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スウィートカース(Ⅸ):ファイア・ホーリーナイト  作者: 湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)
第四話「雪半」
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「雪半」(10)

 車窓を流れる人工の空は、灰色に濁りつつあった。


 きょうが計画的な降水日であることは、一週間前の天気予定が知らせている。


 午後四時五十一分……


 中華街発のモノレール。


 六両編成で走る車内には、ほとんど揺れはない。座席がそこそこ空いているのは、帰宅ラッシュがまだだからだ。


 席と席を向かい合わせたボックスシートに、ハンとホーリーはひそかに座っていた。


「……とまあ、そういうわけだ。ああ、その問題の娘も一緒にいるよ」


 押し殺した小声で、ハンは用心深く喋った。


 会話の相手は、対面のホーリーではない。ハンは手首に巻かれた銀色の腕時計……組織ファイア特製の小型通信機とやりとりをしている。ずっと外の景色を眺めて動かない少女に、どこか超然とした雰囲気を感じながら、ハンは通信機からの指示に従った。


「了解だ。組織との合流地点は三番街、港の倉庫だね。そっちなら人通りも少ない。ちょうどいま、目に映るもの全部が敵に思える気分だったしさ……ああ、せいぜい気をつけるよ。じゃあまたあとでね、ヘリオ」


 腕時計との会話を終え、ハンは嘆息した。その物憂げな眼差しがふと上がったのは、ホーリーが誰にともなくこう囁いたためだ。


「おやすみ、ダニエル……」


「?」


 疑問符を浮かべ、ハンはホーリーと同じ方向を見た。


 福山楼ふくざんろうからはもうだいぶ離れて、火の手のひとつも視認できない。ではいったい、ホーリーはどこのだれに就寝の台詞をかけたのだろう。


 首をかしげて元の位置に向き直るや、ハンはぎょっとした。長いこと窓の外に興味津々だったはずのホーリーが、いつの間にか深くハンの顔を覗き込んでいたのだ。


 屈託のない姿勢で、ホーリーはたずねた。


「疲れたの、おばさん?」


「ますます疲れるよ、そんな風にトシだって言われると。いいかい、ホーリちゃん。約束なんだが、あたしのことはね、《《おねえさん》》かハン・リンフォン……ハンって呼ぶんだ」


「うん、わかった。指切りしよう、おばさん?」


「…………」


「怖い顔だね。置いてってもいいんだよ、ホーリーのこと?」


「そうしたいのも山々だけどさ。勇敢にあそこへ残ったあんたの親父は、あたしの大事なお客だ。あんたを連れて逃げろっていう客の注文を、無下に断るわけにもいかない。それにあんたが〝最後の希望〟ってのは……おっと?」


 ハンは眉をひそめた。


 彼女専用の腕時計のアラームが、また鳴り始めている。


 耳障りなそれを止め、ハンはためらいがちにポケットへ手を入れた。取り出されたのは拳銃型の注射器だ。持つだけで吐き気をもよおすが、いまばかりは仕方ない。注射器の先端が首筋に触れる様子を、透き通った瞳で追うホーリーへ、ハンは前置きした。


