「雪花」(4)
組織による〝帰還者〟の拉致じみた強引な勧誘活動は、昼夜を問わずシェルター都市のあちこちで繰り広げられた。
特別編成の調査隊の頭数が八十九名に達してから、およそ十二時間後……
かくして帰還者たちは、政府の大型戦闘輸送航空機〝アイホート〟になかば監禁される形で、ふたたび故郷を旅立った。
ほとんど会話のない客席で、生贄の乗員たちが考えることは様々だ。思わず卒倒するほどの高額な報酬に、過去との正対や復讐心、凄まじい恐怖と絶望、その他……
シェルター都市サーコアから南へ約五千キロ。
廃棄都市バナン……
ここが一級の金融街だの、戦後復興の象徴だのと人々がにぎわったのはいつの頃だったろう。
割れたショーウィンドウに、白い雪粒はとめどなく吹き込んでいた。そこかしこに氷片を積もらせたマネキンの服装は、そのときブティックのイチオシだった春物だ。ただ、その木製の繊細な指先が示し続ける空には、もはやどす黒い曇天しかない。
無人の高層ビルの下、怪物の舌のごとく切れ曲がるのは当時最新を誇ったモノレールの線路だった。ひび割れた道路に動くものといえば、吹雪に流されたリゾート地開発のポスターぐらいのものだ。
働くのをやめて久しい時計塔の秒針を、まれに軋ませるのは雪の重みだった。その儚げな音色は、いくつもの昔を懐かしんでいる。スクランブル交差点に、戦歩のごとく往来するビジネス人たちの靴音を。すでに枯渇しきった運河の土手、夕暮れ時に決まって愛犬とともに駆け走る少女の残影を。
いまはもう、すべてが静かだった。
「……うるさい」
ぼそりと独りごちたのは、モニカ・スチュワートだ。
完全武装に身を堅めた大勢の予想に反して、アイホートの着陸後、バナンで調査隊を出迎えたのは降雪だけだった。凶暴な野獣などどこにもいない。ここにいただろう生物がすべて死に絶えたという組織の情報は、嘘偽ではなかったのだ。
バナン入りからわずか八時間あまりで、調査隊は目的物のひとつを発見していた。
自爆したという機械人形、エージェント・シヨの絶対領域だ。小指の爪サイズの彼女の記憶媒体は、頑丈な外殻に守られて奇跡的に滅失を免れた。それが放つ固有信号は文字どおり虫の息で、探り当てるまでの忍耐や苦労は並大抵のものではない。
その極小の内蔵メモリーを慎重に回収しながら、ぶ厚い防寒着のモニカたちは見た。あたり一面を広く深く覆い尽くす崩壊の円痕を。この聖戦とも呼べる爆破こそが、自分もろとも未知の外敵を事前に根絶やしにしてくれたらしい。
もっとも、ここにある装備で絶対領域の中身を覗き見ることはできなかった。内部を解析するには、サーコアにある組織の専用機器が必要だ。何者かとの交戦を含めた重要な履歴の数々は、闇市場に切り売りすれば大儲けになる。政府は帰還者を信用していない。自爆した彼女の思い出は、ただ指定の保護ケースに入れて持ち帰れとの命令だ。
「うるさい」
所変わってここは、調査隊の司令本部……
比較的に損傷の少ない元市役所を、簡単に改装した一時拠点だ。持ち込んだ自家発電機のみで灯る照明のせいで、室内どころか雰囲気まで薄暗い。荒れたオフィスの棚という棚には、多くの機材が星空のごとく明滅している。
「うるさい、うるさい」
ぶつぶつ怨嗟するモニカのデスク周りでは、他の隊員たちの喋り声と足音が遠慮なく飛び交っていた。いざ命の危機が去れば、帰還者たちも元気なものだ。パソコンのマウスをカチカチするモニカの手が、ご機嫌斜めなのも頷ける。
正気を疑わんばかりにモニカの瞳は充血し、隈もおびただしい。仕事中毒の教科書そのものだ。気休めていどに暖房は効いているとはいえ、包帯を巻いた指が寒さにうずいて仕方ない。傷を何針縫ったかは、痛み止めの飲み過ぎで忘れた。
知性豊かなモニカのメガネには、パソコンの吐き出す情報の嵐が躍っている。
羽織った白衣と同じく、モニカの溜息は白い。灰色のノイズとともに、モニターの映像をせわしなく巻き戻す。
〈こちらバナンの廃墟、ハートリーです。オルドハウスさん、スタジオからもご覧いただけますか?〉
