言いました。『死ね。』そして鈴木三郎は浮浪者の次にバーベキューとして焼かれました。人生の最期にバーベキューそのものになるとは、バーベキュー・ピープルとしてはこの上ない幸せです。鈴木一郎と鈴木一子と鈴木二郎と鈴木二子は燃え上がる鈴木三郎を見ながら、声を合わせて言いました。『死ね。』そして赤ん坊は笑いました。けたけたけたけたけた、ひひひひひひひひひひひ、うけけけけけけけけけけ、けたけたけたけたけたけたけたけた、ひひひひひひひひひひひ、うけけけけけけけけけけ、けたけたけたけたけたけたけたけた・・・。そのようにして橋の下で鈴木三郎が焼かれていたのは夕暮れ時でした。夕暮れのように赤い火が、ランボオの見つけた永遠のように輝いていました。そのようなロマンチックな火を横目に、そして赤ん坊の可愛らしい笑い声をBGMにして叔父と死刑執行人はセックスを始めました。私が先ほど話したように、死刑執行車の中はミニチュアのギロチンや電気椅子、もしくは銃やスリップノットがあるわけでなく、あるのはただのベッドと薬物注射のキットを冷やす冷蔵庫だけです。それはまさしくセックスに適した部屋だと言えるでしょう。もちろんガラスはマジック・ミラーで、中からは鈴木三郎が燃える永遠のように美しい炎と、それを見てひたすら『死ね。』と合唱している鈴木一郎と鈴木一子と鈴木二郎と鈴木二子、それを見てひたすら笑っている可愛らしい赤ん坊が見えますが、外からは中が何も見えないようになっています。このように美しく叙情的な風景を見ながら、しかも周りの目を気にせずに出来るセックスというものは何と素晴らしいものでしょうか?叔父の股間は、隣で燃えている鈴木三郎のように燃えました。一回目のセックスは純粋に楽しみながらやりました。まるで初恋の童貞と処女のような、『世界が変わるような胸の高まり』を抱きながらも、熟年夫婦の最後の営みのような『世界が変わらないことの安心感』も抱きつつ彼らはセックスしました。叔父はそこで実は自分たちが生き別れたきょうだいなのではないかという妄執に囚われました。こんなにもセックスの相性が良いとは、きょうだい以外に考えられないと思ったのです。そして叔父は目の前の死刑執行人に対して、架空の妹の名前を呼びました。『まさか、まさか君は私の生き別れた妹である節子ではないだろうか。こんなにもセックスの相性が良いなんて。』死刑執行人はあえぎ声を出していましたが、まだ何も答えませんでした。そして、目の前にある叔父の彫りの深い顔を見ているようで、そこには何もないかのような表情をしました。その表情は、気持ちが良すぎて現れた忘我の表情だったのですが、叔父からしたら『いったいこのクソバカは何を言っているんだ?』と相手が思っているように感じたので、すぐに言葉を続けました。『あ、今私が言ったことを忘れてください。本当に申し訳ありません。私には妹はいません。性転換をした弟がいるだけです。あなたは最高です。誤解を恐れずに言うのであれば、あなたのあれはさらに最高です。性転換をしてもさすがにこれは無理でしょう。あなたのあれのあれはさらに最高で、あなたのあれのあれのあれはさらに最高で、あなたのあれのあれのあれのあれはブラフマンであり、もはやこの世界の始まりと言っても良いかもしれません。そして私は今・・・。』そして叔父は宇宙の始まり、ビッグ・バンのように果てました。二回目のセックスは少し冷静になりながらも、やはり半狂乱になりながらやりました。三回目のセックスはさらに冷静になりながらも、やはり半狂乱になりながらやりました。四回目のセックスをする際、朝に飲んだコカ・コーヒーがやっと効いてきたのか、半狂乱ではなかった叔父の頭は、言葉をねじり出しました。『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト。』その時死刑執行人はまだ無表情だったので、叔父は相手が『いったいこのクソバカは何を言っているんだ?』と思っているように感じました。しかし叔父は続けました。『コルホーズとソフホーズ。』叔父は相手が『いったいこのクソバカは何を言っているんだ?』と思っているように感じました。叔父は続けました。『墾田永年私財法と三世一身の法。』叔父は相手が『いったいこのクソバカは何を言っているんだ?』と思っているように感じました。叔父は続けました。『大カトーと小カトー。』叔父は相手の目に怒りが湧き始めていることに気づきました。それもそのはず、セックスをしている最中にも関わらず相手がなぜか幼稚園レベルの歴史の単語を並べ始めたので、死刑執行人は実際に怒りを感じ始めていました。そして死刑執行人は、やはりこのクソバカを殺すしかないのか、本物の愛というものはないのか、と考え始める一秒前の状態でした。しかし叔父は女性の扱いに長けています。彼女がそのようなことを考える前に、ようやく言葉を絞り出しました。『私、今、あえぎ声で、話す練習、している。』死刑執行人は、それですべてを理解しました。死刑執行人はエリートであり知的水準が高く、叔父のようなクソバカが考えていることが手に取るようにわかるのです。死刑執行人は業務に関すること以外を決して話してはいけない。つまり、あくびとかくしゃみのような、生理的なものに分類されるかもしれないあえぎ声であれば話しても良いということか。日本最高峰の頭脳を持った彼女はすぐに叔父の意図を読み取り、さらに、すぐにコツをつかんであえぎ声で話し始めました。『な、なる・・・ほど、あなたは私と話そうと、しているのね。』死刑執行人の声を初めて聞いた叔父は、性的興奮の頂点に達し、四回目のセックスは終わりました。その時、すでに夜は深く、叔父と死刑執行人は土星よりも重い眠気に襲われました。本来死刑執行人は、絶対に眠らせないロシアの拷問に永遠に耐えられるほど眠気には強いのですが、この日は特別でした。死刑執行人は死刑執行人になってから、死刑執行人以外の人間と基本的に話しません。彼女にとって死刑執行人ではない人と『話す』という行為はセックスなんかよりも親密な行為であり、まるでまだつぼみが開く前の花のような、少女の時代の初恋のように胸が高鳴ったのです。その胸の高鳴りは一つの『ビート』でした。それはアンネシュ・ベーリング・ブレイビクのマシンガンのようなビートではなく、ジェームス・ジェマーソンのベースラインのように滑らかなビートでした。『あの日私は、まだ何も知らない一人の少女でした。しかし、恋というものは知っていました。私と同じような、まだ何も知らないであろう少年に恋をしていたのです。結局告白は出来ませんでしたが、私はその少年に、大人になって出会えたのです。死刑執行を命じられてあきる野市のイオンモールの駐車場に行った時のことでした。なんとそこにいたのはその少年でした。もちろん業務以外のことを話してはいけないので、久しぶり!元気にしてた?とも言えません。まあ、これから死ぬ人間に元気にしてた?と言うのも残酷な話ですが、私は彼がどうして死刑囚になったかなどに興味はなく、純粋に会えたことが嬉しかったのです。しかし私は死刑執行人であり、業務を全うしなければなりません。彼は私のことに気づいていなかったみたいなので、普段よりも良く相手の目を見て死刑執行の旨を伝えました。それはまるで、昔出来なかった愛の告白のように胸が高鳴ったものでした。そして私は彼に対して死刑を執行する時、少しだけむずむずするような初恋をまた感じていたのです。だって、とてもロマンチックじゃありませんか?想いを寄せたことのある人が、死刑執行人である私の前に死刑囚として現れるなんて、ちょっとした運命みたいで、ドキドキするじゃありませんか。私は久しぶりに少女のような気分になり、胸の高鳴りを押さえきれずに死刑執行をしました。彼が目の前で死んだ時、私は私の初恋、あの時報われなかった恋心を回収したような気分になりました。なぜこんな話をするかわかる?あなたと会って、話が出来て、私はあの頃の初恋のように胸が高鳴ったの。これは私の人生であまりにも大きな出来事だったの。私は死刑執行人として仕事に生きると決めた時、もう恋愛なんて非効率なことをするわけはないと思っていたの。効率を第一にする死刑執行人になるので、惚れただの、腫れただの、刺しただの、殺しただの、そんな非効率なことをするなんて下らないことだと思ったのね。そもそも死刑執行人は死刑執行人としか恋愛しちゃいけないことも不満だったわ。自分で言うのもなんだけど、死刑執行人って今となっちゃエリートの仕事だから、勉強は出来るけど面白くもない男の子ばっかりなのよね。頭でっかちの童貞ばかりで、私の胸を高鳴らせてくれる人なんて一人もいなかった。何人かデートもしたけど、本当に下らない男ばっかりだった。昔ながらの男根主義者みたいな、自分のIQが高いだけで根拠もなく自分がモテると考えている気持ち悪いやつ。女は頭が良い男が好きだと信じ込んでるやつがいたな。頭が良くても、三秒聞いているだけで眠くなるような話しかしない、人生の中の一日と言わず、一日の中の一秒さえ使うのがもったいなくて、今すぐ逃げるか、逃がしてくれないなら一秒でも早く超法規的に死刑執行させてくれないかと思うような男。もしくは、極度に女性を恐れつつも、立派に性欲だけは持ってて気持ち悪い声と顔で話しかけてくるやつ。デートに誘う時の声くらい、ビデオ屋でビデオを選んでいる時の独り言みたいな気持ち悪くてか細い声じゃなくて、断末魔みたいな大声を出して欲しいものよ。童貞であることは悪いことではないけど、気持ち悪い童貞であることは罪だと思うな。あとは、勉強も出来て、なまじ顔も少し良いもんだから、救いようもなくナルシストなクソバカもいたな。お勉強が出来る童貞たちの中で、自分だけは神にでも選ばれたかのような勘違いをしている。それがまた、モテなさそうな、教室の隅っこにいるようなやつに対してすごく優しいのよ。それは自分がこいつらよりは文句なく上の存在であるって思っているからで、見下しているからなせる業なのよ。こいつに比べたらむしろ、か細い声で隅っこにいる気持ち悪いやつの方が何万倍もマシよ。優しい笑顔の裏に、自分で男前だと思っている、言うほど男前でもない顔の裏に、揺るぎない自分の優位性を愛でているやつの方が、よっぽど気持ち悪い。二人殺せるなら二人とも殺すけど、一人しか殺せないっていうなら、私は隅っこのやつじゃなく男前のやつを殺すな。ああ、考えるだけでうんざりする。死刑制度の是非について議論をふっかけてくるやつもいたな。じゃあ何でこの仕事をやっているの?って聞いても、死刑に反対するために、内部から制度を変えるためにやっているとか、三才児並みの回答しかなかった時は、もはやコーヒー代さえ払わずに帰ったものよ。私は年収八千万円なんだけど、時間を無駄に使ったコーヒー代を払う金なんかはないの。頭が良いだけが取り柄の男なのに頭が悪かったらいったい何が残るのよ。とにかくひどい男たちばっかりだった。だからこそ私は、あの頃抱いた初恋を、初恋の相手を処刑することで最後の初恋にしたの。もうこれ以上、うんざりするような相手に失望したくなかった。しかしあなたは、まるで初恋みたいな気持ちを私に思い出させてくれた。言葉・・・まず最初に言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは言葉によって出来た。出来たもので、言葉に依らずに出来たものは何一つなかった。言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。人間らにとって言葉というものは、人間存在の以前に存在していて、私たちは言葉の後に生まれる。その言葉を、業務に以外で話してはいけない苦痛、話せるとしてもさっき例に挙げた、頭がパンプキン・スープみたいな童貞たちとしか話せない苦痛、あなたにはわかるでしょうか?車内という密室であれば、誰にも聞かれていないので普通に話せば良いのではないかと思うでしょう。しかしそれは無理なのです。今まさしく私は死刑執行の業務を放棄して人生を新しく生き直そうとしている。真面目に勉強をして積み上げて来たこの下らない人生からドロップ・アウトしようとしている。しかし、死刑執行人の規則というものは体に染み付いていて、簡単に破れるものではなかったのです。業務以外の言葉を、口から出そうと思っても出せるものではなかったのです。移動中、あなたはひたすら私に話しかけていましたね。私がずっと無言だったのは、話そうにも話せなかったのです。私があなたのセクシーな目を見て、体を許した時には、私はまだ実は人生をドロップ・アウトするつもりはなかったの。まだ車で引き返して死刑を執行する時間はあったし、ちょっと楽しんだら、あなたに業務に関することだったら話せるから引き返すように命令して、命令しても聞かなかったら殺して、ちょうど隣でバーベキューもやっているからそこにぶち込んで、自分で車を運転して現場に向かうつもりだったわ。閉塞的な日常の中で、周りには頭がロボトミー・パンプキン・スープの童貞たちしかいない中で、ちょっとした火遊びをして日常に戻るつもりだったの。二回目、三回目はおまけね。でも、あなたは私に話しかけようとした。お笑い草だけど、まさかあえぎ声で話そうとするなんてクレイジーなことをされたら、私もあなたに狂ってしまうじゃない。遊びじゃなく、本当にもう、今までの人生がどうでも良くなるくらい私はあなたに参っちゃった。責任を取って、なんて野暮なことは言わないわ。もう私たちは離れようにも離れられないチームよ。もう私たちはぶっ飛んでしまった。ああ、気分が良いわ。最高よ。最高過ぎる。歌を唄おう。私は今、この想いを歌にする。』そして生まれた名曲があのキャロル・キングが歌っている『ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー』です。