「見てて気持ちのいいもんじゃないよ?」


 銃爪が引かれると、注射器に満たされた血清〝青虫ケルタプラ〟は瞬時にハンの体内へ吸い込まれた。


 前かがみになって頭を抱え、荒く深呼吸を繰り返す。副作用の目まい諸々に、なんとか耐えているのだ。くの字に折れたハンの背中を小さな掌でさすり、ホーリーは聞いた。


「大丈夫? おばさん?」


「だ、大丈夫……ん?」


 冷や汗を浮かべて歪むハンの視界の片隅に、不意に揺れ動くものがあった。


 一匹の蝶だ。


 前の停車駅あたりで迷い込んだらしい。しかし、座席の陰に落ちて弱々しく羽を動かすのは、寿命が近い証拠だ。いったい、どこへ行くつもりだったのだろう。


 それが幻かどうかも判断がつかないハンへ、ホーリーは率直に質問した。


「お薬だよね、いまの?」


「ふ、ふふ……麻薬中毒みたいだろ? これは、その、持病の薬さ」


「知ってる。ホーリーも、そっくりなのを注射されてたから」


「な、なんだって?」


「あれだよね。〝アーモンドアイ〟だっけ。あの灰色のお医者さんたちの名前?」


「!」


 ハンは驚きに驚きを重ねることになった。


 ホーリーの指が、床の蝶をそっとつまんだまではいい。そこから、優しく蝶を覆ったホーリーの両手が、神秘的な輝きを放ったのはなんだ。


 ハンはたしかに目撃した。色あせて傷ついた瀕死の蝶の羽が、まるで映像を逆再生するかのようにハリとツヤを取り戻していくのを。


 気づいたときには、蝶の動きは強まっている。腕を広げた頭上、礼を述べるかのように元気に飛び回る蝶を仰ぎつつ、ホーリーは続けた。


「ホーリーの心に話しかけて、お医者さんは教えてくれた。ホーリーは、すごく細いロープの上を歩いてるのと同じ。ずっと半分半分なままではいられない。うまくバランスを取らなければ、ホーリーはみんなとは違う片方の世界に落ちてしまう、ってね」


 ホーリーは次に、ハンの片足に触れた。中華料理店で、敵の弾丸がかすってそのままだった傷だ。


 ハンは表情を険しくした。


 まばたきひとつのうちに、その銃創が塞がったではないか。挙句の果てには、裂けたスラックスの繊維までもが独りでに修繕されてしまっている。


 顔を手で覆い、ハンはつぶやいた。


「夢だ……」


「おばさん、ヤク中? 〝超時間の影シャドウ・オブ・タイム〟の仕組みは簡単なの。あるていど思い通りに、ホーリーは時間を動かせる。後ろにも、たぶん前にも」


 時間操作能力……ホーリーがこれまでに披露した回復の奇跡の数々は、そんな驚天動地の現象だった。だが、この年端もいかない少女が、どうやってそんな御業を得たというのか?


 答えはすぐに出た。指の間から覗いたハンの視線も瞠られている。


 ああ。能力を発現した反動で、ホーリーの瞳は、白目ごと真っ黒に染まってしまっているのだ。さながら、タールを流し込んだような漆黒に。ハン自身も、それには見覚えがある。すなわち、地球外生命体アーモンドアイの特徴だった。ということは、つまり……


「ホーリー、あんたは異星人やつらと地球人の……混血ハイブリッド?」


 鼓膜をつんざく音を聞き、ハンは我に返った。


 モノレールの窓ガラスがぶち破られたのだ。


 なんと、外側から。


 静寂の中、きらめく破片の向こうに、ハンとホーリーは見た。


 身をかがめて、車内の床に着地したひとりの女を。


 こんなスーツの秘書風女が、時速百キロ超で走るモノレールにどうやって?


 席を立ったハンの横を、ひとり、またひとりと逃げ出すのは他の乗客だ。尋常ならざる殺気に怯えたらしい。人流はしだいに太く激しくなり、しまいにこの車両内にはハンとホーリーだけが取り残された。例の無賃乗車の女は、おごそかに立ち上がっている。


 こちらを見つめるそのジュズの仮面……


 拳を握り締め、ハンはホーリーへ告げた。


「じっとしてな」


「うん。でもヤバいよ、あいつ?」


「汚い言葉遣いはやめるんだ……あたしみたいになりたくなきゃね!」


 次の瞬間には、ハンの姿は天井へ躍っていた。


 座席の背もたれに手を置くや、それを軸にいきなり側転したのだ。一気に五メートルの距離を詰めると同時に、ジュズ女へ強烈な踵落としを浴びせる。


 冷静に半歩だけ下がったジュズ女の前髪をかすめ、ハンの踵は床をうがった。お返しにジュズ女が払った無造作な腕の一撃を、ハンはさらに身を沈めて回避している。


 轟音……


 ジュズ女の顔面をもろに捉えたのは、対空砲のごときハンのハイキックだった。天井へ向いた蹴り足と、床についたハンの軸足はほぼ一直線になっている。ジュズ女には、まるでハンの背中から突然、蹴りが飛び出したように思えたに違いない。


