「雪球」(5)
ほぼ同時刻……
小刻みに震える中年男の手は、クスリのふたを開ける動きも病的だった。
走る車窓に流れるヒノラ森林公園の眺めは穏やかで、空もよく晴れ渡っている。だが落ち窪んで隈の浮いた彼の瞳は実質、なにも見ていない。死んだ魚そのものだ。
覚悟を決めたように、彼はクスリの容器をくわえた。ひといきに口にふくまれ、ぼりぼりと噛み砕かれるのは白い錠剤だ。入れ物の注意書きに記された適量を、はるかに超えている。尋常ではない。
みにくく顔をゆがめたまま、彼はかたわらの缶コーヒーをもぎ取った。無糖のコーヒーといっしょに、口内のクスリをまとめて胃の奥へ流し込む。中身をすべて嚥下すると、彼は息も絶え絶えに、空き缶を車のドリンクホルダーへ叩き置いた。
その一部始終を見届け、ぽかんと口を開けるのは、となりの席でハンドルを握るエマ・ブリッジスだ。彼女はまだ、三か月前に殺人課へ配属されたばかりの新米である。
「おいしそうに飲みますね、ウォルター警部?」
「ガキのころ、マーブルチョコをこんな風に食わなかったか? ガキはしまいにゃオヤジになり、マーブルチョコはこの酔い止めのクスリになったってわけだ」
パトカーの助手席から、ウォルター・ウィルソン警部は暗澹たる声で答えた。ひどい二日酔いなのは明らかだ。ときおり漏れるしゃっくりから何から、とにかく酒臭い。
雨上がりの水滴にきらめく針葉樹の森林を横目に、曲がりくねった道路を走るのは複数台の警察車両だった。白と紺に塗り分けられた伝統的な車体には、鷲の刻印が大きく描かれている。鷲印の頭上を飾るS・K・P・D〝|サーコア市警察《SaKoa Police Department》〟の文字は、犯罪者が百歳超えの老人であっても見やすい。
パトカーたちは、都心部の科学捜査研究所を目指していた。エマとウォルターの乗る車を最後尾に連れて、さらに周囲を守るのは三台のパトカーだ。計五台編成と、厳重きわまりない。このような警戒態勢をしいて護送されるのは、殺害予告を送りつけられた政治家か、捕まった麻薬組織の幹部あたりと相場は決まっている。では、今回は?
パトカーに挟まれて走るのは、巨大な化学防護車だった。ウォルターも現場経験は豊富だが、殺人課の管轄でこんな物々しい代物と仕事するのは初めてかもしれない。
釣り鐘のように頭痛の反響する頭を押さえながら、ウォルターはうめいた。
「ところでよ、エマ?」
「どうしました、警部?」
「なにしてたんだっけ、俺?」
「別れた奥さんの存在も、そんな風に毎日忘れてたんですね……」
「たしかに子供の親権争いのとき、弁護士に俺のあることないこと吹き込んでたのは、見も知らん冷たい女だった」
「殺人ですよ、殺人事件。シェルター都市の最終防壁と森林公園の境目あたりで、ひどい変死体が見つかったんです。その遺体を安全に運ぶため、あたしたち殺人課も駆り出されたわけですね」
「森林公園……例の失踪事件が多発してるっつうのも、ここだな」
「はい。三月七日の夜、このあたりで大きな停電があったでしょ。原因は不明ですが。ちょうどその時間帯、最終防壁の付近から警察にいくつか通報がありました。あわせて五件ほど。要約すると〝森の奥が真昼みたいに明るい〟〝空が爆発した〟〝大きなボール状の宇宙服を着た怪物がうろついてる〟……あとは似たり寄ったりです」
「宇宙服ぅ? いまどきいるかよ、そんな変態野郎。おおかた酔っ払った田舎モンが、バスケットボールかなにかを見間違えたんじゃねえの? ボールをドリブルしてたのは、ただのバスケ好きの大男。森が光ってたってのも、あれだ。コートの夜間照明。停電してたって自家発電機さえありゃ勝負はできる。事件解決だな」
「最終防壁の近くに野外コートなんてありません。では遺体の右腕がもげてたのも、ファウル合戦のしすぎですね?」
「ちぎれてるのか、仏さんの片手?」