これは陰謀論的には、シュレルズなるグループが作ったことになっていますが、実はこの死刑執行人が作者なのです。これは彼女が最後に残したテープに吹き込まれていた歌です。彼女は歌い、叔父もメロディから想起されるコードを歌いました。二人は幸せでした。初めて二人が『言葉』を交わした夜に、そこに『歌』が生まれ、二人は幸せでした。バーベキュー・ピープルたちの饗宴は続き、まるで処女懐胎のような優しい火は燃え続けました。それは一つの永遠であり、彼らの歌がその悲しみに花束を添えていました。『永遠にあり続ける宝物なのだろうか?それとも束の間の夢だろうか?君の吐息の魔法を信じて良いのだろうか?明日も君は私のことを愛してくれるだろうか?』しかし明日のことは誰にもわかりません。明日がやって来るかやって来ないかということは、神さまでさえわかりません。明日とは、『今日』という形でしか存在し得ないのです。過去と未来に挟まれた『今』だけが、私たちの生きている世界です。そして叔父たちの明日が、今日としてやって来たのは、まだ太陽が昇る前、未明のことでした。死刑執行車の中で叔父は目覚めました。マジック・ミラーから見える世界はまだ闇に包まれていて、隣で行われていたバーベキューも終わっていたのか、バーベキュー・ピープルたちはいませんでした。家に帰ったのか、結局のところ全員が焼かれてしまったのかはわかりませんが、そこにはかすかな残り火があるだけでした。赤ん坊はそのまま橋の下にいたのですが、ひっそりと闇を見つめていました。叔父は川の流れる音、風に揺れる雑草の音、死刑執行人の寝息、自分の心臓の音に耳を澄ませました。しばらくすると、朝露の乾いていく音、新月の哭いている音、空気から窒素が離れていく音、自らの鼓膜が揺れている音まで聞こえて来ました。この静けさは、数時間前の狂乱の夜があったからこそ感じられるものでした。叔父は闇に包まれた世界の中でかすかに聞こえる『音楽』に耳を澄ませました。そして考えました。『とりあえずは、私の子供たちの命は助かった。環、和、成美、元気だろうか。しかし私はもう君たちに会えることはないだろう。私は、私たちになったからだ。私はこの死刑執行人とチームを組んだからだ。最初は君たちを救うためにこの死刑執行人を籠絡出来ないかと思って始めたことだが、今この闇を眺めながら私は気づいてしまった。私たちは、もう絶対に戻れないのだ、ということに。』そして叔父は死刑執行人が死刑執行台の上で寝ているのを確認し、エンジンをかけて車を走らせ始めました。もちろん行き先というものは決まっていませんでした。この話がここで終わるのであれば、たぶん叔父は川崎港のドックまで行き、朝焼けとともに車ごと海に突っ込んでいたことでしょう。しかし叔父はもう二度と子供たちに会えないであろうこと、もう二度と普通の日常に戻れないこと、未来というものが存在するのであれば、それは破滅以外の何物でもないことに対して、決して絶望していませんでした。むしろ、彼は背筋の凍るような、神経にヤスリをかけられるような、脳みそにアイスクリームをトッピングしたかのような、『驚くべきほどの幸福』を感じていたのです。死刑執行車の運転手という、しがない個人事業主としての人生を送って来た叔父は、初めて人生からドロップ・アウトすることにエクスタシーを感じていたのです。叔父は今まで数え切れない程の女性とセックスしてきました。もはや女性とのセックスでは感じられないエクスタシーを、人生からのドロップ・アウトに感じていたのです。叔父が今まで寝てきた女性の中で一番美しかったのは死刑執行人でしたが、それでも叔父は本物のエクスタシーを感じることはありませんでした。しかしその未明、彼は『生きている』と思い、それを宣言しました。声高らかではなく、闇に紛れるくらいに、ひっそりとした声で。『俺は今生きている。』そして叔父は新しい人生の始まりを、自分の好きな場所で迎えようと思いました。彼は末吉橋を横浜方面に引き返し、第二京浜を経由して生麦ジャンクションから高速道路に乗り換えました。叔父は自分の好きな場所、逗子海岸に向かったのです。生麦ジャンクションに着くまで、死刑執行人は寝ていました。しかし薄暗くてくたびれた料金所の光と、夜明け前の人々の眠たげなささやき声で彼女は目覚めました。『どうしたの?』彼女は叔父に言いました。『さあ、旅の始まりだ。』『どこに行くの?』『俺の好きな場所から、この旅を始めさせてくれないか。』そして叔父はカー・ステレオにヴェルヴェット・アンダーグラウンドのCDを入れました。彼は旅の始まりにぴったりだと思うナンバーを流しました。『スウィート・ジェーン』でした。『ねぇ、君のことをジェーンって呼んでも良いかい?』爆音で流れるギター・リフに負けないくらいの音量で叔父は叫びました。『死刑執行人さん』と呼び続けるわけにもいかないと思ったのでした。『いいよ。じゃあ、私もあなたのこと、ルーって呼んでも良い?』死刑執行人は叫びました。『もちろんさ。じゃあ、俺たちはルーとジェーンだ。』『いいね。』ルーとジェーンは叫びました。その叫びは明るみ始めた空の色に、ほんの少しの鈍色を加えました。車は走り続けました。横浜のみなとみらいを走り抜け、金沢八景を走り抜け、明け方の静かな海の吐息を感じながら、ひたすら死刑執行車は逗子海岸へと向かいました。その間、ルーとジェーンはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌を唄ったり、風景を見ながら目についた看板に載っている言葉を叫んだりしていました。『暗殺相談・浮気調査グル・エージェンシーだとよ!最高にクレイジーだ!』会話をするには音楽の音量があまりにも大き過ぎたのです。しかし彼らは音楽の音量をさらに上げさえしました。とにかく、世界から孤絶したその車の中には音楽が必要だったのです。しかも、日本帝国市民賛歌のような退屈なプロパガンダ・ソングではなく、最高にクールなロックが必要でした。叔父は規制されているロックのCDをたくさん隠し持っており、たとえば死刑執行が終わり、死刑執行人を宿舎に送り届けた朝にビールと牛丼を楽しんだら、家に帰るまでの間にこっそりと聴いていたのでした。叔父は思いました。『あの朝に聴いたロックよりも、その朝に聴いたロックよりも、どの朝に聴いたロックよりも、この朝に聴いたロックが一番最高だ。最高過ぎる。俺はこの朝のヴェルヴェット・アンダーグラウンドを一生忘れないだろう。』そして、車は叔父の好きな場所、逗子海岸に着きました。砂浜沿いの道路に車を乗り付けた時、すでに太陽はこの世界に顔を出していました。砂浜には朝の波乗りを楽しんでいる数人のサーファーがいる以外は、酔っ払って砂浜で寝ていたのか、ひどくくたびれた中年の男が座っているだけでした。輝き始めたばかりの太陽は水面に数多くの光の花を泳がせていました。叔父はそれを見て、人生で最も美しい瞬間のうちの一つだと思いました。『人生で最も美しい瞬間・・・今まで俺にはいくつあっただろうか。人生の主人公であるはずの自分が世界の奴隷のように成り下がっていることに気づいてしまった夜、俺は子供がいなければ首をくくっていただろう。子供たちが今日も明日も飯を食べることの方が、自分の生き死によりもよっぽど大切だという当たり前のことで俺は今まで生きてきた。人生で最も美しい瞬間・・・そうだ。それは環と和、二人の宝物が産まれた時だな。その一年後、成美が産まれた時もそうだが。あの、俺の取るに足らない、くだらない命を引き継いで産まれて来てくれた、温かくて、優しくて、もろいもの。弱さの中にある強さ、生命力を抱き締めて感じた時、俺は俺の人生で最も美しい瞬間を生きていた。今、俺はまさしくそれと同じくらいに美しい瞬間にいる。俺は今、紛れもなく生きている。いつかの絶望さえすっかり忘れ得るくらいの高揚感、俺はその輝きの中にいる。』砂浜で立ち尽くすルーの横には、ジェーンがいました。『ねぇ、立ち尽くしてどうしたの?』『ああ、俺は今震えているんだ。何に対してって?わかるだろう。これから二人を追いかけて来る何者かではなく、未来に待ち受ける何かではなく、過去に置いてきた何かではなく、今、この瞬間の歓びに対してうち震えているんだ。』ルーは実際にほとんど薬物依存症患者のように震えながらそう言いました。ジェーンはルーを抱き締めました。『心の震え・・・私もいつぶりだろう。すべてが過ぎ去ってから。』そして二人は海岸沿いを歩き、叔父はランボオにでもなった気持ちで一編の詩を吟じようとしました。しかしそれは芸術性も何もない男子中学生のラブレターのような内容だったので、ここでは割愛しましょう。叔父はあまり教育を受けていないので、詩などには疎いのでした。しかし叔父の吟じた詩に対してジェーンは言いました。『いいね。私は好きよ。簡単な言葉で簡単なことを言うのは、なかなか難しいことだから。』二人はすでに愛し合っていたので、お互いが幼児誘拐の性犯罪者になろうが、お互いがお互いの親を殺そうが、絶対的な味方なのでした。チームとはそういうものです。ルーは逗子海岸を歩きながら、そこに行くと必ず立ち寄る場所にジェーンを誘いました。それは葉山と逗子海岸の間にある、なぎさ橋珈琲店でした。海を臨むその珈琲店で『世界一の朝食』を取ろうと考えたのです。『あそこに白い建物と、いくつかパラソルが見えるだろう?あれがなぎさ橋珈琲店だよ。』『車はどうしよう?』ジェーンは言いました。『それもそうだね。まさか朝の海岸沿いに死刑執行車が止まっているとは誰も思わないだろうから放っておいても大丈夫かもしれないけど、なぎさ橋珈琲店にはちょっとした難民キャンプにもなるくらいの広さの駐車場がある。車で乗り付けよう。』そして二人は車に乗り、なぎさ橋珈琲店に行きました。朝の珈琲店にはネクタイで首を締めてこれから自殺をするようにしか見えないサラリーマンがいるものですが、カリフォルニアの休日のような雰囲気のこの店には自殺志願者は一人もいません。いるのは、サーファーか詩人、もしくは深夜から起きているヨギーのような老人だけです。彼らはそのような、自由であるように宿命付けられた人々を横目に、出来るだけ会話を聞かれないテラス席に向かいました。追いかけるように店員がやって来て、メニューが決まった頃にまたお伺いします、と言いました。『いらっしゃいませ。メニューがお決まりの頃にまたお伺い致します。』『メニューが決まるまでに世界が終わったらどうする?今決めるよ。』ルーはそう言って、ジェーンにもすぐにメニューを決めさせました。『俺はビールとサンドウィッチ、彼女は白ワインとフルーツミックス。世界が終わるまでによろしく。』執事のような格好の店員はお辞儀をし、戻って行きました。しばらくルーとジェーンは無言で世界一の風景を見ていました。空は少年が抱く理由を付けられない哀しみのように青く、海には光の花束が精子のようにぶちまけられていました。ビールと白ワインがテーブルに届き、ルーとジェーンは乾杯しました。お互いの名前のない人生に対するはなむけと、初めて感じている『生きている』という感覚への偉大なる矜持としての乾杯でした。『さて、俺たちはこれからどうしようか?』ルーは言いました。『私たちは今、新しい人生のスタート地点にいる。』ジェーンは確認するように言いました。『そうだ、そうだ。まずは人生の現在地の確認だね。第一に、俺たちは今新しい人生のスタート地点にいる。第二に、俺たちは神が二人を分かつまで一緒のチームだ。第三に、俺たちは生きているという実感を維持し続けることを目的に行動する。』ルーはすでに一杯目のビールを飲み干したので、二杯目を注文しました。『今まで俺は仕事終わりの一杯だけを生きている実感の一つとして生きてきた。しかしもう我慢しない。俺の人生には、二杯目、三杯目のビールが用意されているのだ。』『私も、とりあえずもう一杯。』ジェーンも白ワインを注文しました。しばらくして料理と飲み物が運ばれて来て、『世界一の朝食』が完成しました。『第一に、私たちは今新しい人生のスタート地点にいる。第二に、私たちは神が二人を分かつまで一緒のチームだ。第三に、私たちは生きているという実感を維持し続けることを目的に行動する。』ジェーンはルーの言葉を繰り返しました。『そう。そうだよ。俺たちは最強のチームだ。もう二度と離れることはないし、もう二度と死ぬために生きることはない。俺たちは生きるために生きるんだ。そうだ。俺たちは自由だ。何かを出来る。その何は、これから俺たちが決める。その何かを追いかけて、俺たちはこれから生きるために生きるんだ。』『私たちは私たちのために、何を追いかけて生きるか決める。』『そうだ。ジェーンは何を追いかけたい?』『私は、月並みだけど・・・その・・・。』ジェーンは言いよどんでいました。『どうしたの?夢とか愛とか、希望かい?もうこの世に生きていて恥ずかしいことなんか一個たりとも無いんだ。誰もが自由に自分のことを語って良いんだよ。』『そう、そうね。私は今まで生きてきて、はっきり言うと幸せではなかった。だから、幸せを追いかけて生きていたいの。』『いいね。いいね。幸せであることは、生きているということだ。俺たちは幸せであり続けよう。』『ルー、あなたは何を追いかけたいの?』『俺かい?俺はもちろん世界平和だよ。もちろん、って言ってもわからないか。俺の子供の頃からの夢は世界平和なんだ。』『世界平和って、何で?』『何でって、世界平和はみんな好きだよ。』『まるで世界平和をカレーライスとかハンバーグみたいに言うのね。』『そう。そうだ。子供がカレーライスやハンバーグが大好きなように、俺は世界平和が大好きなんだ。そもそも俺は今、脳みそにアイスクリームをトッピングしたかのように幸せだ。しかし人間はアイスのみに生きるにあらず。大義のためにも生きなければならない。これまでの大義はくだらないながらも大切なものだった。子供に飯を食わせなければならなかったし、親からもらった大切な体だから俺はとりあえず死なずに生きていた。