「雪半」(14)
ふたりが後にした倉庫からは、熱い轟音が連続している。
激しい雨の中、ハンとホーリーは走った。
手を引かれながら、ぽつりと口を開いたのはホーリーだ。
「ねえ、おばさん?」
「なんだい?」
「ホーリーはずっと〝生きる〟ということの意味がよくわからなかった。だから体に悪いって怒られても、みんなに自分の時間をあげてたんだ。自分なんかに命があるのが、もったいないと思ってたから」
でも、とホーリーはうつむいた。
「ホーリーは、初めて死にたくないって思った。ダニエルやおばさんの必死さを見て、ほんとうに時間をもらってたのは、ホーリーのほうだと知ったから。いまは、みんなのくれたこの〝時間〟を大切にしたい……いいんだよね、生きてて?」
これが、こんな幼い少女のする質問か……
沈黙ののち、ハンは鼻を鳴らした。
「自分で決めな。このまま走り続けるか、やめてそこの海にでもダイブするか……選択する権利は、もうあんたにある。難しいかもしれないが、それが自由ってもんさ」
唐突に、ハンは駆け足に急ブレーキをかけた。
いつでも発車できる状態の黄色いタクシーは、もうすぐそばに見えている。同じように濡れそぼりつつ、ハンを見上げたのはホーリーだ。
「どうしたの?」
「……下がってな」
ハンが目つきを鋭くする理由は、じきに判明した。
雨のベールの向こう、静かにたたずむ人影がある。とめどなく水滴を落とすのは、不気味なジュズの仮面だ。タイトなスーツを濡れ鼠と化してまで、この女はいつからここで待っていたのだろう。
マタドールシステム・タイプB……シヨ。
刃の殺人人形だ。
どこかでだれかが指を鳴らすのと、ジェイスのタクシーが爆発するのはほぼ同時だった。
「スッキリしたッ!!」
炎と煙の先、そう叫んだ人影を、ハンは険しい視線で横目にした。
もよりの倉庫を見れば、そいつはひとりだけ屋根の下で雨宿りしている。紫煙をくゆらせる葉巻をつまんだ手も、革靴を履いた足首も、大笑いする顔も、全部が包帯ぐるぐる巻きだ。この神がかって凶悪なテロリストが、福山楼を始めとした襲撃に関わっている危険性は、ハン自身、組織の医者からちらりと聞かされていた。
「スコーピオンだね……色紙の一枚でも持ってくりゃよかった」
ハンのつぶやきに、すかさずスコーピオンは反応した。
「する! 何枚でもサインするよ! エージェント・リンフォン!」
「そっちも色々とご存知か」
「そんなに怖い顔しないで。ごめんね、せっかくのタクシーを爆弾の餌にしちゃって。でも、代わりの足は用意してあるからさ。あれだよアレアレ。U・F・Oッ!」
力の限り天を指差す姿は、スコーピオン恒例の決めポーズだった。
濡れた前髪を掻き上げながら、歯向かったのはハンだ。
「悪いがそんな、ポンポン撃ち落とされる泥船なんかに乗るつもりはない。あたしも、この娘もね」
「来るんだ。お前も、そのガキも」
恫喝したスコーピオンは、打って変わって恐ろしい顔つきに変じている。葉巻の先端を血のように燃やし、スコーピオンは低く笑った。
「ダリオンハーフ、ハン・リンフォン。おねえちゃんのことは、俺たちも前から興味津々だったぜ。あの化け物と人間が、いったいどんな目的や原理でミックスした? その生命力と戦闘力は? もっと野獣みたいな姿を想像してたが、うん。もしかするとダリオンの血には、美容や痩身の効果があるのかもね……パンツの色は?」
ハンは無言で、拳の骨を鳴らした。
スコーピオンはさておき、シヨはおよそ十歩圏内の間合いにいる。あのモノレールで披露された破壊の威力も記憶に新しい。こんどこそ正面衝突は避けられないだろう。それにしても彼女はなぜ、地球を裏切ってまで敵勢力になど寝返ったのだ。
首を回して柔軟運動しながら、ハンは色を教えた。
「青だ」
「いい! ますますいい!」
スコーピオンは鼻息を荒くした。
「そんなスタイル抜群の成功例と、もう一匹、別世界の成功例がいっしょにいる。こっちの原石も、磨く前からもう輝いてるな。おら、そこの。アーモンドアイのプリンセス。超加速の女王……実験ナンバーD10、ホーリーちゃんんんッッ!!」
声高に呼ばれたホーリーは、怒った顔でハンのうしろに隠れた。スコーピオンは、狂ったようにまだ投げキッスしてくる。陽気に肩を揺らしつつ、スコーピオンは紫煙混じりにささやいた。
「かわゆい♪ 安心しな。俺様の年齢制限はだな、上下左右斜めに無限大なのさ! できれば生け捕りがいいんだけど、なんなら細切れの肉片サンプルでも結構だ。お二人まとめて、無理矢理にでもお招きするぜ。俺の愛の巣へ。月の裏側の実験室へ……さ、交渉のお時間だよ、シヨちゃん?」
スコーピオンの合図を受け、シヨは音もなく歩き始めた。そこから視線を外さず、ホーリーへ耳打ちしたのはハンだ。