モニカが見つめる映像の中、壮絶な爆心地を背景に、防寒着とヘルメットを装備したレポーターは必死にマイクを握った。エージェント・シヨの自爆の痕跡に間違いない。つまりこの記録は、爆破の直後に撮られたものだ。
〈あ、危ない! いまだ不規則に噴き上がる高熱の蒸気に邪魔され、スタッフもなかなか事故の現場に近寄れません〉
ものものしいスノーゴーグルの視界は、リポーターの呼吸の水滴に曇っている。絶え間なくカメラを叩く凍結した斑模様はもとより、電波の乱れもひどい。
〈政府の見解によれば、長期間に渡って放置された燃料施設内部の腐食が、今回の大爆発の原因とのことです。しかし、徐々に究明される真相とは裏腹に、各機関からは政府の安全対策の怠りを指摘する声も高まっています〉
激しい吹雪を吸ってしまい、リポーターは肺を痙攣させた。
〈バナンにおける今回の騒動を、政府は偶然の現象と説明しています。ですが現場の疑問符としましては、それなりに新しいと思われる空薬莢や血痕など、なんらかの戦闘が行われたとしか考えられない複数の物証が残されており……〉
暗黒のどこかから、かんだかい遠吠えが聞こえたのはそのときだった。
絞め殺される豚そっくりの鳴き声だ。この世のものとは思えない。リポーターのマイクに雑音が紛れ込んだのか?
いや、違う。雄叫びは、たしかに実在した。現にリポーターから見切れたカメラは、横倒しになった建物の闇や、かすかに揺れる廃車のドアを、一足飛びに捉えている。
〈なんでしょうか、いまの音は? 野生の動物? とにかく我々スクープ班は、このまま各ビルの内部まで潜入したいと……〉
泥溜まりへ、なにかを突っ込んだような響きが聞こえた。
ぐしゃ、と。
〈え?〉
あぜんと固まったリポーターを外れ、カメラの画面は強くぶれた。
カメラが映すのは、驚きに尻もちをついたリポーター、曇り空、雪の白線、血、血、飛び散る肉片、といった順番だ。獲物の体を食いちぎる人食いザメの視界は、きっとこんな感じに違いない。
揺れは収まった。今度は、カメラが乱暴に持ち上げられる。
ひび割れた画面は、腰を抜かして後退するリポーターと、機材を捨てて逃げる関係者たちの背中を見下ろしていた。こんな高さから撮影するには、脚立に乗るか、そう、信じがたい巨漢にでも肩車されないかぎり無理だ。
あるいは、引きずり上げられているのか。何者かの牙に。
〈~~~ッ!〉
リポーターの絶叫を最後に、モニカの眺める映像は砂嵐と化した。
ぬくもりを食らう吹雪ばかりが餌を求めてさ迷うここ、バナンの廃墟を原因不明の大爆発が襲ってから数か月が経つ。半径にして約十キロという地盤の陥没は、自然のしわざにしては容赦がない。
もちろん原因不明というのも、政府を除いた世間一般の認識だ。あの爆発がエージェント・シヨの自爆した結果であることは、組織をはじめとした帰還者の全員が知っている。
とは言うものの、極秘の特務機関の手先であるエージェントは、そうホイホイ自爆したりはしない。よほど絶望的で解決不可能な〝なにか〟に出くわしたときでもない限りは。
組織さえもがその〝なにか〟を掴みかねていた時期、死の都バナンへ我先にと殺到する集団があった。
スクープに飢えたYNKニュースの報道陣である。
不便なシェルター暮らしでストレスの溜まった市民にとって、政府の糾弾ほど受けて売れるネタはない。普段であれば事実はいつもどおりに組織が隠蔽し、穏やかに終息へ向かうはずだった。廃墟の管理元であるサーコア政府が事故の責任を求められ、求められた政府は素直に〝不備による事故〟と認めて謝罪会見で頭を下げる演技をする流れだ。
しかし、今回はそう容易くはいかなかった。
報道陣が失踪したのだ。突如として、ひとり残らず。
ニュース社のスタッフ一同はなおのこと、陸軍の案内役、旅客機の乗務員等々、行方不明者は軽く見積もっても百名は下らない。奇怪なことに、大量の衣服や胃腸の切れ端を残しながら、まとまった死体がひとつたりとも発見されないではないか。
気づく者はいた。