と、り、あ、え、ず、だと。世の中の人間がだいたいの場合大義も持たずにとりあえず生きているように、俺も大義もなく生きていた。しかしそれは勘違いだった。我が子に今日飯を食わせるため、明日も飯を食わせるため、自殺したくなっても、親からもらった体だから自殺するのを延期し続けて、とりあえず生きる。というよりも、とりあえず死なずにいる。それは立派な大義だと。俺は生まれてから今まできちんと大義を大切に生きていたんだ。それがくだらないものだとしても、人は大義が完全になくなった瞬間に死ななければならない。生きていくというのは結構たいへんなことなので、大義がなくなったら人は生きていけない。自殺するしかないんだ。だからジェーン、君もこれまでの人生に対して、くだらないとぼやいていたかもしれない。でも、君は君なりの大義を背負って生きてきたんだ。君がここで、まぎれもなく今生きているのがその証拠さ。俺たちはまだ生きている。それが証拠なんだ。俺たちは大義のために生きてきたんだ。では、これからは?俺たちは自由を手に入れて、新しい旅、新しい人生のスタート地点にいる。果たして俺たちは人生の大義を失ったのだろうか?いや、違う。俺たちは新しい大義を見つけなければならないし、それはすぐに見つかる。』『それがあなたにとっては世界平和なのね。』『そうだ。もちろん幸せであることも重要なことだ。しかし俺にとって、幸せとは目的ではなく手段なんだ。大義に生きるために、俺たちは幸せでなければならない。前提条件なんだ。幸せは。俺たちは閉塞的な人生からドロップ・アウトした。俺たちは自由で、すでに幸せなんだ。』『そうね。そうかもしれない。でも、幸せな状態を維持し続けるのはとても大変なことよ。』『そう。そこなんだ。実は、俺たちには、死ぬまで幸せであり続けられる、からくりがあるんだ。』ルーの目は朝一番に飲んだビールで淀んでおり、すでに正体を失くしているかのようでした。『からくり?』『そう。というのも、幸せでなくなれば、俺たちは死ねば良いんだよ。お互いに死刑執行用注射を打つのでも良いし、このハイエースで湾口に突っ込んでも良いし、セルフ・ハング・マン&セルフ・ハング・ウーマンになっても良い。』ルーは二杯目のビールを飲み干し、三杯目を注文しました。『あなた、サンドウィッチは食べないの?いらないならもらっちゃうけど。』『ビール飲んでたらお腹膨れちゃった。いいよ、あげる。俺は添え物のポテトだけでいいや。』『私たちは、幸せであり続けなければならない。幸せでなくなったら死ねば良い。最高にクールだわ。しかし、少し哀しいね。』『何が哀しいんだい?俺は嬉しくて仕方がないよ?明日の飯や、税金、住宅ローン、個人年金、保険の支払い、キャリア・プラン、人生プラン、健康・・・すべてのことを気にせずに、ただ、今を生きていれば良いなんて、すごく幸せなことだ。哀しくなんかない。むしろ、幸せでなくなって生きていたくなんてないんだ。よくある国民幸福度調査で三割の人間しか幸福を感じられていないのなら、残り七割の人間は本来死ぬべきなんだ。なぜなら、幸せでなければ生きていても仕方がないから。』『そう・・・。そうかもしれない。』『ねぇ、だからジェーン、もし君に今大義がないのであれば、とりあえず人生を俺に預けてくれないか?俺には君の力が必要なんだ。』『もちろんよ。でも、何をすればいいの?世界平和のために。』ジェーンは不安そうに言いました。『何、簡単なことだよ。君は今まで自分の仕事に誇りを持って頑張ってきた。それさ、その力を貸してくれないだろうか。』『死刑執行人としての力?』ジェーンは、何だ、そんなことか、と肩を撫で下ろしました。世界平和のためには、もっと恐ろしいことをしなければならないのでは、と考えていたのです。『うん。そういうことなんだ。』『でも、いったい誰を死刑にするの?』『決まっているじゃないか。社会のゴミ、君が今まで死刑にしてきた類いの、パンくず人間たちだよ。あ、パンくずに失礼か。パンくずはサクサクのコロッケを作るのに役立つじゃないか。君が死刑にしてきた人間は、パンくずよりも生産性のない社会のくず、ゴミだ。ゴミはゴミ箱に。死刑に処されるべき人間は死刑に。当たり前のことさ。』『でも、死刑が宣告された人は、私じゃない死刑執行人がしっかりと仕事をするわ。』『もちろんそうさ。それがこの日本帝国の良いところさ。死刑と決めた人間は、それが冤罪だろうがなんだろうが絶対に死刑にする。なぜなら一度死刑と決まったから。では、死刑、法律の網にかからない極悪人はどうだい?まだ捕まっていない死刑囚、捕まる予兆もない死刑囚。俺たちは、かくれんぼしている死刑囚たちに正義の鉄槌を下すんだ。』『なるほど。』『そう、そんなチマチマした鉄槌で世界平和を達成出来るのかと君は思うかもしれない。しかし、会社の美化週間でも、まずは自分の机の上から片付けるだろう?小さいことだろうけど、コツコツと積み重ねるしかないんだ。』『そうね。わかるわ。あきらめていたら、何も始まらない。他愛もない死刑執行を重ねるしかないわね。』ルーは、気の触れたイグアナのように微笑みました。『よし、決まりだ。』二人は乾杯しました。輝いている今に対して。また、これからの輝かしい未来に対して。そしてルーはビールを、ジェーンは白ワインを飲み干しました。二人は幸せでした。そして数日後のことです。二人はハイエースの中で全裸で寝ていました。世界の果てのようにセックスをして、怠惰に昼前くらいまで寝ていたのです。あくびをしながら目覚めたルーは、冷蔵庫の上に置いていた飲みかけのスコッチ・ウィスキーを飲み干し、コーヒーを沸かし始めました。コーヒーが沸き上がった時、ルーは最初に誰を死刑にするか決めました。『よし、ジェーン、記念すべき一人目が決まったよ。臓器を担保に金を貸す、ショウコ・フセイン・ズケランだ。』まだジェーンは寝ていましたが、ルーはいつもの上下カーキ色の作業服を着てショウコ・フセイン・ズケランの家に向かいました。ショウコ・フセイン・ズケランはイラク系アメリカ人と日系アメリカ人のつがい三世で、今は横浜市港北区篠原町に住んでいます。再開発の進む新横浜の街を臨む高台の住宅街に彼女の家はありました。彼女はルーの言うように、臓器を担保にすることもある闇金業者ですが、決して良い暮らしをしていたわけではありません。確かに今では高級住宅街と言えなくもない街に彼女は住んでいましたが、暮らしぶりは至って普通でした。朝食からフォアグラ、ステーキ、フカヒレ・スープといった下品な食事ではなく、納豆ご飯にみそ汁、たまに焼き魚といった、質素で日本帝国の美徳を体現した美しいものでした。滅多にぜいたくな買い物もせず、五千円以上の服を買うこともほとんどありませんでした。唯一の趣味はクイズを考えてクイズ雑誌に投稿することであり、それに関してもお金はかかりません。彼女は、闇の金融業で莫大なお金を稼いでいたにも関わらず、ほとんどお金を使わないことでも有名だったのです。帝国の目に付かないように質素な生活を装っていたわけではなく、本当にお金を使わずに過ごしている闇金融業者は珍しいのではないでしょうか。そこもルーの気に食わない所だったのです。悪人は悪人らしい生活をして欲しいというのがルーの考えで、ショウコ・フセイン・ズケランの化けの皮を剥がしてやりたいというのも、彼女が記念すべき一人目の死刑囚に選ばれた理由でした。そもそも、ショウコ・フセイン・ズケランは違法な金融業なので、表だって自宅に看板などは出していません。すべての融資が紹介によって行われ、普通の人は彼女が働いていることさえ知りません。妙齢の彼女は、近所の人には、未亡人だから遺産で慎ましく生活しているのだろう、と思われていたのです。そのように、周りの人から見ても普通の未亡人であったショウコ・フセイン・ズケランが実は極悪な闇金融業者であるとルーが知っていたのは、実際にルーの友人が金を借りた後に死んだからです。ルーには、高村悠平というギャンブラーの友人がいました。彼は生まれた時からサイコロを握り締めていたと言われるくらいのギャンブラーでした。ギャンブラーと言えば聞えは良いですが、彼はほとんどギャンブルに勝つことはなかったので、彼は単なる敗者、負け犬、多重債務者、人間のくず、という類いの存在でした。彼はギャンブル依存性の人にありがちですが、アルコール依存性でもあったので、朝から酒瓶を手離さないような典型的な『くず人間』でした。女性、親族、友人問わず、様々な人間に金を借りては踏み倒していました。しかし、ルーは高村悠平のことが好きだったのです。ルーと高村が出会ったのは高校時代の時でした。ルーは決して体も大きくはなく、スポーツや勉強が出来るということもなく、性格も明るい方ではなかったので、不良グループに目を付けられてしまいました。不良グループは童貞ではないものの、頭がロボトミー・パンプキン・スープ状態のクソバカばかりでした。力の加減も出来ないクソバカばかりだったので、ある日ルーは、鶴見の化学工場の裏でその不良グループにリンチされて瀕死の状態になっていました。それでも不良グループの暴行は止まず、ルーは死を覚悟していました。そんな時、高村悠平がサイコロを持って現れたのです。『このサイコロを振って、出た数の人間を殺す。』彼はギャンブルに負けてイライラしていたのです。化学工場の裏に通りかかったのは、監視カメラもない場所なので、偶然いた人間か犬をボコボコにしようと思っていたのです。サイコロを振って、出た目は『六』でした。不良グループは五人なので、ルーを含めて全員で六人でした。『六人全員殺す!』高村悠平はそう叫びながら、不良グループ五人を一瞬で半殺しにしました。語り手の私としてはここで、その方が面白いので、半殺しではなく無慈悲に全員を惨殺して首を化学工場の炉にぶち込んだとでも言いたい所ですが、誠実な語り手として嘘を言うわけにもいきません。高村悠平は五人を半殺しにしたのです。もう少し詳しく言うのなら、一人は片目を失明、一人は半身不随、一人は複雑骨折によって右手に力が入らなくなり、一人は鼻の骨が曲がり、一人は中指が無くなりました。しかし今でもみんなちゃんと生きています。生きているということは素晴らしいことです。高村悠平という男は、たしかに体がガッチリとしており、浅黒い肌に短髪という、強そうな見た目ではありましたが、背が高くて大きいわけではなく、本来は五人を一瞬で半殺しに出来る程には強くないはずです。しかし彼の強さは、『躊躇の無さ』にありました。よく、どんなに完璧な訓練を受けた戦士だとしても実際に戦場に行くと銃の引き金を引くのは躊躇してしまうと言いますが、高村が仮に戦場に行ったらそんなことはないでしょう。彼は、殺って殺って殺りまくるはずです。彼は喧嘩をする時には、一切の躊躇をしません。金的、目潰し、噛みつき、ナイフ、スタンガン、何でもやります。しかし彼が日常的に頭のおかしい人間だったわけではありません。校則はしっかり守りますし、交通ルールはもちろん、ギャンブルのルールもしっかり守ります。彼はルールをきちんと守る良識人だったのです。彼が喧嘩に関して躊躇なく様々なことをするのは、喧嘩にルールがないからです。守るルールがないのに、どうしてルールを守れるでしょうか?ともかく、高村悠平は五人の不良たちを徹底的に半殺しにしました。おぼろげな意識の中、目の前で三分間クッキングさながらテキパキと半殺しにされていく不良たちを見て、ルーも恐怖を覚えていました。同じ高校で、普通の生活を送っていたように見えた高村悠平が、実は人をここまで徹底的に痛めつけることが出来るような人間だったのです。五人をやっつけて、目の前に歩いて来た高村に対してルーは言いました。『お、俺も殺すのか?』高村は言いました。『お前はもう死んでいるじゃねぇか。毎日こんなクズどもに殴られて。お前は今日から生きろ。』その顔は、別に優しく微笑んでいるわけでも、冷たい表情をしているわけでもありませんでした。ただ虚空を眺め、その目は何も見ていませんでした。彼はギャンブル以外のことに一切興味が無かったのです。しかしルーはその日の高村に救われたのでした。ルーは高村と友達になり、いじめは無くなりました。高村悠平はずっとギャンブラーではありましたが、決してルーに金を借りることはありませんでした。ルーが貧乏なことを知っていましたし、友達に金は借りないというのが高村の信念でした。しかし、今ルーは、自分が金を貸せていれば高村は死ぬことはなかったのでは、と悔やんでいたのです。最終的に葬式で知ったことですが、高村は胃を担保に五十万円、大腸一メートルを担保に八十万円、胆嚢を担保に六十五万円、腎臓を担保に九十万円を借りた末、脳みそを担保に百万円を借り、借金を期日までに返せずに死にました。遺体の重さは普通よりも格段に軽く、焼却費用は割引が効いたという皮肉な結果になりました。取られても最悪の場合死なない所で借金を止めて、後百万円だけ必要であれば、自分の所に来て欲しかったものだ、とルーは思いました。友情の証として、百万円であれば貸すのではなくあげることも出来たのに、と思いました。しかし時間を戻すことは時計屋さんにも神さまにも出来ません。ルーは脳みそが無くなってしおれた高村の頭をなで、崩れ落ちて泣きました。ルーは人生が辛い時はいつでも、高村悠平の言葉を思い出していたのでした。『お前は今日から生きろ。』その『今日』はルーにとっては何回も繰り返されるものでした。というのも、何か辛いことがあると今日から生きる、何か悲しいことがあると今日から生きる、何か絶望することがあると今日から生きると、ことあるごとに『今日から生きる』という慰めを使って来たのでした。しかし何回噛んでも味が無くならないガムのように、その慰めの味はずっと消えませんでした。そして彼はいつしか、その慰めの味を愛するようになりました。