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忘却の花

作者: 雪河馬

夕暮れの日差しが木々の隙間から幻想的に赤い花を照らし、まるで地獄の血の池を連想させる。


私はコートのポケットからカッターナイフを取り出し、刃先を左手の薬指の爪の下に押し当てた。

刃先を引くと小さな血の珠が浮かんだので、それを右手の親指で掬って、血の池に咲くわずか一輪の白い花の花弁の上に落とす。

花弁に落ちた血はグラデーションを描きながらじわじわと赤く花全体を染め、それはまるで唇のようになまめかしく揺れ動いた。


赤く染まったその花にむかって手を合わせて願いをつぶやく。


「どうか、カズキのことを忘れますように。」


カズキは私の初恋だった。


大学まで地方都市の女子校で過ごした私は都内の会社に就職し、初めて異性と同じ場所で過ごすことになった。

初めての都会暮らし、初めての仕事、そして私には別の存在に見える男性との接し方に戸惑う私を助けてくれたのが、同じ職場で2年先輩のカズキだった。


「大丈夫、すぐなれるよ。俺だってさ、入社したての頃はミスばっかりしてて怒られてばっかりで凹んでたけど、今でも・・・あんまり成長していないかな?」


信頼が恋心にかわるまで3ヶ月、初めてのデートは真夏のテーマパーク。

緊張と熱中症で倒れた私をカズキは抱き抱えて救護室まで連れていってくれた。


そして帰りのタクシーの中、泣きながら必死で謝る私にカズキは言った。

「俺は楽しかったよ。嫌なことは忘れちゃえばいいし、今後は無理しないで早めに言ってね。」

別れ際、私は初めてのキスをした。


クリスマス、私たちは恋人だと思っていた。

ポートサイドのレストランでスパークリングワインで乾杯をした後、カズキは言った。


「この上のホテルの部屋、予約しておいたから・・・・・。」


予感はあったし、覚悟もしていたんだけどその後の料理のことは何も覚えていない。

ただ一つ言えることは、あの当時の私は本当に幸せだった。


翌年の桜の咲く季節に、それを告げたのは、同期入社のサキちゃん。


「え、カズキさんが結婚する?」


「チカはカズキさんと仲がよかったのに知らなかったの?あいつ社長に気に入られてさ。去年の夏にお見合いしてずっと付き合ってたらしいんだ。」


そのあとの言葉はよく覚えていない。ただ、虚ろな笑いで相槌を打っていた気がする。

ショックだというには軽すぎる、暖かいのに寒い。昼なのに暗い。

付き合っていて嫌いになり振られたのならまだしも、最初から二股をかけられてたんだ。

胸が張り裂けそうで苦しい、誰か助けて。あの夏に戻れたら。


その時の私は既におかしくなっていたのであろう。

突然、幼い頃母方の祖母に聞いた話を思い出した。


祖母は地元の神社の宮司の末裔で、田舎に帰った私にいろいろな話をしてくれたものだ。

その中に、願い事を叶えてくれる花の話があったのだ。


「神社の裏の花畑にな、赤い花に混じって稀に白い花が咲くことがあるんじゃ。それをわしらは”花神さま”とお呼びしてたんじゃがの、花神さまは自分だけが白いことを恥じておられるらしく巫女がその血をそそぎ赤い花に変えてさしあげるとな、とてもお喜びになって、巫女の言うことをなんでもひとつだけ願いをかなえてくれるそうな。」


