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スウィートカース(Ⅸ):ファイア・ホーリーナイト  作者: 湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)
第四話「雪半」
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「雪半」(15)

 ホーリーは逃げなかった。


 むしろ、うつ伏せに寝転んだハンのもとへ歩み寄っていく。ハンの体の下、打ち広がる血の勢いは強い。


 毅然と進むホーリーの肩を、だれかの手が掴んで止めた。包帯ぐるぐる巻きの腕だ。


 スコーピオンを見もせず、ホーリーは反論した。


「邪魔しないで。今ならまだ、やり直せる」


 忍び笑いをこぼし、スコーピオンは言い返した。


「とっくに見失ってんだよ、後戻りのタイミングなんか。俺も、この女も、この世界も」


「大事なそれを探す時間を作るのが、ホーリーの役目なんだ」


 風雨に打たれながらも、ホーリーはハンから視線を逸らさなかった。きつく上目遣いにした前髪の間から嘆願する。


「おばさんだけは治させて。そしたらホーリーのこと、どこにでも連れてっていい。実験室でも、宇宙でも、どこへでも。だから……」


 痛撃とともに、ホーリーの視界には星が舞った。


 精緻な毒蠍の彫刻された44マグナムの銃把が、その後頭部へ容赦のない当て身を食らわせたのだ。動かぬハンの横へ、意識を失って崩れ落ちる。


 拳銃を指先でもて遊び、スコーピオンは下品に唇を歪めた。


「言ったはずだぜ。俺の愛は〝死体にも平等〟だってな。じゃあガキから運ぼうよ、シヨちゃん?」


「…………」


 眠ったホーリーを肩にかつぐ間にも、シヨの面持ちは非情なまま動じない。ジュズの被り物こそ損壊したが、すでに素顔そのものが鉄仮面だ。


「さあ、明日へ向かって走り出そう! 俺たちの未来は、夢と希望に満ち溢れてる!」


 うきうきと身をひるがえしたスコーピオンに続き、シヨも雨の帳に踵を返した。


 どくん。


「?」


 どしゃ降りの中、スコーピオンは思わず立ち止まった。


 なんだ、いまの薄気味悪い音は?


 どくん。


 ふと気づけば、地面の血溜まりはかすかに泡立ちつつあった。


 倒れたハンの流す血が、勢いよく沸騰しているのだ。摂氏六千度にまで達する超高熱のそれは、もはや溶岩に等しい。白煙をあげてアスファルトは溶け、ハンの周囲にはうっすら炎が広がっていく。


 どくん。


 両耳を塞ぎ、スコーピオンはうめいた。


「おいおい……心臓の音が、こんなに大きいわけあるかよ」


 だが、音はそうとしか聞こえない。


 また地面の業火は震えた。


 この世ならざる異次元の足音に怯えるように。


 煉獄の胎内から、今まさに産まれ落ちんとする魔性の申し子を讃えるように。


 狂ったように激しく躍った鼓動は、しだいに一回ごとの間隔を短くしていく。


 鳴響が途絶えるのは唐突だった。


「……!」


 包帯越しにも、スコーピオンの顔筋は引きつった。


 すぐ背後、燃え盛る強燃性の血海から、そいつが静かに身を起こしたからだ。操り糸に絡んだ傀儡のごとく、ぎこちなく立ち上がる。尋常な生物の動きではまずない。


 戦慄に、スコーピオンの声は裏返った。


「だからさ、死んじゃってていいんだって。頑張って地獄から生き返ってこなくたってさ」


 スコーピオンの頬を、冷汗は包帯からなお滲んで伝った。振り返ろうにも、その足は凍結したように動かない。同様に事態を把握しかねるシヨを尻目に、スコーピオンは背中でつぶやいた。


「そうか。俺としたことが、ついうっかり忘れてたよ。いまの時代、この世もあの世も結局は地獄だったな……おはよう。ひとつ提案なんだが、女みたいに泣いて逃げ出してもいいかい?」