決して消えない味をじっくりと味わいながら、決して変わることのない昨日、今日、明日を生きていました。しかしそれはルーにとって自殺する程の理由にはなりませんでした。彼には『子供たちを育てる』と、『親にもらった体を使いきる』という大義があったからです。そうして、『生きていても仕方はないが死ぬ程の理由はなく、とりあえず生きている』という、街中にいるほとんどの人間と同じような人間が出来上がりました。しかしルーの生活は辛いながらも、かけがえのない笑顔と、行きずりの女性とのセックスと、安い缶チューハイに満ちており、ある程度は幸せなものでした。大義のために生きているというよりは、大義に生かされているとでもいうような生き方でしたが、ルーはそれなりに幸せに生きていました。そしてたまにひどく打ちひしがれた時に、『俺は今日から生きるのだ。』と、高村悠平の言葉に救われ続けていたのでした。高村の、頭がしおれた遺体を目にした時、ルーは今までどんなにその言葉に救われたことか、と気付きました。そして言いました。『バカ野郎、今日からお前は死んじゃったじゃねぇか。これから俺に生きろって、いったい誰が言ってくれるんだよ。でも俺はお前が不良たちを徹底的にやっつけた時、あの日に、自由を感じたんだ。その自由が、お前のあの時の言葉が、俺を今まで生かし続けて来たんだ。ありがとう。ありがとう。ゆっくり休んでくれ。天国ではギャンブルなんてやらないように、なんて俺は言わない。もう失うものがない無敵の人になったんだ。心ゆくまでギャンブルをやれ。内臓でも魂でも何でも賭けろ。さようなら。また、あと何十年か後に会おうな。』ルーは泣き崩れました。そしていつかルーに金を貸したと噂されていた、ショウコ・フセイン・ズケランに仕返しすることを誓ったのです。しかし小心者のルーの仕返しはせせこましいものでした。ショウコ・フセイン・ズケランの家から出てきた猫、恐らく彼女のペットであろうギリシャ猫を三枚おろしにしてポストに入れたり、真夜中に下剤を飲んで門の前でホカホカの下痢をぶちまけたり、イタズラ電話で殺害予告をしたり、ショウコ・フセイン・ズケランが殺人者であり違法な金貸しであるという噂を広めたり、といったささやかな仕返しでした。しかしルーの生活はささやかなものから成り立っていたので、そのような仕返しをすることで彼は割りと満足していました。彼は善良な帝国市民だったので、まさか仕返しに相手を殺すということさえ思い付かなかったのです。しかしつい数日前に『新しい人生』を生き始めたルーは思いました。『あの時、ショウコ・フセイン・ズケランを敵討ちで殺そうと思えなかったのは、俺の弱さだった。俺は社会に飼い慣らされ、法律に飼い慣らされ、道徳に飼い慣らされ、自分の人生にさえ飼い慣らされていた。だからこそ、今日から生きるんだ、今日から生きるんだ、という言い訳で自分をだまし続けて来た。もちろん、だまし続けて来たといってもその言葉が俺の心の支えになっていたのは間違いない。高村、本当にありがとう。しかし俺はもう二度とその言葉を言わないよ。俺は先日、絶対的に、不可逆的に、間違いなく生き始めたんだ。一度生き始めた人間がもう一度生き始めるなんて、そんな馬鹿なことはないよな。一度生き始めた人間は、一度死なない限りは、もう一度生き始めることが出来ないんだ。だが、俺は今間違いなく生きている。俺は自由だ。生まれた時に最大値で持っていた自由が、生きるにしたがって一ミクロン以下になる感覚・・・真綿で首を絞められるようなと、使い古された雑巾のような言葉でしか言い現せられない人生。俺はその感覚に危機感を抱きつつも、大義のために死なずにいた。しかし今俺は何よりも自由だ。生まれた時、最大値であった自由よりも大きな自由とさえ言えるかもしれない。俺は自由で、神のいない自由においてはすべてが許されている。許されている、って言葉さえもいらない。許す神がいないのだから、許すも許さないもない。ただ俺は自由で、俺のすべての行為は、許されるでも許されないわけでもなく、ただここにあるだけだ。』ルーは頭の中でこのようなことをグルグルと考えながら車を走らせていました。ジェーンが背後で起きていることには気づきませんでした。新横浜のビル群が遠目に見え始めた時、ルーは叫びました。『殺す!誰にも裁き得ないあいつを、俺は殺す!』それを聞いてジェーンは言いました。『朝から物騒なことを言っている人がいるわね。』『やあ、おはよう、ジェーン。』『おはよう。誰か決まったの?』『うん。』『それにしても物騒ね。殺すだなんて。』『物騒も何も、死刑執行だって物騒じゃないか。』『死刑執行は決して物騒ではないわ。なぜなら現世の罪から魂を解き放つ行為だから。死んだら仏さん、ってのが我が帝国の文化だと思うけど、死刑執行という高尚な行為によって罪と魂が切り離されるのよ。』『ふうん、そうなんだ。死刑執行の哲学。単に殺すってわけじゃないんだね。』『昇華って言葉に近いかな。汚物や罪悪まみれの、地獄のような人生から解き放ってあげるのよ。』『なるほど。たしかに人生は地獄だ。我々はみんな我利我利亡者だ。たしかに苦しみもなく現世から解き放たれる死刑執行は高尚な手続きだね。ありがとう。ショウコ・フセイン・ズケランに最高の手続きを用意しよう。あんな外道に最高の手続きを用意するのはシャクだが、仕方あるまい。高村悠平の人生を終わらせた人物の人生を終わらせる。本当は帝国憲法で決まっている、死刑を拒むものは六六六時間の拷問を受けた後に殺されるというような、拷問中の拷問、キング・オブ・ゴーモンを受けて死んで欲しいものだが、現世の罪からの昇華という高尚な理念に賛同してくれるなら仕方ないのか。今は人道の時代だからな。死刑囚にも人権。犬にもミミズにも人権。おけらにも人権。みんなみんな生きているんだ。友達なんだ。』ここでルーはふと死刑執行に関して、正式な手続きを踏まない超法規的な死刑執行がうまくいくのだろうか?と思いジェーンに聞きました。『そういえば、俺たちはこれからショウコ・フセイン・ズケランの家に行き、彼女を車に連れ出して死刑を執行するわけだが、そもそもうまくいくのだろうか?』『うまくいくかどうかって?』『いや、ものすごく抵抗されたりしたら、周りも気づいて騒ぎになったりして、うまくいかないのでは、と。』『意外と冷静なのね。心配しなくても、この帝国の死刑執行は、前もって通知されずに、死刑執行車が家の前に着いた時に通知され、通知されたらすぐに車の中に連れて行かれて執行される。一般常識がある人ならそういうものだと知っているはずだから、私たちの執行が正式な帝国命令なのか、超法規的な措置なのかわからないので、まず間違いなく従順に従うわ。これも一般常識がある人なら知っているけど、六六六時間の拷問を受けて死ぬのか、今すぐ痛みも苦しみもなく死ぬのか、どっちが賢明かわかるはずだしね。』『そうか、そうか、良かった。心配し過ぎだったんだね。いきなり捕まるなんて間抜けなことしたくないならね。自由への道は始まったばかりだ。よし、行こう。』ルーとジェーンは新横浜の街を避けるように脇道に逸れ、小高い丘の上に広がる住宅街へと向かいました。窒息した深海魚のように静かな街で、ひたすら家が並んでいます。たまに会社の看板をかけている家もありますが、基本的にベッドタウンなので、手斧とか消臭剤とか、殺人に使えそうなちょっとした買い物を出来る店などはありません。このような中にショウコ・フセイン・ズケランの家はあります。ちょっと殺人に使おうかな、と思って鉈やアイスピックを買うことも出来ない不便な場所に家があって、彼女はいったいどうやって仕事をしているんだろう?とルーは思っていましたが、もちろん彼女は家の中で殺人をしているわけでも、解体をしているわけでもありません。一次下請け、二次下請け、三次下請け、という風に世の中の仕事が流れていくように、あくまで彼女は査定をして金を貸す仕事をしており、債権回収までは業務の範囲内ですが、実際の担保処分などは外注先に業務委託していたのです。ショウコ・フセイン・ズケランの家は決して大きいわけではない、三階建ての建売住宅でした。車庫が一階部分のほとんどを占めている、壁も白、屋根は紺色の特徴がない家でした。ただ、車だけは少しだけこだわっているようで、ミニクーパーのようなレトロな車が止まっていました。『着いた。さあ、ジェーン、インターフォンを押すよ。準備は良いかい?』『ちょっと、一瞬待って。』ジェーンは冷蔵庫の中をチェックし、バーコードや化学記号のようなものが印字された薬剤のキューブを取り出し、注射器にセットしました。そして鏡で自分の顔を見て、仕事モードに切り替わっていることを確認しました。『よし、良いよ。』そう言いながらジェーンは車を降りました。死刑執行の宣告はインターフォン越しに行われ、すべての日本帝国市民は仮に排便中、もしくはセックス中であってもすぐに出てきて執行に応じなければなりません。だからこそインターフォンは、葬式で鳴らされる最後の鐘のように美しく、霊柩車が火葬場に向かう時の最後のクラクションのように悲痛に響きます。裁きはなされました。インターフォンが鳴り響きました。ルーにはやはり小心者の部分があり、あれだけ憎んでいたショウコ・フセイン・ズケランに対しても、一回目目くらい留守で出直すことになっても良いのではないか、と考えました。しかしショウコ・フセイン・ズケランは出て来ました。『はい、ズケランです。』『ショウコ・フセイン・ズケラン、二〇二九年五月一八日、日本帝国市民執行法第四二七三一条八八九項〇〇一号の規定により死刑を執行します。』ジェーンはいつものように言いました。業務に関することは話しても良いので、一般人に話しかけるのはこのようなことばかりでした。『あら、まあ。了解しました。』ショウコ・フセイン・ズケランは、生協から野菜が届いたかのような反応でした。それを見てルーは少し安心して思いました。『こいつは人をたくさん死に追いやって来たから、やはり死ぬべき人間で、自分自身もそれをわかっていたんだな。やはりこいつは俺が選んだ死刑執行の一人目にふさわしい人物だ。良かった良かった。』服はクリーム色のシャツに茶色のチノパン、少しだけウェーブのかかった白髪交じりの黒髪を後ろでくくっているショウコは、端から見ると完全に少し疲れている六十代の未亡人でした。まさか近所の人は彼女が闇金業者とは思わないですし、臓器担保の摘出、運送、輸出などを外注先に委託しているとは思っていません。ここで問題なのは、死刑執行というものは、ルーが心配していたように、騒がれて近所の人に知られてはいけないのです。だいたいの死刑囚がするように、ショウコも大人しく刑の執行を受け入れているようでした。死刑の執行を拒んだ先に待っている地獄を考えれば、死刑執行など、半分が優しさで出来ている錠剤よりも優しいのです。死刑執行の全部が、優しさで出来ているのですから。唯一優しくないところと言えば、時間を与えてくれないことでしょうか。死刑囚はインターフォンが鳴った十秒以内には車に乗らなければなりません。親族や恋人、友人などに別れを惜しむ電話をすることも出来ませんし、死ぬ前に化粧をすることも、小綺麗な格好に着替えることも出来ません。まさに着の身着のまま、すぐに車に乗らなければならないのです。そして死刑執行は『路上』で行われます。それは周辺の環境にもよりますが、コイン・パーキングや公園、神社の境内、そして車で移動中に行われることもあります。そして死刑囚の家がこのような住宅街で、止まっていられる場所も少ない場合はだいたい移動中に執行がされます。ショウコ・フセイン・ズケランが後部座席に乗り込んで来た後、ジェーンが言いました。『車を出してください。』『どこに?』『どこでも。』そして車は走り始めました。ここで初めてルーはショウコ・フセイン・ズケランの家が自分の家の三軒隣であることを思い出しました。しかしその事実がルーをセンチメンタルにすることはありませんでした。初めての超法規的な死刑執行に、心を躍らせていたのでした。車が幹線道路に向けて住宅街の網目のような道路を抜け始めた時、早くも死刑執行が開始されました。『ショウコ・フセイン・ズケラン、これから死刑執行を行います。』『はあ。』まるで他人事のような返事でした。『では、こちらのベッドに寝てください。もしも、恐怖心を感じて動いてしまうようでしたら、拘束具を付けることも出来ます。いかがなさいますか?』『はあ。』『どちらでしょうか?』『付けなくても大丈夫です。』『了解致しました。では、こちらのベッドにお願い致します。』ルーにとっては背後で行われているのは見慣れた風景ではありましたが、やはりいつものように不思議に思っていました。『いくら死刑を拒んだ後にあまりにもひどい仕打ちが待っているとは言え、たしかに損得勘定で考えれば、すんなりと死刑を受け入れた方が良いのはわかるが、人間は死ぬ前にここまで冷静でいられるのだろうか?それも、ほんの数分前にはまさか自分が死ぬとは一ミリも思っていなかったにも関わらず。』そして、ショウコ・フセイン・ズケランが何の抵抗もせずに注射を射たれようとした瞬間、ルーは焦るように言いました。『あの、ちょっと良いですか?』ジェーンは答えません。死刑執行人は業務に関すること以外は話さないという一般常識をショウコは恐らく知っているので、答えないようにしていたのです。もう車に乗っているので何とでもなったはずですが、不審に思われて暴れられでもしたら面倒だと思ったのです。『ちょっと良いですか?』ルーは繰り返しましたが、ジェーンは答えません。『私に話しかけているのでしょうか?』ショウコ・フセイン・ズケランが言いました。『はい。』『何でしょう?と言ってももう、あまり時間はありませんが。』『高村悠平という男を覚えているでしょうか?あなたがお金を貸した人です。』ショウコは少し考えました。『ええ、覚えていると思いますよ。