「あんたが女王様だって? あんたみたいな小娘が? ま、その能力を目にすりゃ、どんな星の住人だって手の甲に口づけしたくなるか」
最初にいた倉庫から、謎めいた火柱は突き抜けた。
中ではまだ、たった一人であいつが戦っている。だが、倉庫の窓や入口から内部へ侵入するのは、あふれんばかりのジュズの気配だ。さながらゴキブリの大群に近い。そちらを唖然と見守るホーリーの顔を引き戻し、ハンはその細い肩に手を置いた。
「いいかい、ホーリー?」
「?」
「こいつは、あんたとあたしの最後の約束だ。あたしが敵にやられたら……死んだり、もし〝それ以外〟のことになったら、ジェイスのいるあそこへ駆け込むんだよ。うしろなんて振り返らず、一目散に。あっちもとんでもない地獄だろうが、少なくとも雨に濡れずにゃ済む」
「嫌だ!」
地団駄を踏み、ホーリーは断固として言い張った。
「何回でも時間はやり直せる。ホーリーが治すんだ。だから負けないで!」
「やれやれ、人使いが荒いね。だから女王様なんて呼ばれるんだ。だが、ひとつはっきりしてることがある。あの包帯馬鹿の言う通り、あたしに選択権はないってことさ」
風雨は、衝撃に弾けた。
なんの前触れもなく放たれたハンの後ろ回し蹴りが、シヨの右ストレートを食い止めたのだ。お互い素手とはいえ、人間離れしたアンドロイドの膂力は強烈な痺れが走る。
ハンは吼えた。
「あんたを守る以外はね!」
そのまま、ハンは竜巻のごとく逆回転した。
軽くのけぞったシヨの鼻先を、鋭いハンのハイキックと、弾丸めいた掌底が順番にかすめる。隙間を縫って飛来したシヨの手刀を、腕の甲で鮮やかに受け流し、ハンは地面すれすれまで身を沈めた。素早くもう一回転。シヨの軸足を襲ったのは、ハンの鞭のような水面蹴りだ。
破裂音とともに、ハンの足払いはシヨのハイヒールに踏み止められていた。雨粒を焦がして繰り出されたシヨの膝蹴りが、ハンのみぞおちを強打する。軽く蹴っただけにしか思えないのに、このダメージはなんだ。地面の雨水を左右に割り、ハンは十メートルも道路を吹き飛んでいる。
転がりに転がり、ハンはようやく止まった。ふらつきながら、身を起こす。
いまにも駆け寄ってこようとするホーリーを、ハンは片手で制した。唇の血をぬぐうハンを、愉快げに煽ったのはスコーピオンだ。
「やめとけやめとけ! シヨは、人間どころかダリオンの天敵なんだぜ!」
「んなもんと一緒にすんな!」
雄叫びをあげるハンの闘志は、いささかも衰えていない。
怒号に首をすくめ、スコーピオンはあっけらかんとお手上げした。
「そういや、夜までに会議の資料を作らなきゃいけないんだった……休憩は終わりだ、シヨ。抜いちゃえ、剣を。やっておしまい、おしとやかに♪」
「…………」
スコーピオンの指示に従い、シヨは姿勢を低く落として身構えた。
「高周波反重力輪刃〝朝焼の発見者〟起動。斬撃段階、ステージ(3)……〝均質圏〟」
腰の鞘に納めた武器を、シヨは流れるように抜き放った。抜き放った途端、シヨを中心に広がったのは、薄く磨かれた円状の巨剣だ。
超科学でできた必殺剣の発射体制……ひとたび閃いたシヨの円月輪は、触れるすべての血を吸わずにはいられない。
雨空の下、ハンは大きく息を吸い込んだ。
「来な!」
止めてみせる。
ハンが果敢に踏みしめた地面で、ふたつ、水柱は爆発した。まっすぐ正面に伸ばした左腕とは反対に、ハンは拳銃を握った右手を強く引き絞って構えている。火器と崩拳の混成技だ。
人型自律兵器の全力の動きが、銃弾と同等かそれ以上に速いことは知っていた。外せば無論、次はない。この一撃にすべてを賭ける。
ふたりの距離、およそ十メートル……
そのちょうど中間地点で、葉巻を持つ手をそっと上へ掲げたのはスコーピオンだ。彼の手が振り下ろされたとき、勝負は決するのだろう。
喜色満面のスコーピオンとは裏腹に、ホーリーは気が気ではない。彫像のごとく動かないハンとシヨを左右に、子どもながらにも祈りに手を握っている。
「レディー……」
スコーピオンのGOサインは、意外なほどあっさりしていた。
「のこった♪」
次の瞬間、シヨの姿は、コマ落としのようにハンの背後に現れている。その方向へ吹いた突風に包帯の裾を持っていかれながら、スコーピオンは見た。
ハンの渾身の早撃ちに打ち砕かれ、粉々になるシヨの仮面を。
横一直線に斬られたハンの腹から、大量の鮮血がしぶくのを。
沈黙を破ったのは、ホーリーの悲鳴だった。
旋回したシヨの輪刃が、背中合わせのまま上から下へハンを断つ。奇妙な煙をあげたのは、地面を叩いたおびただしいハンの血だ。縦に横に深々と十文字斬りにされ、刃傷の奥部からは内臓や骨格が惨たらしく覗いている。
視界の片隅でぼやけかかるホーリーへ、ハンは吐血混じりに指摘した。
「カゼ……ひくよ?」
シヨの無造作な蹴りにとどめを刺され、ハンは血溜まりへ倒れ伏した。