「おばあちゃんはその花を見たことがあるの?」


「ばあちゃんはなかったのお。その花は本当に必要な時にしか現れんそうじゃし、わしはまずまず幸せな人生を送ったからのお。」


翌日、私は会社を休み、早朝から特急電車に乗り、母の地元に向かう。

夕刻には神社についた。

タクシーを降りて山の中腹にある神社の階段をのぼり、鳥居をくぐる。

その神社はたまに本社の人がくるだけで誰もいない無人の社だった。

期待と諦めの気持ちで本殿の裏に回り込むと、そこには一面赤い花が咲き誇っていた。

そしてなぜか人がひとり通れるほどの道が中心に続いており、その終点に白い花が咲いていたのだ。




その日は駅前のビジネスホテルに一泊し、翌日金曜日の夕刻にはマンションに戻った。

そのまま土日は家に引きこもって過ごす。


時間が経ち、少しだけ冷静になった私は思った。


白い花はあったが、しょせん伝説は伝説にすぎなかったようだ。

わたしはカズキのことを忘れてはいないし心のつらさもそのままだ。

明日から会社に行くのが憂鬱だけど、決心はついた。

会社を辞めて、どこか別の場所でやり直そう。

そういう気持ちになれただけでも、行った甲斐があったのかもしれない。


月曜日、辞表を持っていつもより少し早く出社し、机を整理する。

しばらくして皆が出社してきた。


「おはよう、チカちゃん。体調はもう大丈夫?」


サキちゃんが心配そうに声をかける。


「ありがとう、もう大丈夫だよ。」


そう言うと安心したように微笑んでサキちゃんは言った。


「そっか、旅行にいく話をしている最中に急に気持ちが悪くなるから。いやだったかな?男子も一緒に旅行に行くのは?」


気が動転していたせいか、その話は覚えていない。


「大丈夫だよ、楽しみだね。」


その時には私はいないんだけど・・・・。


異変に気づいたのは午前10時のこと。

その名前を言うことさえ辛かったが、あまりにも違和感が強く、私は隣の課のワダさんに尋ねた。


「あの・・・・、今日はタナカさんはお休みなんでしょうか?」


ワダさんはきょとんとして首を傾げた?


「タナカって営業2課のタナカさんのこと?総務課ではそこまではわからないし2課にきいてくれる?」


この人は私たちのことを知っていてからかっているのか?少し腹がたちきつめの口調で言った。


「いえ、総務課のタナカカズキさんですが。」


心配そうな表情でワダさんが私の顔を覗き込む。


「風邪をひいて休んでたと聞いたけど、ちょっと高熱だったのかな?何か混乱しているようだけど、うちにはタナカカズキなんて社員はいないしいた記録もないよ。」


その時、違和感の原因がはっきりとした。

彼の机のあった場所にはずっと以前からそうだったかのように応接セットが置かれていたのだ。

自分の席に戻り、パソコンでグループウエアを立ち上げ、総務課の予定表を見る。

そこには彼の名前だけなかったし、彼の担当業務は別の人がやっていることになっていた。


ああ・・・そうだったのか。


確かに私の願いは叶ったのだ。

私以外の皆が、彼を忘れたのだ。

その日、理由を失った私は、辞表を出すことがなく家に帰った。


それから数日後の深夜、インターホンが鳴った。

私はモニターで訪問者を確認し、絶句する。

何日も野宿をしたのか、髪はボサボサになり無精髭が生えているが

スーツ姿の若い男性は確かに・・・・カズキ・・・・。


インターホンから声が響く。


「チカ、聞こえているんだろ?返事してくれよ。」

私が黙っていると、彼はさらに言葉をつづけた。


「ちくしょう、誰も俺のことを覚えていないんだ。そればかりかクレジットカードもキャッシュカードも使えない。スマホも圏外になってるし、会社に行ったら不審者と思われて通報された。お前なら俺のことを覚えてくれているだろう?」


叫び声が徐々に鳴き声に変わる。あの明るかったカズキの面影はない。

花神は確かに巫女の願いを聞き届けたのだ。すべての心の願いを。


もし、彼を受け入れれば彼は永遠に私のものとなる・・・・。

甘美な誘惑がうかんだのは、まだ未練があったのだろう。

彼がこうなったのは私のせい、それを彼が知れば・・・。

元々は彼の裏切りのせい、もっと苦しむべきだ・・・・。


私は黙ったまま、彼にどう返事すべきかを考え続けていた。



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