さすがに脳みそを担保にする人は多いわけではなく、一年に一人、二人くらいですから。』『三年程前ですかね。胃、大腸、胆嚢、腎臓、脳みその順番で担保に入れて金を借り、最後には死んだギャンブル狂の男です。中肉中背ですが、かなり強い、浅黒い肌に短髪の男、目は優しい男です。』『私のお客さまはだいたいギャンブル、酒、クスリ、女に溺れていましたが、その人はわかると思います。』『良かった。』『良かった?』『いや、聞きたかったのです。あなたはどのような心持ちで、あのような残酷なことをしていたのか。』『残酷?』ショウコはいったい何のことかわからないという風に答えました。『残酷でしょうよ、臓器を担保にだなんて。』『言っておきますが、運転手さん、私は生まれてから今まで残酷であったことは一回たりともありません。唯一あるとすれば、私がまだ若い頃、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に通っていた四年間くらい、ずっと私に恋をしていてくれたコリン・マッギンを結局振ってしまったことくらいでしょうか。それくらいなものです。』ショウコは、残酷とはいったい何のことかわからないという風に言いました。『若い頃の四年も想われ続けていたのに振るとは、それはたしかに残酷だ。ある意味では脳みそを取られることと同じくらいに。しかしそれは良いとしよう。人の恋路にあれこれ言うのはナンセンスだからだ。もしかしたらコリン・マッギンはそれで幸せだったかもしれないからな。この世界には七十億種類の恋があり、七十億種類の金銭感覚があり、七十億種類の哲学がある。それにしても、あなたは臓器を担保に金を貸し、返せない人に対して担保を処分して殺してきた。それが残酷でないなんて、どうして言える?』ルーは怒りを抑えるように言いました。しかし、ショウコはこのクソバカはいったい何を言っているんだ?とでも言うような表情で答えました。『いったい何を言っているんですか?私は、債務者の方からの申し出に従って臓器を担保にしていただけですよ?残酷も何も、私は自分の仕事をしていただけです。』『えっ?申し出とはどういうことです?』『言った通り、お客さまからの要望で始めたことです。私の側から、もう貸せないから臓器を担保に入れろ、なんてことを言ったことは一回たりともありません。これは、顧客満足を考えて仕方なく始めたことなんです。私も帝国銀行に勤めていたことがある金融マンの端くれなんですよ。私がやっていた商売はたしかに闇金融ですが、私は質屋じゃありません。担保がなくても貸しますし、時には担保の金額を超える与信判断をします。担保処分をしても、回収し切れない損失が発生することもあるのです。属性の悪いお客さまには、そりゃあリスクがあるので金利も高くなります。もしかしたら運転手さんは、闇金融業者はとにかく高利で貸して、返せなきゃ内臓でも売り飛ばせば良いと思っていると考えているかもしれませんが、そんなことはありません。これもれっきとした仕事で、そんな適当なことをしているとすぐに潰れてしまいます。私は、誠実にお客さまに向き合い、誠実に自分の仕事をしていただけなのです。あなたが、誠実に死刑執行車の運転手をやっているようにね。それをあなたは残酷だと言うのですか?』ショウコ・フセイン・ズケランは誠実に言いました。ルーは、すでに言いくるめられそうになっていました。『でも、何というか、たしかに相手からの申し出だとしても、そんなものを担保には入れられないと断るのが誠実な人間ではないのですか?』『いや、それは誠実ではないですね。というのも、この世に担保に入れられないものなどないからです。たとえ神だとしてもね。人間が貨幣経済というものを生み出したがゆえに、すべてのものに値段がついてしまうのです。』『でも、でもウンコにはさすがに値段はつかないじゃないか。』ショウコは、このクソバカはいったい何を言っているんだ?とでも言うような顔をして言いました。『このクソバカはいったい何を言っていらっしゃるのかしら。すべてのものってのは比喩に決まっているでしょうが。』その後、ルーは少しの間黙ってしまいました。そして考えました。『たしかに高村悠平が自分から臓器を担保にしたいと言ったのかもしれないが、ショウコは止めるべきであった。しかしショウコの言い分も職業人としてわかる。果たして今、このショウコを超法規的に死刑執行するべきなのだろうか?』車はすでに幹線道路に出て、行く宛もなく走っていました。『さあ、話が終わったのなら、執行をして頂こうかしら。』ショウコは言いました。『ちょっと待った、最後に、二つだけ質問させてくれ。』『あなたはいったい何なの?偶然、高村という人の友人なのかもしれませんが、少し話し過ぎではありませんか?死刑執行人さん、このようなことが許されるのでしょうか?』ジェーンは何も答えません。死刑執行の準備は既に出来ていました。『ちょっと、最後に聞きたいんだ。あなたはなぜ死刑判決を受けたんだと思いますか?』『なぜって、判決を受けたから死刑なのでしょう。』『そんな禅問答みたいなことを聞いているんじゃないんだ。あなたはさっきの話だと、自分は悪いことをしていると思っていないようだ。なら、死刑になるのはおかしいじゃないか。本当は、自分が血も涙もない極悪人だと思っているんじゃないか?』『死刑執行人さん、こいつも死刑にしてしまいましょう。帝国が決定したことに一ミリでも異議を唱える人間を生かしてはおけません。』しかしジェーンは答えません。『あなたは、自分が悪くないと思っているけど、帝国の決定だから死刑に従うって言うのか?』『あなたはいったい何を言っているの?死刑が決まったということは、理由はどうあれ死刑ということなのよ。私は日本帝国市民なのよ?帝国の決定に従うのは当たり前だという、子供でもわかることがなぜあなたにはわからないの?ああ、バカらしい。死刑執行人さん、早くやってください。』『ちょ、ちょっと待った!最後にもう一つだけ質問させてくれ!』『何よ。』『高村悠平の脳みそはどこに行ったんだ?』しかしその答えは返って来ませんでした。ショウコ・フセイン・ズケランがルーに対して少し怒りながら質問に答えていた時、すでにジェーンは彼女に注射を打っていたのです。明文化はされていないのですが、車に死刑囚が乗り込んでから十分以内には刑を執行するのが通例です。もちろん超法規的な執行なので絶対に守らなければならないわけではなかったのですが、ジェーンの体には死刑執行の流れが染み付いていたのです。高性能の執行用注射はとても慈悲に満ちていて、打たれた人間は自分がいつ死んだかわからない程に、突然に人生が終わります。動いていたパソコンのコンセントを急に抜くようなものです。ほんの数分前にはベッドの上にあった命は、忽然と消えてしまいました。当然目を開いたままショウコは死んでいます。死刑執行人は死刑執行以外のことを本来しませんが、慣例上、死刑囚の目を閉じることは行われています。目の開いた死体というものは、扉の開いた便所みたいに気持ちの良いものではありせんからね。ルーが、言葉が返って来ないことを不審に思いフロント・ミラーを目を凝らして見てみると、ジェーンがちょうどショウコ・フセイン・ズケランの目を閉じている所でした。それでルーはすべてを理解しました。『死んだ?』『うん。』『なんと・・・。』『なんと・・・とは何よ。この人に死んで欲しくなかったの?』『いや、決して、そんなことはない。客からの要望とは言え、やはり臓器を担保にするのはおかしいし、非人道的だ。嘱託殺人というのがあるだろう?頼まれたからって殺してはいけないように、頼まれたからって脳みそを担保に入れてはいけない。それは間違いないんだ。』『じゃあ、どうしたって言うのよ。』『ショウコが本当に自分が悪くないと思っているのに、死刑を仕方ないものだと受け入れているのが、あまりにも不思議だったんだ。』『死刑判決というものに対して、ものすごく不信感を持っているのね。たしかに私も、なぜこの人が?っていう人が死刑になってきたのを見てきたわ。でも、不思議とほとんどの人が死刑を受け入れていた。なぜだと思う?』『わからないよ。』ルーはハンドルを握りながら、左右に流れていく昼下がりの街をぼんやりと眺めて答えました。ジェーンは無表情で言いました。『厳密に言えば、死刑に値しない人間なんかこの世にいないからよ。』『そうか・・・そうかなぁ。』ルーは自分の子供たちのことを思い出しながらぼやきました。ジェーンは続けました。『生きていること自体が罪だからね。仮に急に死刑判決が来たとしても、交通事故とか病気と変わらないんでしょう。痛みがない分、それよりもっとマシかもしれない。』『なるほど。』『それより、どうしたの?』『どうしたの、とは?』『ルー、何か気弱になっているじゃない。まるで、ショウコが死刑に値しなかったんじゃないか、って思ってたりしないよね。』『そんなことはない。そんなことはないよ。あいつが俺の唯一の友だちをはじめ、多くの人を死に追いやって来たのは事実だ。ショウコ・フセイン・ズケランは間違いなく死に値する。』『なら、自信を持ってよ。執行人の私の立場がないじゃない。』『そう・・・そうだな。ごめん。俺は頭が良くないから、色んな物事が重なると、感情とか思考とかがお互いにちょっかいを出しあって、何だかよくわからなくなるんだ。俺は正しいことをした。俺は世界平和が大好きなんだ!』ルーはそう叫び、車のアクセルを強く踏みました。目の前は赤信号でしたが、人に死刑を執行したルーにとっては、赤信号は永遠に青信号のようなものでした。誰も彼らを止めることは出来ないのです。周りの車は地震が起きたかのように動揺し、『自分とは違う人間』の凶行に巻き込まれなかったことを安堵しました。『ところで、どこに向かっているの?』ジェーンは言いました。『どこでもない場所さ。って、ちょっとカッコ良すぎるか!』ルーは気の触れたイグアナのように笑いました。車はいくつかの赤信号を通り抜けて進みました。『ノリノリの所悪いんだけど、ちょっと現実的な問題で、このショウコの死体、どうしよう?普通であればすぐに帝国葬場に向かって火葬して、帝国墓地に行って終わりなんだけど。』ルーは少し考えました。『俺たちにはバーベキュー・ピープルとゾロアスター風のボス・ベイビーがいるじゃないか。これも何かの縁だ。俺は縁を大切にする人間。彼らに頼んでみよう。』『彼らに?焼いてもらうの?』『うん。こんがりと焼いてもらおう。』『でも、焼いた後のものはどうするの?』『焼いた後のものとは?』『いや、燃え殻というのが正しいかどうかはわからないけど。』『なんだ。あの、ゾロアスター風の強い火を思い出してみろよ!骨さえ残るまいよ。』『そうかなぁ。』ジェーンは不安そうに言いました。『まあ、案ずるより燃やすが易し。もし燃え残ったら、その時にまた考えれば良いさ。』『そうね。でも、バーベキュー・ピープルとゾロアスター風のボス・ベイビー、たぶん夜しかいないわよ。』『それはもちろんわかっているよ。あいつらは夜をさまよう人たちだ。俺たちと同じようにね。だから、これは偶然なんだけど、俺たちは今新横浜の街を通り抜けて三ツ沢のあたりにいる。横浜に向かっているんだ。夜が来るまで車はパーキングにでも置いといてデートでもしよう。』死体をパーキングに置いてデートとは、普通の感覚であれば車上荒らしに盗まれないかと不安になるものですが、彼らは既にまともな思考が出来なくなっていました。『いいね。まともなデートなんていつぶりかしら。』そして車は横浜のみなとみらいに向かいました。そして、まともな思考ではない二人は何よりもまともなデートをしました。山下公園のベンチで海を見ながらキスをし、赤レンガ倉庫でクラフト・ビールを飲み、コスモ・ワールドで観覧車、ジェット・コースターや回転木馬に乗り、最後にはハード・ロック・カフェでルーはバーベキュー・リブとビール、ジェーンはアルティメット・ロングアイランド・アイスティーを楽しみました。山下町のコイン・パーキングに停めていた車の中では、静かにショウコ・フセイン・ズケランが眠っていました。一日中歩いて何駅か先のみなとみらいの方面まで来ていたので、二人は電車で山下町まで戻ることにしました。二人はみなとみらい駅に入り、地下へと降りるエスカレーターに乗りました。エスカレーターは何かのアトラクションのように長くて眺望が良いものの、上で一人が気を失ってひっくり返れば下の方で十人は軽く圧死するだろうと思われるものでした。虫も殺せないくらいか弱いジェーンをエスコートするために、ルーは自分が先に乗り込み、彼女と向かい合う形になりました。そして二人は、壁に詩が刻まれているのを見ました。『樹木は育成することのない無数の芽を生み、根をはり、枝や葉を拡げて個体と種の保存にはあまりあるほどの養分を吸収する。樹木は、この溢れんばかりの過剰を使うことも、享受することもなく自然に還すが動物はこの溢れる養分を、自由で嬉々としたみずからの運動に使用する。このように自然は、その初源からの生命の無限の展開にむけての秩序を奏でている。物質としての束縛を少しずつ断ちきり、やがて自らの姿を自由に変えていくのである。フリードリヒ・フォン・シラー』ジェーンが読み上げました。ルーはそれを聞いて少し考えていました。『これは、植物は自分たちで循環しているだけだが、動物や俺たち人間はそのエネルギーを使って自由になって良いってこと?』『詩なんてものは、人それぞれの解釈で良いのよ。私たちの物語を人がどう感じてくれても良いようにね。』『そうだ。そうだね。俺たちの物語・・・そいつは良い。俺たちの物語に口出しをするやつらはいつでもこの詩にある樹木だな。俺たちは人間だ。俺たちは自由なんだ。』陽は既に落ちており、世界は闇に包まれていました。彼らは電車を降りるとコイン・パーキングに戻り、車に乗り込みました。死体が車上荒らしに盗まれていないことを確認すると、ルーは安心したかのように言いました。