「通報を聞いて警察が駆けつけたときには、現場はいちめん焼け野原になってたといいます。そのくせ周囲の草木に火が燃え移った形跡はこれっぽっちもない。かわりにそこから十歩しか離れない雑木林で、一名ぶんの遺体が見つかった。遺体は、焚き木の燃え殻に思えるほど黒焦げの状態。おまけにその右半身は、きれいに欠損しています。おそろしく鋭利な刃物か、大口径の対物ライフルでも浴びたように」
「たいしたもんだ。死体は、火事の現場から十歩も離れた場所で見つかった。ガソリンをぶっかけられ、火をつけられる。おっと、右腕を引きちぎられるのが先か。そんな生き地獄を味わいながらも、被害者はとにかく逃げて這いずった。生きて、十歩ぶんも。必死に助けを求めて。なあエマ。化学防護車の保管庫じゃそろそろ、死体袋の中身が目覚めて手足をばたつかせてんだろ?」
「や、やめてください。その、あたし、ダメなんですよ。幽霊とか、ゾンビとか、ホラー全般。知ってるでしょ?」
「心配すんな。殺人課の管轄は人間だけだ。殺した人間と、殺された人間。はらわたをごっそり抜かれた死体とか、抜いたそれを朝昼晩にわけて食うバカとか……おっ?」
森林公園のカーブはきつい。パトカーの曲がる遠心力に振られ、ウォルターは腕組みしたままエマのほうへ傾いた。その頬は嘔吐感に引きつり、土気色の顔にはいやな脂汗が浮いている。F1レーサーの機敏さで窓際に身を寄せ、エマは愚痴った。
「吐いたら祟りますよ、もう。空でも見ててください」
「そ、そうする」
助手席の窓をすこし開けて、ウォルターは新鮮な空気を吸った。吹き込む風が、後退の進んだ中年の頭髪をもて遊ぶ。シェルター都市の天井に投影された作り物の太陽光に、ウォルターはまぶしげに目を細めつつ気づいた。
「〝虫食い穴〟だ」
「ちょうど遺体のあった現場の真上ですよね、あれ。遺体のまわりに散乱してた妙な金属片も、剥がれ落ちた天井の一部だとかなんとか。予想外の天井の故障。とつぜん空で鳴ったという爆発音の正体は、きっとそれでしょうね」
エマも上目遣いにした先、空はどこかおかしい。
本物そっくりに漂う綿雲の映像は、宙のある一点に差しかかるたび、電子的な砂嵐と化して不自然に途切れてしまう。硬い特殊複合金属にナノマシンやプラズマ粒子もろもろを幾層にも重ねた天井部は、超巨大なスクリーンそのものだ。それがなんらかの不具合を起こした際に見られる現象が、天に穿たれたこの〝虫食い穴〟だった。
政府による修繕が追いつかず、ごくまれに頭上に生じる珍しい光景を、サーコアの市民は〝虫に食われた〟と皮肉る。皮肉とは、その故障箇所に群がる黒い粒のことだ。おびただしい節足で天井に取りつき、あるいは吸着式のキャタピラ等で上下逆さまに這う工事用の重機たちは、遠目からは文字どおり無数の虫にしか見えない。政府に手配されたその工作機械たちこそが、生存圏をおびやかす風穴を頑張って修復している。つねに風速百メートル以上の猛吹雪に叩かれる氷河期の地獄を、文明社会とへだてる防壁はひどく脆くて薄いのだ。
化学防護車の尻に視線を戻し、ウォルターは笑った。
「いったいなにを運んでやがるんだ、科捜研の連中は?」
「警部の記憶がニワトリ並にもたないことは、よくわかりました。なんどでも説明しましょう。さ、耳をかっぽじって。死体ですよ、変死体。数日前の大停電の晩、シェルター都市の最終防壁とヒノラ森林公園の境界線あたりで……」
「ピヨピヨうるせえぞ、ヒヨッコが。ただの変死体ごときを運ぶためだけに、あんな豪勢な特殊車両が呼ばれると思ってんだな? ん? さっき見たろ、科捜研のやつらがすっぽり収まってた防護服を。それこそ宇宙飛行士か金星人だ。あんな重武装がいるのは、やべえ細菌やら放射能をまきちらす〝なにか〟を見つけたときぐらいだぜ」
「遺体の保管ケースはたしかに特別仕様でしたが、中身が人間のもので間違いないことはこの目で確認しましたよ?」
「これだから頭のニブい警察の馬車馬は……キャリアって名前のニンジンのせいで、右も左も見えてねえ。刑事の勘ってやつを養え。ひたすら養え」
「そうカッカせず。また血圧で引っかかりますよ、健康診断?」