 常人であれば恐らく、頭蓋骨の陥没は免れなかっただろう。もっとも、ジュズ女は衝撃でわずかに後退しただけだ。顔を押さえたその繊手の隙間から、ぱらぱらと破片がこぼれる。砕けたジュズの仮面だ。


 ジュズ女の掌が顔を離れるや、喉を引きつらせたのはハンだった。


 敵の相貌に見覚えがあったからだ。


「シ、シヨ? シヨなのかい!?」


 エージェント・シヨと同じ目鼻立ちをした女は、まったく返事をしなかった。


「…………」


 腰に差した拳銃のグリップを握ったまま、ハンは蒼白の面持ちで言い放った。


「あんた、バナンで死んだはずじゃ……」


「伏せて!」


 ホーリーのその警告がなければ、ハンはあっけなく引き裂かれていたはずだ。


 ジュズ女……シヨの腕に巨大なリング状の白刃が広がったときには、あたりの景色は斜めにずれ始めている。その神速の斬撃が、モノレールの一車両をまるごと横に断ち割ったのだ。


 異常を感知して急ブレーキのかかった車内を、粉塵と突風は吹き荒れた。線路のはるか下では、切り取られたモノレールの上半分が落ちて建物を叩き潰している。シヨのいる場所そのものも、かろうじて前後の車両にぶら下がって分解を止めている状態だ。


 居合いの姿勢からもとに戻ると、シヨは煙の奥を見渡した。間断なく車内を索敵するそのロックオンマーカーには、ハンとホーリーの反応はない。


 なにかの落ちるかすかな響きを、シヨは聞き逃さなかった。剥き出しになった曇り空のもと、モノレールの窓枠に片足をかけて下界を見下ろす。


 十メートル以上は下にあるビルの屋上に、ハンは転がっていた。必死にかばったおかげで、腕の中のホーリーにはかすり傷ひとつない。それと引き替えに、ハンには落下のダメージが大だ。肋骨の折れた脇腹を苦しげに押さえつつ、ホーリーの手をひいてビルの昇降口へ向かう。


 シヨの手は、すかさず太もものホルスターへかかった。あの必殺の飛び道具(レイザーディスク)だ。


〈ぎゃはは! 待て待て! 落ち着きたまえシヨちゃん! ウェイト!〉


 OS内へ直接入った通信に、シヨはぴたりと止まった。


 スコーピオンの口調は慎重だ。


〈そいつをやっちまった日には、大事なお姫様まで挽き肉になっちまう。アーモンドアイとヒトの合いの子……ホーリーちゃんは、唯一無二の貴重な成功例だぜ。D10には素質がある〉


 シヨは無言で、車内へ身を引っ込めた。


 黙って歩き始めたかと思いきや、突如、その手が霞む。複雑な金属音を残して、収納状態に戻ったのは可変式の円月輪チャクラムだ。


 スコーピオンは、興奮した声を漏らした。


〈素質があるんだ! 癒やしのお姫様から〝超加速の女王〟になる素質が!〉


 モノレールは今度こそ、ひとつ残らず地上へ落下した。その線路との連結を、シヨが容赦なく斬り裂いたのだ。痕跡はすべて消し去る。


 そして、だれの目にも留まらぬビルの窓辺……


 ホーリーに命を救われたあの蝶は、蜘蛛の巣に絡まって精一杯もがいていた。

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