『盗まれていないな。』『何が?』『いや、ショウコ・フセイン・ズケランだったものだよ。』ジェーンはそれを聞いて呆れたように言いました。『誰が死体なんて盗むのよ。』『もちろんそうだ。しかし死体というものは高値で売れるんだよ。』『そうなの?』『うん。たとえば、身代わり死体として、が一般的かな。世の中には、自分が死んだことにしてどこかでひっそり生きたい人もいるんだ。姿形が似てれば、後は顔だけ整形しちゃえば自分の死体が完成ってわけ。』『他には?』『次はやはりネクロフィリアかな。世の中には、死体といやらしいことをしたいという、死ぬべきやつがいるんだ。』『次は?』『次は、カニバリストかな。世の中には、死体を食べたいっていう、これまた死ぬべきやつがいるんだ。』『次は?』『次は、学術的なやつかな。闇医者学校では、正式な手続きで献体を得られないから、死体を買うしかないんだ。学術的だが、こいつらはこいつらで死ぬべきだな。』『次は?』『後はもう、単純な死体収集家かな。仮面ライダーのフィギュアを集めるように死体を集める、これまた死ぬべきやつがいるんだ。』『後は?』『後は、もうほとんどないけど、燃料不足の国に燃料として輸出されるくらいかな。北極にユーク共和国って国が最近出来たんだけど、そこには焼くものがないから死体を焼いて火を沸かしたり、夜の灯りにしたりしているんだ。ゾロアスター風のボス・ベイビーみたいだな。人体ってのはほどよく脂がのってて、よく燃えるんだ。』ルーはそう言って笑いました。そして二人は鶴見川にかかる鷹野大橋に向かいました。ルーは車内のステレオでローリング・ストーンズのベスト盤をかけ、ブラウン・シュガーが流れました。みなとみらいや横浜を通り抜けるまでは道路が混んでいてゆっくりとしか進めなかったので、ルーはローリング・ストーンズのビートに乗せてハンドルをひたすら叩いていました。前輪は左右に踊り、車は狂乱のダンス・パーティーの最中にいました。しばらくして第二京浜道路に出ると、徐々に車が流れ始め、ルーはアクセルをキリストの踏み絵のように踏みました。彼は自分が涜神的であることを誇りに思っていたのです。夜の九時半頃にルーとジェーンは鷹野大橋の下に着きました。そこにはすでにゾロアスター風のボス・ベイビーとバーベキュー・ピープルがいました。バーベキュー・ピープルである鈴木一郎と鈴木二郎と鈴木一子と鈴木二子はボス・ベイビーの指示で鈴木三子を焼き殺している所でした。鈴木三子はつがいになれなかったのです。生産性の無い人間はすぐに死ななければなりません。なぜなら生産性が無いからです。鈴木三子が灰になるのを待ってから、ルーはボス・ベイビーに話しかけました。『あのう、私はルーと申します。あなたのお名前は?』ゾロアスター風のボス・ベイビーから言葉は返ってきません。まだ赤ん坊なので当たり前のことでした。『いや、不躾な質問でありました。申し訳ございません。橋の下にあらせられる御仁にお名前などあるはずがありませぬ。』ルーは時代劇風の言葉遣いで続けました。『ゾロアスター風のボス・ベイビー殿、貴殿をゾロアスター風のボス・ベイビー殿と呼んでも構わぬでしょうか?』それを聞いてボス・ベイビーは、けたけたけた、と笑いました。それをルーは肯定だと捉えました。『ありがとうございます。ゾロアスター風のボス・ベイビー。ところで、今回伺ったのは、こちらのゾロアスター風のバーベキューで死体を焼いて頂きたいのです。』ボス・ベイビーはひひひひひひひひひ、と笑いました。それをルーは肯定だと捉えました。『ありがとうございます。ゾロアスター風のボス・ベイビー。この死体だけではなく、これからいくつか出てくる予定なので、どうぞよろしくお願いいたします。』そして死体を車から降ろそうとした時、そばに立ち尽くしていたバーベキュー・ピープルの内、鈴木一郎が言いました。『ルーさま、少しお待ちください。』『何でしょう?』『あなたさまは、ボスと契約を交わす必要があります。』『契約?死体を焼くだけで、そんな大層なものを。』『この世の中はほとんど契約というもので成り立っています。殺人の請負契約書や不動産の賃貸借契約など一般的なものを始めとして、婚姻関係や愛人契約もそうです。』『たしかにそうだ。では、どのような契約書を作れば良い?』『ひな型はこちらにあります。』鈴木一郎が出して来た契約書はゾロアスター風の文字が書かれており、一文字も読めるものではありませんでした。『これは、いったいどのような内容ですかな?』『内容は、我々にもわかりかねます。なぜなら、ゾロアスター風の文字で書かれているので読めないからです。』『あなたたちも、バーベキュー・ピープルもボス・ベイビーと契約しているのですか?』『もちろん。同じような契約書も交わしています。』『その内容も、よくわかっていないのですか?』『内容がわからないまま契約することに恐怖を覚えているようですが、何か騙されたことでもあるのですか?』『ちなみに、クーリングオフはあるのですか?』『もちろん、クーリングオフがない契約などありません。』それを聞いてルーは安心しました。一週間以内に何か問題があれば契約を無効にすれば良いだけなのですから。『では、契約をしましょう。』『了解しました。二枚契約書がありますので、一枚はこちら、もう一枚はルーさまが持ち帰ることとなります。』そしてルーは契約書に自分の名前を書きました。連帯保証人を求められたので、ジェーンも名前を書くことになりました。『印鑑は持っていないけど?』『印鑑は要りません。名前の横によだれを垂らして下さい。ボス・ベイビーもよだれを垂らします。』『なるほど、ボスとは言え赤ちゃんだからな。実印登録もしていないだろうし、よだれが印鑑の替わりなんだ。DNA鑑定が出来ることを考えると実印なんかよりもよっぽど重みがある。』そしてルーとジェーンとボス・ベイビーは契約書によだれを垂らし、契約が成立しました。ジェーンがよだれを垂らしているのを見てルーは興奮し、死体を焼き終わったらジェーンとセックスがしたいと思いました。『では、これにて契約成立ということで、こちらの死体を焼いて頂けるでしょうか。』『了解しました。どうぞ。』そしてようやくルーは死刑執行車から『ショウコ・フセイン・ズケランだったもの』を担いで降ろしました。ルーにはそれを火の中に投げ入れる程の腕の力は無かったので、ジェーンに協力してもらい、何とか入れることが出来ました。鈴木三郎、鈴木三子に続き、人間が焼かれるのを見るのはルーとジェーンにとって三回目でしたが、死体は暴れたり呻いたりしないので、可愛いものだと思えました。『当たり前だけど大人しく焼かれていて、可愛いもんだ。』ルーは言いました。『私以外の女性を可愛いだなんて。』ジェーンは冗談っぽく答えました。二人は燃え盛るゾロアスター風の火を前に、幸せそうに笑いました。まるで、初恋の二人が初めての旅行に行き、星降る静かな夜にバーベキューを楽しんでいるかのように。翌日から二人は入念に死刑の執行計画を立て始めました。死刑囚リストを作り、執行場所を特定し、最終的に鷹野大橋に帰って来るまでのガソリンを給油するスポットを前もって把握するなどの計画です。ショウコ・フセイン・ズケランの死刑執行から四日後、ルーとジェーンは、三人の幼女を性的暴行の上殺した橋爪昌己に死刑を執行しました。家に行き、車に乗せ、橋爪の家は駐車場が広かったのでその場で死刑を執行し、鷹野大橋の下のゾロアスター風のボス・ベイビーに死体を焼いてもらうという流れでした。そのまた四日後、三人の尼僧を性的暴行の上殺した中邑秀哉に死刑を執行しました。道端で声をかけて車に乗せ、ショウコと同じく移動中に死刑を執行し、鷹野大橋の下のゾロアスター風のボス・ベイビーに焼いてもらうという流れでした。次は三日後、三人の老人の飲み物にタリウムを混ぜて殺した松前七海子に死刑を執行しました。彼女はなかなか捕まらなかったので、職場からの帰りで彼女が呼んだタクシーよりも先回りして彼女を乗せ、移動中に死刑を執行し、鷹野大橋の下のゾロアスター風のボス・ベイビーに焼いてもらうという流れでした。『あれ?私はタクシーを呼んだはずなのですが、これは何でしょう?ベッドが付いてて、綺麗なお嬢さんが乗っている。今流行りの風俗タクシーというやつでしょうか?あいにく私はヘテロ・セクシャルで女性に興味はありませんよ。』『松前七海子、二〇二九年五月二五日、日本帝国市民執行法第四二七三一条八八九項〇〇一号の規定により死刑を執行します。』『えっ?』『では、こちらに寝て下さい。恐怖心を感じて動いてしまうようでしたら、拘束具を付けることも出来ます。いかがなさいますか?』このようにして、少しの違いはあれ、ほとんどの死刑執行、及びゾロアスター風の火葬が行われました。一連の流れが出来上がれば、後はただひたすら仕事をこなすだけとなりました。死刑囚を選び、死刑囚を車に乗せ、死刑を執行し、ゾロアスター風に火葬し、セックスをして寝る。翌日もまた死刑囚を選び、死刑囚を車に乗せ、死刑を執行し、ゾロアスター風に火葬し、セックスをして寝る。その繰り返しでした。しかしその日々はルーとジェーンにとって第二の青春とも言える日々でした。まるで、スポーツと恋愛にのめり込む高校生のように二人は死刑執行を続けました。子供を二人食べた樫村誠を死刑にしました。配偶者と不倫相手の首をクール宅急便で妹に送った田巻流星を死刑にしました。老人から金を奪って殺し、その金で風俗に行った濱村大紀を死刑にしました。若い女性を命乞いしたにも関わらず強姦して殺した若林恵介を死刑にしました。男子高校生二人を暴行して川に投げ込み殺した神村泰治を死刑にしました。恋人と愛犬を殺し、首を切って入れ替えた楠木一毅を死刑にしました。男の財産をすべて奪い、最終的に毒殺した河西留美を死刑にしました。雑居ビルの屋上から知人を落として殺した長嶺慶一郎を死刑にしました。訪問販売の営業マンをアイスピックで百回刺して殺した野村藍子を死刑にしました。神主の首を賽銭箱に隠した安田俊一郎を死刑にしました。花屋の女性店員の口にタオルを詰め込んで殺した香西斗真を死刑にしました。包丁の切れ味が悪くて殺人が未遂に終わったと激昂して、購入先の金物屋の店員を絞殺した田宮紀之を死刑にしました。トラックで母親を轢き殺した石井茉優を死刑にしました。生コンに部下をぶち込んで殺した浅尾正典を死刑にしました。赤ん坊を風呂に沈めて殺した笠井修介を死刑にしました。覚せい剤を打って愛人を殺した長谷倫太郎を死刑にしました。鈍器のようなもので中年サラリーマンの脳天を割った牧原佳菜子を死刑にしました。バイクのブレーキの線をひそかに切り、恋人を事故死させた田邉沙理を死刑にしました。友人を拳で殴り殺した井上皇成を死刑にしました。自殺に見せかけて息子を縄で吊って殺した金村睦雄を死刑にしました。業務用冷凍庫に甥っ子を閉じ込めて殺した森川淳治を死刑にしました。銃で同僚を殺した渡辺枝里子を死刑にしました。手斧で頭をかち割って知人を殺した舛永雄大を死刑にしました。セックス・フレンドの性器を切り取り失血死させた柄沢未来を死刑にしました。教え子を洗脳して電車に飛び込ませた氷川龍弥を死刑にしました。ホームレス男性を蹴り殺した高槻大輔を死刑にしました。飼い犬のシベリアン・ハスキーに隣人を咬ませて殺した赤木さくらを死刑にしました。そして、死刑にしたすべての人間を鷹野大橋の下のゾロアスター風のボス・ベイビーにゾロアスター風の炎で焼いてもらいました。ルーとジェーンは死体を焼き終わった後、毎日場所を変えてコイン・パーキングに車を置き、セックスをして夜を明かしました。時には真夜中にシャンパンを飲み、人生に対して乾杯をしました。彼らは幸せであり、人生の第二の青春を謳歌していました。そのような日々が始まってあっという間に一年近くが経ちました。青春というものはいつでも、すぐに過ぎ去ってしまうものです。そして、ハロー・キティのアップリケを付けるために十本の釘を老婆の額に打ち込んだ門脇正信を死刑にし、ゾロアスター風の炎で焼いていた夜のことでした。季節は一年周り、初めてゾロアスター風の炎を見た時と同じように涼しくて過ごしやすい夜でした。ルーが燃え盛る火を見ながら言いました。『俺たちは少しずつ世界平和に近づいている。』『たしかにそうね。』『会社の美化週間でもまずは自分の机の上から綺麗にするように、俺たちは身の回りから世の中を綺麗にしている。そもそも、身の回りにこんなに殺人者がたくさんいるということが驚きなんだが。この一年間で知ったのは、振り返ればそこに殺人者がいるということだな。カフェの店員も、銀行の窓口職員も、昔の知り合いも、犬を散歩させている上品な有閑マダムも殺人者だ。この世界では今も誰かが誰かを殺しており、誰かが誰かに殺されている。そして俺たちは誰かを殺した奴を殺している。誰かを殺した奴はまた誰かを殺す可能性が高い。なぜなら、殺人に対する心理的ハードルが下がっているからだ。だいたいの人間は、人なんか殺してしまったら罪悪感や悪夢に苦しむのではないかと思うかもしれないが、実際はそんなことはないんだな。中にはそんな風になって苦しむ奴もいるかもしれないが、そんなのはほんの一部だ。人を殺した翌日にはもう焼き肉が食えるし、赤ワインを飲んでハイエナのように笑うことが出来る。銀座の街でウインドー・ショッピングも出来るし、セックスも出来るし、詩を書くことも出来る。ほとんどの殺人者は、何だ、殺人ってこんなものか、日常は続いていく、殺した人のためにも今日という日を大切に生きよう、なんぞと思っているんだ。それはまず間違いない。だてに死刑執行車の運転手を長いことやってないんだ。俺には死刑囚の平穏な日常を嫌と言う程見てきた。あいつらは人を殺した翌日からもう、いつもと変わらない日常なんだ。そんな奴らはまた何かあれば簡単に人を殺す。