 腕をだらんと垂らしたまま、ハンは答えた。


「……そいつは残念だ」


 ハンの瞳は、爛とふたつの光点に変わった。


 幾万、幾億の血を吸った色へ。


 呪われた炎の色に。


「あんたの悲鳴は……」


 ささやきとともに、ああ、ハンの体は爆発した。


 正確には、その全身を突き破り、おびただしい本数の〝触手〟が生えたのだ。知る者が見れば、その現象こそ、寄生生物〝ダリオン〟の孵化、または発芽の瞬間だと思っただろう。


 だが、ここからが普通とは違った。ハンの内側から覗いた大量の触手は、しばしなにかを探して蠢いたあと、思い立ったように方向転換する。触手の群れは、ハンの手足を、体を、すべてを一片の隙間なく包み込んだ。それらは即座に、硬い甲殻へと変じていく。


 完全に外骨格で覆われる間際、ハンの顔は告げた。


「あんたの悲鳴は、だれにも聞こえない」


 ノコギリのような尻尾は、嬉しげに地面を叩いた。


 鉤爪どうしの軋るおぞましい音が、その握り拳から響く。


 花弁じみた口腔が四方へ開くと、奥に輝いたのはおびただしい牙だ。


 雨に照り光る生体装甲の体は、この混血ハイブリッドのモンスターを醜くも美しく飾っている。


 決して呼び起こしてはならぬ魔獣の血を、死に瀕する傷が目覚めさせてしまった。


 ハン・リンフォン……ダリオンハーフ。


「~~~~~~~~~~~ッッッ!!!」


 人間とダリオンを掛け合わせた姿のそれは、雨空めがけて凄まじい咆哮を放った。まるで、この世のあらゆる存在を怨嗟するかのような声だ。


「ひッ……!」


 腰を抜かして尻餅をつくことで、スコーピオンはようやく逃げる動きを可能にした。地面を這って後退りしながら、震える指でハンの成れの果てを指差す。


「こ、こいつァ一本取られた! 惨殺はやだ! こんなこともあろうかと、シヨ!」


 背負ったホーリーを、シヨはそばの芝生に寝かせた。スカートの下、繊細なその指がかかったのは太もものホルスターだ。直後、シヨの腕はそれぞれ左右へかき消えている。


 雨を斬り裂いた輝きはふたつだ。


 踏み込まれたハンの足底は、地響きを轟かせた。


 飛来したシヨの刃の円盤(レイザーディスク)と激突したのは、ハンが素早く上下から繰り出した両手だ。ハンの拳と拳は、凶器の切れ味のない中心点をたくみに打った。円刃のひとつは最寄りの倉庫を紙のように切断して消え、もう一方は海に飛び込んで水面を爆発させている。


 そのまま緩やかに両腕で円を描き、ハンはぴたりと油断のない構えをとった。


「あらら……中国武術カンフーじゃん」


 スコーピオンの感想は正しい。


 截拳道ジークンドーを駆使するエイリアン……ダリオンに達人の反射神経と技術を与えたらこうなる。


 ただ、開閉する花弁状の顎から、とめどなく垂れるのは湯気をあげる涎だ。野性の肉食動物そのものの慟哭もやまない。ハン自身も実際、ダリオンの肉体を制御できていなかった。厳しい負傷も重なり、明らかな暴走状態だ。


 唾液を親指で払うや、突如、ハンはシヨと肉薄していた。ハンの掌と掌の間に絶妙のタイミングで挟まれ、シヨの巨大な円月輪アルマゲストは止まっている。超宇宙居合い斬りに対しての異次元真剣白刃取りだ。こんどは通さない。


 かんだかい響きがこだました。


 星外複合金属ジュズチタニムでできたシヨの輪刃が、一息にへし折られたではないか。あわせて、数百キロを超えるシヨの機体は、とんでもない勢いで後方へ蹴り飛ばされている。着弾の煙をあげるのは、上体を深く落とし、背中をくぐって打ち込まれたハンの踵だ。その柔軟さは怪物らしからぬが、身につけた術理はやはり体が記憶している。