ウォルターは無造作に、懐からなにかを抜いた。
ジッパーつきの薄いビニールケースだ。ふつうの証拠品袋とはやや違う気がする。
それより、ケースの中に透けて見える物体はなにか。ネックレス状の鎖にぶら下がった金属片……その表面は高温にさらされたように焦げて黒ずんでいる。得意げにウォルターが陽光に振りかざすそれを、エマは目を丸くして注視した。
「その形、どこかで見たことがありますね。軍隊の認識票、ですか?」
「正解だ」
「だれのです?」
「死体のだよ。おまえの大好きな焼死体の」
「ふうん」
納得して、エマは運転に意識を戻した。戻したかと思いきや、ものすごい勢いでウォルターを二度見する。
「盗ったんですか!?」
「そうカッカすんな。老いも若いも、別け隔てなく脳梗塞にかかる時代だぜ……呼ぶだけ殺人課を呼んどいて、ただ科捜研の警護をさせられるのも癪だからよ。あいつらが機材とかの積み込みを始めたとき、手伝うフリしてこっそり拝借した。消し炭になったその身分証明証、ちょいと薬にひたして磨けばあら不思議。被害者か、もしかしたら犯人の身元に早変わりだ」
「あの、警部。質問。ひとつ質問。危ない細菌とか、放射能の件は?」
気づけばエマはまた、運転席の端の端まで重心を移動させていた。無論、狭いパトカーの車内に逃げ場はない。
「ふむ」
ひとり首肯すると、あろうことか、ウォルターはくだんの証拠品袋をエマの膝元に放った。置かれた爆弾を避け損ね、全身全霊で怒気を表現したのはエマだ。
「ちょ、このクソオヤジ!?」
「い~い歌声だ。安心しな。そのポリ袋も、科捜研ごようたしの特殊なやつだぜ。へんなもんが漏れたりはしないはず。たぶん」
「たぶん!? たぶんじゃねえぞハゲ! まったく! まっっったくもって安心できねえ! 心が安らがねえ!」
ひととおり暴れると、エマは萎えた表情で証拠品袋をつまみ上げた。その表面を用心深く鼻で嗅ぐ。においだけなら、ただちの危険はなさそうだ。
「どう考えてもこの認識票、事件の最重要の証拠品じゃないですか。そんな代物を、盗む同然に借用したことがバレたら……」
「借用、借用ね。いいこと言った。盗んだときと同じように、どさくさに紛れて最後に返しゃいいってことだろ。だな。洗いざらい調べたお礼にピカピカに磨いときゃ、科捜研のやつらも許してくれるよ」
「あと一歩で事故るとこでした……」
前方、パトカーが宙返りしたのはそのときだった。
「え?」
とっさにハンドルを切るエマだが、もう遅い。
きりもみ回転しつつ飛来したパトカーに、中央の化学防護車は巻き込まれている。九十度横へスリップしたその側面へ突入したのは、後続の二台めだ。とんでもない勢いで前のパトカーに乗り上げ、一瞬だけ片輪走行を披露した三台めは、そのまま横転して裏返しになった。とどろく激突音、飛び散る赤や青の破片。道ぞいの樹木に頭からめり込んで止まったのは、ガードレールを破壊したウォルターたちのパトカーである。
断末魔を思わせるクラクションの悲鳴だけが、人気のない森に響き続けた。さっきまでの行軍が嘘のように、五台構成の警察車両たちはただ煙をあげて沈黙している。
「…………」
大惨事に見舞われた道路の真ん中に〝そいつ〟はいた。
いままさにパトカーが通り過ぎた場所に片膝をつき、謎の人影はまっすぐ横に右腕を伸ばした姿勢で動かない。頭頂から爪先まで人影を鎧うのは、真っ黒な覆面とボディスーツではないか。そいつの周囲には、不可解な火の粉と白煙がまだ消え残っている。立ちふさがるこいつとパトカーが交錯した刹那、事故は起こったのだ。
正体不明の襲撃者の背後に、音をたてて何かが跳ねた。おお、パトカーのタイヤだ。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。中央から見事に泣き別れたタイヤは、おかしなことに切断面を赤く灼熱させている。
人影の足跡にそって、道路にちろちろと燃えるのは炎の軌跡だった。信じられない。猛スピードで走るパトカーのタイヤは、この人影の手によって斬り裂かれたようだ。