人を殺した後にも関わらず、その翌日から訪れる心の平穏に驚きつつも、殺人なんぞそれくらいのものだということを理解してしまっているからだ。だから、そんな歩く殺人者を、近所にいる殺人者を俺たちはゴキブリを潰すようにちまちまと殺している。ゴキブリのように、巷に一人殺人者がいたら影に百人は殺人者が隠れている。キリはないかもしれないが、俺たちは美化活動を続ける。そうすることで少しずつではあるが世界平和に近づいている。』ルーは自信満々に言いました。『そうね。私も大掃除は身の回りから始めるわ。』『でも、最近少し思うんだ。』『何を?』『もっと大物を仕留めたいものだなぁ、と。』『大物?』『うん。一人や三人くらい殺す奴はある意味正常な人間だからね。実際に殺しはしないが、世の中に殺したい奴の一人や二人いない人の方が珍しい。』『それもそうね。』『だから、そろそろ仕留めたいのは、頭がおかしい、十人くらい殺している奴だ。そいつは、今後も十人、二十人と人を殺すに違いない。そいつを始末すればさらに世界平和に貢献出来る。そう思わないか?』『もちろんそうね。』『そうなんだよなぁ・・・。』そしてルーが次に選んだのは、座間市を中心に活動しているシリアル・キラー、首吊り士として有名だった柳翔平でした。彼は自殺志願者をインターネットを介して集め、自宅で殺していると噂されていました。すでに十人以上の人間が殺されているとのことで、逮捕される寸前でした。帝国警察が彼の逮捕状発行までに時間がかかったのは、証拠があまりにも見つからない上に、インスタグラムで若者のヒーローのように振る舞っていたのです。自殺インフルエンサーとでも言いましょうか。自殺を賛美したショウペンハウエルのように、彼はメディアを通して自殺の素晴らしさを喧伝していました。必然的に、自殺志願者を殺しているという噂の彼の元には自殺志願者が集まってきます。しかも、彼は二十代前半の端正な顔立ちをした男でした。服装もカラフルな野菜を詰め込んだようなオシャレな格好であり、若い女性に人気でした。髪の毛はピンク色、化粧もしているのか頬もほんのりとしたピンク色、ついでに頭の中もピンク色です。彼の周りには自殺志願者であるかどうかを問わず、常に女性がいました。もちろん、彼は男女を問わず自殺志願者に対しては平等に接し、誠実に殺していたとの噂でした。誠実な彼を頼り、多くの自殺志願者が集まったのです。自殺志願者は自殺を志願しつつも簡単には死ねないものです。痛いだろうな、苦しいだろうな、死ぬことになって悲しいな、自分が死んでも、苛めた奴らの日常は変わらず続いていくんだろうな、悔しいな、死にたいな、生きたいな、死にたいな、生きたいな、死にたいな、何も感じなくなるだろうな、などと考え始めるともう死ねません。しかしそこに、問答無用で殺してくれる首吊り士がいればどうでしょう?ピンク・フロイドの名曲ではないですが、『あなたがここにいて欲しい』ということになるのではないでしょうか。死にたいと思った時にそばに寄り添い即刻殺してくれる人がいたとしたら、自殺志願者にとってはジャスティン・ビーバーやアンジェリーナ・ジョリーよりも会いたいに違いありません。必然的に、柳翔平という男の周りにはたくさんの自殺志願者が密にたかる蟲のように集まりました。ルーは、いくら自殺志願者とは言え、大量殺人者である柳翔平を許せないと思い、死刑囚として選んだのでした。柳翔平はルーを上回る色男で常に女性に囲まれていたので、それもルーにとって気にくわないことでした。『だいたい俺は、インフルエンサーかインフルエンザかわからないが、ナヨナヨした男が嫌いなんだ。オジサンみたいなことを言うが。』『死刑囚に対して私情を挟んではいけないわよ。一応、わかっているとは思うけど。』ジェーンは言いました。『もちろんわかっている。ナヨナヨしてモテている男だから柳翔平は死刑なわけではなく、あいつは自殺志願者をたくさん殺しているから死刑なんだ。』『ところで、たぶん無いけど、冤罪の可能性とかは?』『それはないね。なぜなら真実よりも噂の方が正しいからな。噂がある時点であいつは有罪だ。ナヨナヨした色男ということですでに死に値するのに、どれだけ死に値すれば気が済むんだ、って感じだね。』『こら、私情は挟んじゃダメって言っているでしょう。私にとってはあなたが最高の色男よ。』二人は、ハローキティのアップリケを付けるために十本の釘を老婆の額に打ち込んだ門脇正信が焼き上がる頃、ロマンチックにキスをして車に戻りいつものようにセックスをしました。セックスが終わり、全裸のルーが言いました。『よし、これから行こう。』『どこに?』『柳翔平の所だよ。』『死刑執行は時間帯問わずで、実際今までもしてきたけど、今から?』『うん。善は急げ、さ。あいつはもう逮捕寸前って噂だし、早く仕留めないと帝国警察が先に来てしまう。』『じゃあ、喉が乾いたからちょっとだけ飲んで良い?』『もちろんいいさ。輝かしい未来、輝かしい世界平和に対して乾杯だ。』そしてルーはアサヒ・スーパー・ドライを、ジェーンはシードルを飲みました。アルコールの熱が頭に回り始める前にルーは車のエンジンをかけました。青葉インターチェンジから高速道路に乗り、死刑執行車は死刑を執行するために座間市に向かいました。真夜中の高速道路は空いており、相対性理論的に車内で一、二分くらい時間が遅れているのではないかと思う程のスピードで死刑執行車は走っていました。彼らはロック・ミュージックを流しながら真夜中を突っ走っていました。まるで車内の時間が、『永遠』であるかのように。ちょうど一時間くらいのラモーンズのベスト・アルバムが終わる頃、座間市の柳翔平の家の前に着きました。それは木造アパートの一階で、周りには猫が住み着いている空き家や、若者たちの簡易ラブ・ホテルになっている神社、トタンの壁の古い家や、無人の野菜売り場などしかない寂れた場所でした。『何がインフルエンサーだよ。こんなアパートに住んでいるだなんて。』ルーは周りを見渡しながら言いました。『殺人者は、目立たない場所に住んでいるし、近所では目立たないように生活しているものよ。』『そうか、そうだな。ショウコ・フセイン・ズケランも割と質素に暮らしていたからな。よし、さすがにそろそろ眠くなってきたし、さっさと仕事を終わらせよう。』そしてジェーンが外に出てインターフォンを押しました。深夜の三時頃だったにも関わらず柳翔平は返事をしました。『はい。』『柳翔平、二〇三〇年五月二二日、日本帝国市民執行法第四二七三一条八八九項〇〇一号の規定により死刑を執行します。』ジェーンはいつものように言いました。『ようこそいらっしゃいました。どうぞお入り下さい。』柳翔平は言いました。その予想外の返答に驚きつつも、ジェーンは答えました。『もう一度言います。あなたは帝国市民法によって死刑に処されます。死刑執行車に乗って下さい。』『何冗談を言っているの。田中花蓮ちゃんだよね?鍵は開いているから、そっと入って来て。』どうやら、真夜中に自殺志願者を自宅に招いていたようでした。猫の心音でさえも聞こえるような静かな夜だったので、窓を開けていたルーにも会話は聞こえていました。ジェーンは振り向き、ルーに目線で合図を送りました。イレギュラーなことが起きているものの、田中花蓮の振りをして中に入れば、すべてのことがわかるし、冤罪の可能性もゼロになるということです。普段は鈍いルーも、この会話と、目線ですべてを理解しました。『ジェーンはとりあえず田中花蓮の振りをして中に入り、中で死刑を執行するつもりだな。鍵をかけずに中に入るだろうから、扉の前で俺は注射器と、暴れた時のためにナイフでも持って待機していれば良いわけだ。』ルーはそう考えながらジェーンが部屋に入って行くのを見守った後、注射器とナイフを持って扉の前まで行きました。ルーは扉に耳を付けて中の様子をすぐに把握出来るようにしました。ジェーンと柳翔平の会話が聞こえて来ました。『ようこそ、田中花蓮ちゃん。じゃあ、死ぬ前にセックスしようか。』そのセリフが聞こえた瞬間にすべての有罪が確定した上に、ジェーンに性的な危害が及ぶことを危惧したルーは、すぐに部屋に突入しました。ジェーンが部屋に入ってほんの数十秒後のことでした。『俺の恋人にいったい何をしようってんだ?』柳翔平はメディアで見るよりも歳を取っており、肌も綺麗ではないようでしたが、色男と言える見た目でした。部屋着ではなく、白のシャツに紺のジャケットを羽織り、クリーム色のチノパンといった余所行きの格好をしていました。部屋に入るなり、ルーは柳翔平を殴りました。しかしルーは、お世辞にも強いとは言えないので、柳翔平は無傷でした。柳翔平は言いました。『いったい、どうしたんですか?』『お前こそ、いったいどうしたんだよ。』ルーは怒りに震えながら言いました。『どうしたもこうしたも、僕はこの田中花蓮ちゃんと待ち合わせをしていただけですよ。』『まあいい、とにかくお前は死刑なんだ。』『死刑?さっきから田中花蓮ちゃんもですが、いったい何のドッキリですか?』『これはドッキリではないし、そもそもこの女性は田中花蓮なる人物でもない。』『えっ?』『私は死刑執行人です。』ジェーンが言いました。それを聞いた柳翔平は震え始めました。『いや、そんな訳が・・・。』『では、これから死刑執行を開始します。恐怖心を感じて動いてしまうようでしたら、拘束具を付けることも出来ます。いかがなさいますか?』柳翔平は焦って言いました。『いやいや、ちょっと急過ぎるでしょう!そもそも僕が死刑になる理由がわからない!』ルーは間髪入れずに言いました。『死刑執行は急になるという、小学校の教科書にも書いていることを知らないわけないよな?』『いや、もちろんそれは知っています。しかし、そもそも僕は無実なんです。』『恐らくは自殺志願者の田中花蓮なる人物を殺すつもりだったんだろうが。そうやってお前は何人もの人を殺してきた。死刑にならずに、逆に帝国市民栄誉賞でも取れると思っていたのか?』『僕は誰も殺していない!田中花蓮ちゃんは僕のファンだ。たしかにファンと寝るのは良くないことかもしれない。でも、自殺インフルエンサーである僕のファンは自殺志願者と呼ばれているだけで、実際は死にはしない。僕とセックスしに来るだけなんだよ。』柳翔平は、ほとんど泣きそうになりながら言いました。しかしその様子をルーとジェーンは冷徹に見ていました。その部屋には、『死体の臭い』が充満していたのです。『嘘は良くないな。鼻か頭のどっちかがおかしくなっているのかもしれないが、この部屋は死体の臭いでいっぱいじゃないか。』『死体の臭い?そんなものがあるわけないだろう。たぶんそれは、僕がファンとしたセックスの後の臭いでしょう。僕の部屋には女の子が入れ替わり立ち替わり来るんだ。死の臭いとセックスの臭いはとても良く似ている。』『もう良い。ロフトの上に段ボールが見えるが、それを開けろとさえ俺たちは言わない。そこにあるものの臭いが何なのかわかっているからだ。俺たちをテレビのドッキリだとでも思っているのか。俺たちは本物の死刑執行人と、死刑執行車の運転手だ。どれだけの死体の臭いをかいで来たと思っているんだ。』『じゃあ、ロフトに登って段ボールの中身を見て下さいよ!それで僕の潔癖がわかる。』『了解。』ルーがそう言ってロフトに登る素振りをすると、柳翔平の顔色はピンク色から青黒く変わりました。『いや、やはり止めて下さい。』『観念したのか。』『僕のコレクションがあなたのようなオジサンに汚されるのは堪らない。』『何を言っている。お前もいつかオジサンになるんだ。生きるとはそういうことだ。ところで、どんなコレクションなんだ。シリアル・キラーに造詣が深い俺にとっちゃ容易に想像が付くがな。どうせ若い女性たちの首だろうが。いくつあるかな。臭いの重なり具合でわかる。多分、九か十本の首があるはずだ。』『僕を、そこらの低俗な雑誌に載っているようなシリアル・キラー扱いするんじゃない。』柳翔平は目を細めて言いました。『おっ、怒ったし、認めた。死刑死刑。死刑死刑。死刑だお前は。』『では、これから死刑執行を開始します。恐怖心を感じて動いてしまうようでしたら、拘束具を付けることも出来ます。いかがなさいますか?』ジェーンは機械的に繰り返しました。柳翔平は焦って言いました。『ちょ、ちょっと待って下さい!』『と、柳翔平は言いました。しかし彼の顔には既に死相が浮かんでいました。というのも彼は絶対的に十分以内に死刑執行されてしまうからです。』ルーが言いました。『オジサン、あなたは黙っててもらえますか?あくまで死刑執行人はこの綺麗なお姉さんでしょう。』ここでルーは死刑囚を選んでいるのは自分だ、と言いそうになりましたが、それを口走る程にバカではありませんでした。柳翔平は言葉を続けました。『自殺志願者を殺していることは認めます。しかし僕は無実なんです。というのも、自殺を望む人に死というサービスを与える、資本主義の基本とも言える仕事をしているだけだからです。需要があり、供給をする。当たり前のことです。しかも僕はお金を取ったりしません。ボランティアなんです。死刑というよりも、帝国市民栄誉賞が欲しいくらいです。僕は何も悪いことをしていません。』『その御託は一旦、ギロチンの横に執行済みの生首を置くように、悲しみの横に花束を置くように、とりあえず横に置いておいても、お前は田中花蓮なる人物を強姦しようとしただろうが。』『違います。それもサービスの一部です。僕は決して無理やり女の子としたりしません。彼女らは僕のファンなんです。場合によりますが、ほとんどの場合、彼女たちは死ぬまでに一回で良いから本気で愛されたいと望みます。だから僕は彼女たちを殺す前に抱くのです。』『お前は、例えば俺が自殺志願者として連絡して来て、望んだらセックスするのか?』『もちろん。僕は男女平等だ。僕を必要とするのであれば、誰にでも与えます。』『そうか。』そしてしばしの沈黙が訪れました。ルーは次に言うことを考えずに話をしてしまうのです。