 倒壊した倉庫のがれきを押しのけ、シヨは身を起こした。起こしかけた途端、その胸倉をハンの縦拳リードジャブが強打する。


 シヨの後頭部がめり込み、倉庫の支柱には亀裂が走った。いったんフェイントで胸もとを防がせるや、すかさずハンの逆の拳(PIA)がシヨの美貌に突き刺さったのだ。その猛スピードは反撃の余地も与えない。鞭のように撓るフックが、アッパーが、掌底が、戦斧の重量を帯びてシヨの顔を打ち据える。


 とどめの寸勁ワンインチパンチを浴び、シヨはハンの足下へ叩きつけられた。無残に金属の骨格を剥いた表情に始まり、その体中を故障の漏電が駆け巡っている。


 まっすぐ伸ばした右拳を震わせ、ハンは勝利の雄叫びをあげた。


「いまだ! シヨ!」


 バネ仕掛けのごとくシヨが跳ね起きるのは、スコーピオンが合図したまさにその刹那だった。左右から打ち込まれたシヨの両腕には、表皮を割って現れた二振りの隠し剣が輝いている。


 鋭い音が響いた。


 シヨが断ち切ったのは、ハンの残像だけだ。肝心のハンはといえば、横薙ぎにされたシヨの左腕に飛びついている。飛びつくなり、シヨの後頭部を重い右踵の一撃が襲った。強引に踏み躙られたシヨの脊椎が、骨折の悲鳴を漏らす。踵はそのまま右脚ごとシヨの首に絡み、次にその顎へ跳ね上がったのはハンの左の膝頭だ。渾身の膝蹴りはシヨの顔を下から上へ打ち抜き、整った硬質プラスチックの歯列を粉砕する。


 ひねり上げたシヨの左腕を、ハンは迷わず折ってのけた。と同時に、重力に従ってギロチンのごとく落下したハンの右脚は、シヨの首筋を勢いよく地面に挟み込む。


 踵落としと膝蹴り、そして腕ひしぎ十字固めの超高速コンビネーションだ。その猫科の猛獣が食らいつくがごとき一連の流動は、こんな無慈悲な名で呼ばれる。


 秘奥義〝獅咬シャッガイ〟……


 ハンの全体重を乗せられ、ぶちり、とシヨの頭は胴から千切れて転がった。地面に散乱したのは、大量の配線と疑似血液だ。完膚なきまでに破壊されたその機体は、雨粒を弾いてじきに命の放電をも弱めていく。


「……ホぃッ!?」


 足を滑らせ、スコーピオンは思いきり水たまりに転倒した。一目散に逃げる途中、頭上のクレーンを逆さまに四つん這いになって疾走したハンが、いきなり眼前に降り立ったのだ。


 食われる……醜悪な花弁を口もとで開け閉めするハンに対し、スコーピオンにできることはあまりなかった。


「まだ根に持ってんだね、下着の色を聞いたこと? じゃあついでにブラの色も……ァそィ!?」


 スコーピオンの喉をついたのは、金切り声の絶叫だった。


 常識離れしたハンの馬鹿力が、閃いた44マグナムを手ごと握り潰したのだ。裏拳で乱暴に殴り飛ばされ、空中をきりもみ回転する。冗談や命乞いが通用する相手ではない。包帯の体が水しぶきを弾いて地面をバウンドしたときには、スコーピオンは白目を剥いて気を失っている。


 鼻血まみれのスコーピオンに馬乗りになり、ハンはまた大きく吠えた。もはや身動きひとつできないスコーピオンの顔面を、殴る。殴る殴る殴る。ひたすら殴り続ける。


 血袋と化した包帯の顔を狙い、そこだけ別の生物のようにハンの尻尾は動いた。その槍のように尖った先端は、スコーピオンの急所を一気に……


 雨天が光に染まったのはそのときだった。

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