ところかわって、コースアウトしたウォルターたちのパトカーは。
クモの巣みたいにひび割れた正面のガラスに、落ちた木の葉が舞っている。衝突で開いたエアバッグを押しのけ、刑事ふたりは揃って星のちらつく頭を振った。苦しげに懇願したのはウォルターだ。
「よ、酔い止め持ってないか、エマ? 大麻でもコカインでも、生理痛薬でもいい」
「しょ、署に問い合わせてみます……」
無線機に手を伸ばしかけたエマが、運転席から消えるのは唐突だった。
あっという間に何者かが、彼女をパトカーから外へ引きずり出したのである。悲鳴はない。呆気にとられるウォルターの視線の先、きりきり宙を躍るのはパトカーのドアの一部だ。半分に断ち割られた防弾素材の切り口は、やはり真っ赤に燃えていた。
「畜生ッ!?」
叫ぶが早いか、ウォルターは助手席側から外へ飛び出した。コートを翻しつつ、芝生を一回転。エマがいたはずの運転席めがけて、流れるように拳銃を跳ね上げる。
なにもない、だれもいない。ウォルターに蹴り開けられたパトカーの扉だけが、いやな軋みを残して前後に揺れている。
ときおり何事か知らせを漏らす車載無線だが、ここと無関係なのは悲しい。同時に、頼みの綱の通信手段に、ウォルターが飛びつくのを待つ者がいた。つまり罠だ。敵の。
息を殺して、ウォルターは銃口ごと横へ向いた。かすかに声と物音がしたのだ。が、襲撃者ではない。天地逆になったパトカーから這い出した制服の巡査は、大の字に伸びて気を失っている。どの車を見ても、もはや動く気配はない。ウォルターひとりを除いて。
静寂だけが流れた。
「エマ……返事しろ」
ささやいたウォルターの耳は、枯れ枝の折れる音を聞いた。すぐうしろだ。
銃声、銃声、銃声……
森から空へ、鳥の群れはいっせいに飛び立った。色とりどりの羽が、雪のように舞い降りる。生存本能がまともであれば、もう二度とこの近辺には戻るまい。
「~~~ッッ!!」
がっくり膝をつき、ウォルターは地面に崩れ落ちた。
同時に、見よ。その背後の針葉樹までもが三本、まとめて斜めにずれたではないか。木の倒れる地響きが、あたりを震わせた。なかばから輪切りにされた幹の表面は、これもまた紅蓮の焔に包まれている。
気絶してもなお、ウォルターは警察支給の拳銃を手放さなかった。もっともその銃身は中央から両断され、いまだ鉄の溶ける輝きをこぼしている。パトカーのタイヤや樹を襲ったのと同じく、超高熱の溶断器に焼き切られた状態にそっくりだ。
「…………」
当て身に倒れたウォルターの頭上、襲撃者は静かにたたずんでいた。
縦一閃に振りきった片腕を、ゆっくり下へおろす。おろすや否や、ぽろぽろと地面に落ちた光はなんだ。ウォルターの拳銃の残り半分と、溶けてひしゃげた三つの弾丸だった。
立て続けに生じた驚くべき切断現象は、やはりこの襲撃者の仕業だったのだ。だがいったい、どんな方法をもって、どれほどの超スピードで?
その秘密はどうやら、襲撃者から漏れる火花と紫煙にあるらしい。煙からはなぜか、荷電粒子式ロケットブースターの炎に焼かれた酸素の薫りがする。
風に揺れる森のざわめきを背景に、襲撃者は片腕を持ち上げた。覆面に隠れた襲撃者の瞳に、銀色の腕時計が反射する。あの秘密機関のトレードマークだ。特集情報捜査執行局〝ファイア〟……政府の闇には血も涙もない。
時計に語りかける捜査官の声は、鋼のように冷たかった。
「エージェント・ジェイス。対象を確保」
その間にも組織の刺客……ジェイスの周囲には、重武装を帯びた政府の兵隊が雨あられと降り立っている。一糸乱れぬ戦闘員たちの手の中、空から蛇さながらにのたくるのは強靭なロープだった。ロープをさらに上へたどれば、森林公園の空でうなりをあげるのは戦闘輸送ヘリの機影だ。
ジェイスの通信の向こう、課長のネイ・メドーヤは淡白に答えた。
〈ごくろう。十分で合流する〉
「通信終了」
転倒した化学防護車めがけ、忍装束の暗殺者は無言で歩き始めた。