その沈黙は、夜の静けさをより深くしました。雲のかかった月以外の明かりはほとんどなく、闇に包まれたそのアパートは死刑執行にふさわしい雰囲気をたたえていました。その沈黙を破るように、ジェーンがルーに目線を送りました。それは『ナンセンスなことを言っている暇があったら早く死刑執行に進めるように話をまとめなさい。』と言っているようでした。『はい。了解しました。』ルーは思わず言いました。『とにかく、僕は死刑には値しない人間です。』『しかし、死刑という判決は地球が平らになったとしても覆らないし、死刑を拒否すると六六六時間の拷問の上に殺されることは知っているだろう?小学生の期末テストには必ず出る内容だ。』『拒否するも何も、僕は無実なんですよ。』『小学生みたいなことを言うな。俺は人が死にたいからって殺すのはあまりにも独善的で良くないことだと思う。そもそも嘱託殺人だしな。殺人は世界平和にとって良くない。』『世界平和?なら自殺したい人は死んだ方が良いに決まっている。自殺したい人にとっては、この世は地獄で、死後の世界は平和だ。生きたい人は生きたいように生きる。死にたい人は死にたいように死ぬ。とても健全な社会じゃないか。』『何を言っている。俺は自殺をするなと言っているわけじゃないんだ。自殺はむしろ仕方がないことだと思っている。お前の言うように、この世はそもそも地獄だし、他人も地獄だ。我々はみんな我利我利亡者だ。ちょっとした幸せさえ手に入れられなかったら、もしくは大義さえなければ、そりゃあもう、自殺するだろう。仕方ないことだ。』『じゃあ、良いじゃないか。自殺志願者を殺すのが何が悪いんだよ?』『なあ、自殺とは文字通り、自分で自分を殺すものだ。そもそも、自分が死ぬ覚悟もない人間に人間を殺す資格はないように、自分で自分を殺す覚悟もない奴に自殺をする資格はないんだ。何だか良くわからなくなってきたが、そういうことなんだ。自殺は自分でするべきだという、小学生でもわかることだよ。』ルーは呆れたように言いました。『でも、自殺したいという、浮浪者でも大統領でも出来るささやかな夢を叶えてあげるのは悪いことではないんじゃないでしょうか?世の中は地獄だ。宇宙飛行士になりたい、女優になりたい、野球選手になりたい、ほとんどの夢は叶わないようになっている。というのも、みんなの夢が叶ったら、それはもう夢ではなくなるからだ。だから、自殺したいというささやかな夢、その、あと一息の勇気が必要な最後の夢を、僕は叶えてあげたいんです。』ルーはそれを聞いて、少しだけ一理があるような気がする、と思いました。『何か良いことを言っているようで、そんなことはない。人生は戦いなんだ。死ぬ覚悟も無く人を殺すべきではないし、自殺する覚悟もなく自殺するべきではないんだ。与えられた人生は、子供の頃は多かれ少なかれ親の庇護下にあり、自分のものではないような感覚もあることだろう。本来はそうではないことが望ましいが、飯を食わせてもらったり、学校に行かされたりして、親の影響というものは受けざるを得ないから、仕方がない部分もあると思う。しかし我々はいつしか大人になり、自分だけの力で生きていく。その時、自分の人生は紛れもなく自分のものになったんだ。もちろん、親がまだ生きているなら、親が悲しむから自殺をするべきではないという古代メソポタミア文明に生きる人々並みに古くさい考え方もあるだろう。しかし俺たちの人生は紛れもなく俺たちのものなんだ。生きたければ生きる、死にたければ死ぬ。我々は自由であるように宿命付けられているからそれは仕方のないことだ。しかし、生きるということは残酷なことだ。この世は地獄で、我々はみんな我利我利亡者だ。お前も好きなショウペンハウエルの言葉、人生とは裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいた時には遅すぎる後悔の繰り返しに他ならないという言葉。俺はこの言葉通りに生きてきたんだ。俺が抱く希望はことごとく裏切られ、俺の目論見はことごとく挫折させられ、気づいた時にはいつでも遅すぎたという後悔を積み重ねてきた。ただひたすら飯を食って、たまにひっかけた女性との情事を楽しみ、酒を飲んでおならをして寝るだけの生活だ。何度死のうかと思ったことだろう。首をくくれば、すべてが俺の目の前から消え、俺は世界の終わりの周縁で永遠にたたずみ続ける。独りぼっちのあいつ、さ。世界の終わりの手前で、人生の終わりの一歩手前で、俺は独りぼっちでたたずみ続けるんだ。人間は死を認識出来ないから、人間の意識は死なない。世界の終わりの一歩手前で俺はたたずみ続ける。そこは永遠の周縁だ。このことについてはまだ理論を確立出来てはいないが、いつか小説を書いてノーベル文学賞を取るつもりだ。盗作されたら困るのでこれ以上は語らないが、自殺というものは、自分の人生を終わらせられる上に、ある種の永遠を手に入れられる高尚な自慰行為なんだ。勇気が無い奴にそんなことをする資格はない。もちろん、人間の意識はどうしても迫り来る死に対して恐怖してしまう。その先に何が待っているのか確信が無いからだ。宗教を信じている人が、天国やら輪廻やら言うかもしれない。しかし、すべてのことが嘘だったらいったいどうするんだ?そんなことを考え出したら、当然、どんな人間も死ぬのは嫌だ。俺だって、さっき言った世界の終わりの周縁なんだとか言ったが、それが真実かどうかなんて誰にもわからない。俺は死ぬことが怖すぎて、人生の終わりにある種の永遠が訪れるはず、という理論を構築し始めているだけなんだ。ただ、構築し終わったとしても、もちろんそれが正しいかどうかなんて誰にもわからない。この世界のすべてが嘘かもしれないし、この世界のすべてが真実かもしれない。もしくは、この世界のすべてが嘘であり、すべてが真実でもあるかもしれない。こんな不安定な中で人は死を恐怖する。その恐怖は失禁、気絶、白髪、心筋梗塞、脳卒中、何でもありの恐怖だ。もしかしたら射精するかもしれない。死を恐怖して射精する。下半身だけは生きようとしているんだ。しかし脳は死の恐怖で気も狂わん状態になっている。恐怖、恐怖、恐怖。死ぬことの恐怖。それは人間が抱く恐怖で一番の恐怖だ。死ぬことよりも辛いことがあるというクソバカがたまにいるが、じゃあ今すぐ殺します、と伝えたら靴か肛門を舐めてでも命乞いすることだろう。それくらいに目の前に差し迫った死というものは怖い。だからこそ、自殺をするのであれば、その恐怖を自分で乗り越えて行って欲しいんだ。逆に言えば、恐怖を乗り越えた人間には自殺する権利がある。普通の人間には、それを乗り越える勇気はない。かくいう俺も、死ぬことばかり考えて生きてきたが、何とか死なずにいられたのは大義があったからだ。こう見えて俺には子供が三人いるんだ。この俺の下賎極まりない命を引き継いでくれた子供を育て上げる、そもそも、親にもらった命を使いきる、俺にとってはそれが大義だった。そんな当たり前のことは大義とは言わないって言うような奴がいれば、今すぐに殺してやる。人は何かしら大義が無ければ生きてはいけないが、無くなったからといっても簡単に死ねるものではない。明日に希望が無くなっても、まだ生きている実感、たしかに今日という日を生きている実感があるからだ。何度死のうと思ったことか。しかし死ねなかった。俺には大義があったし、何よりも死が怖かった。この世は地獄で、我々はみんな我利我利亡者だが、死ぬよりかはいくらかマシに思える時もあれば、やっぱり死んだ方が良いように思える時もあった。心電図みたいに、株価のチャートみたいに、子供の落書きみたいに、俺の生死に対する気持ちは振れ続けた。俺は死にたかった。俺は生きたかった。たまに立ち上がれないくらいの絶望を感じ、今すぐに子供たち三人を車に乗せて川崎の湾口から海に突っ込もうと思ったり、溺れ死ぬのは辛いので、おやつ、ジュース、練炭をたくさん買い込んで、車内で練炭パーティーをやろうかと思ったこともあった。立ち上がれない程の絶望、それは自分の人生の前に立ちはだかる暗い雲に対してもそうだが、愛しい子供たち三人の前に立ちはだかる、この地獄のような世界のことを考えた時に頂点を迎えたんだ。まだ幼い子供たちが、必死に言葉を覚え、音楽を聴きながら手を可愛く振ってダンスをしているのを見た時、俺は愛しくて愛しくて仕方がなかった。彼らは人間性を獲得しようと日々生きているのだ。しかし、人間になった時に目の前にあるのは我利我利亡者ばかりの地獄だ。生まれた意味も、生きる意味も無いというのは無神論者にとっては常識だが、そんなことを考え出すと、なぜ子供たちは生まれてこなければならなかったのだろう?と罪の意識を抱くのだ。人間は意味の無い人生に自分で意味を付け続けて生きるしかない。大義がなければ生きていけない。しかし、意味が失われても簡単には死ねない。何度打ちのめされただろう。何度立ち上がったことだろう。何度絶望したことだろう。何度希望を抱いたことだろう。何度人間という狂ったものを嫌いになっただろう。何度人間という狂ったものを好きになっただろう。何度この世から去ろうとしただろう。しかし何度、この世からやはり未練を捨てきれずに生きることを選んだだろう。今俺は、生きることを選んだ自分に対して、ノーベル平和賞を与えたいくらいなんだ。俺は今自由で、新しい人生を生き始めた。もう二度と死ぬために生きることはなく、俺は生きるために生きるのだ。俺は自由で、すべての人間は自由であるべきだ。その自由は、人間が自分で覚悟を持って勝ち取るべきだ。生きるやつは生きる、死ぬやつは死ぬ。それも自由だ。さあ、人生の未明、もう夜明けがそこまで迫っているんだ。朝日のあたる家で、俺は俺の詩を書くし、俺は俺の人生の物語を物語る。俺は生きる。俺は自由で、俺は今人生の未明にいる。俺は今、絶対的に生きているんだ。そして俺はこれからも絶対的に生き続ける。』ルーはひたすら柳翔平の死体に向かって話し続けました。死刑はすでに執行されていたのです。話は整合性を欠き、メビウスの輪のように行ったり来たりしました。そしてルーは自分が泣いていることに気付きました。その涙は喜びから来たのか、哀しみから来たのか、ルーにはわかりませんでした。ただ彼は生きていて、ただ涙を流していました。そしてルーはジェーンを抱き寄せて、さらに泣きました。しばらくして笑い始めました。もうしばらくしてから、また泣き始めました。またしばらくしてから、笑い始めました。その後、また泣き始めました。それは永遠のように続きました。二人は生きており、愛し合っていました。ただ『その夜』だけが二人の居場所でした。『その夜』に、世界に取り残された二人の嗚咽と、笑い声が永遠のように、ただただ響いていました。さて、私のひたすらに長かった話はとりあえずここまでにしておきます。この話の終わりを勝手に話すことも出来ることでしょう。『俺たちに明日はない』みたいにあっけなく二人が銃殺されたことにしても良いでしょうし、十数年後、二人が捕まって死刑執行をされる際、その死刑執行人が、親戚が保護していたルーの息子だったというような、肛門性欲的な終わり方にすることも出来るでしょう。二人が義賊のような扱いで帝国のダーク・ヒーローになり、最終的に無主地の島で新しい国を作るというような漫画みたいな終わり方も良いかもしれません。しかし、流川さん、このルーとジェーンの物語に終わりは無いのです。というのも、彼らはまだ『その夜』の中を死刑執行車で走り続けているのです。彼らは真夜中を突っ走っています。流川さんの部屋にも、インターフォンを押しに来るかもしれません。いや、言葉が過ぎましたね。ごめんなさい。流川さん、私が長々とルーとジェーンの話をしてきた理由がわかりますか?私も、ただ生きていたいのです。この世というものを、ルーいわく、『我利我利亡者ばかりの地獄』を、ただ突っ走って生きていたいのです。私は今このメールを、隣人が育てていた遺伝子組み換えライムをひとつ拝借し、遺伝子組み換えテキーラのショットを口に流し込んだ後に書き始めました。それは四歳の時に初めて飲んだ変質者の遺伝子組み換えの精液のように熱く私の喉を焼きました。その時と同じようにその熱い液体は私の脳みそと子宮を焼き切ってしまい、私はぶっ飛んでしまったのです。私は死にたいような気持ちになり、ルーのことを思い出しました。そして私は流川さんにルーのことを伝えたいと思って物語を書き始めました。私はルーと自分を重ね合わせ、ただ生きていたいと思っていたのです。人生の美しさを、人間が人間であることの美しさを、人生の哀しさを、人間が人間であることの哀しさを、ただ真夜中を突っ走って、ロック・ミュージックに乗せて歌いたかったのです。ここで相談です。私は本当に嘘つきでしょうか?私はたまにわからなくなるのです。私が世界に嘘をついているのか、世界が私に嘘をついているのか。いったい誰が嘘つきなのか、教えてくれないでしょうか?流川亞世さん、歌をリクエストします。ジョン・レノンで『真夜中を突っ走れ』。いいね。最高だ。俺も真夜中を突っ走る。難しい相談だから、俺にはわからないや。一つだけ言えるのは、たしかに君は嘘つきかもしれない。しかし、君は嘘をつきながら真実を語っている。肩の力抜いて行こうぜ。ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー。聴いてください。ジョン・レノンで、『真夜中を突っ走れ』。最高だ。最高過ぎる。人生は最高過ぎる。生きているのが素晴らし過ぎる。ただただ突っ走れ。ただただ生きる。それ以上でも以下でもなく、ただただ突っ走れ。オーケー、俺もその死刑執行車に乗り込んで、そのユートピアに乗り込んで、ただひたすら真夜中を突っ走る。」
流川はバランタインのオン・ザ・ロックを飲み続けた。そして音楽を聴き続け、踊り続けた。彼は頭の中で酒を飲み、ロックを聴き、踊り続けた。ブリジット・バルドーの金髪のような朝が来るまで。