ただ皆が皆、あえてそれを口にしなかったのは、超低温の恐怖が背筋を撫でたためだろう。特に帰還者たちは思った。あのときと同じだ。十数年前、隆盛を極めたバナンの生命を襲った惨劇と。とはいえ悪夢は悪夢のままで、心配は杞憂に終わったらしい。
事務椅子に仰け反り、モニカは大きく背筋を伸ばした。強張った骨と筋肉が、快音とともにそこかしこで弾ける。
「まだ足りないわね、映像の修復は」
目頭を揉んでうなると、モニカは書類が山積みの机を掻き分けた。
無造作に投げ捨てられた紙くずの奥底には、色とりどりのサプリの錠剤や、栄養ドリンクの空き瓶が大量に散らばっている。薬の助けがいるのだが、これではない。もっと強いのを持ってきたはずだ。
こんこん、と音がした。間仕切り用の簡易な壁を、だれかがノックしたのだ。
「失礼しま~す。手のお具合はいかがです、スチュワートさ……」
中性的なソプラノは、尻すぼみに途切れた。
入室してきた白衣の若者……ヘリオの笑顔を、モニカは拳銃で狙っている。掌サイズの護身用リボルバーだ。音をたてて撃鉄が落ちる。弾は入っていない。
脅えて首をすくめるヘリオを、モニカは冷たく切り捨てた。
「自分の手術ぐらい自分でできる。出てって」
「くくく……」
ヘリオの忍び笑いは寂しげだった。医療バッグごとお手上げして、取り繕う。
「話し合いのチャンスをください。踏まれても踏まれても起き上がる健気な雑草……スチュワートさんの主治医が、ここへ着くまでに辿った厳しくも険しい道のりの物語を。死の顎を開くクレバスの恐ろしさを」
「そっちの棚だったかしら、銃の弾?」
社会に対する体裁上、モニカたち帰還者のバナンへの派遣は、神隠しに遭ったYNKニュースの人命救助という名目になっている。スクープ取りがスクープと化したこの事態を重く見た政府が、正義の腰を上げた綺麗な見え方だ。
ただ、救助隊に列するメンバーの肩書を細かく知る部外者はいない。いたとすれば、隊の編成の不自然さに気づいたはずだ。
遺伝子学者のモニカを筆頭に、動物行動学、地質学、物理学、その他、同行する専門家の分野は多岐に渡る。頭を使う以外の仕事も考慮して、岩盤掘削や爆破解体それぞれのプロに加え、さらにはテロリスト予備軍の傭兵等々も揃い踏みだ。それらの所属を詳しく調べれば、どれも政府の下請け会社や出資先、そして元バナン市民である帰還者へと行き着く。
〈~~~ッ!〉
ふたたびモニカの部屋にこだましたのは、消息の絶えたリポーターの悲鳴だった。細い顎に指をあて、ヘリオも興味深げにモニターへ食い入っている。
「ほう。なんの教養番組かと思えば、回収したカメラの記録じゃありませんか?」
「そ。サーコアに送信された撮影データの原本は、政府が即座に取り上げて封印したわ」
バナンに到着してから、今日ではや二週間が経過しつつある。霜焼けや古傷の看病、それにモニカのコーヒー汲みとサンドバッグ係は調査隊専属医のヘリオが担当していた。
絶対領域と例の撮影記録の発見以降、目立った進展が見られないのは大きな問題だ。肝心な〝花〟のサンプルがどこを探しても見つからない。あとはそれさえ入手すれば、はれてサーコアへ帰れるというのにだ。
それでも、一部の帰還者たちは武器の手入れに余念がない。いざ口にくわえた銃が、ここぞの場面で動作不良など起こしては堪らないからだ。
帰還者……ここを滅亡させた〝花〟の災厄から、幸運にも近隣都市のサーコアへ逃げ延び、またいつかはバナンの地獄へ帰るだろう人々を差した蔑称だ。モニカ自身も、その帰還者のひとりに他ならない。
何度も巻き戻しされる映像を、ヘリオは偉そうに評した。
「この氷河期の環境に耐えたとは、優秀な強度のデータです。しかしまあ、どうにかなりません? この画質の悪さ?」
「よく喋る口ねぇ?」
ささやいたモニカの手もとで、なにかの割れる硬い音がした。
ヘリオが注視した先、おお。モニカの指は、キーボードにめり込んでいる。つねに笑っているような表情を、ヘリオは蒼白にした。
「む、むごい……シフトキーが死んでます」
「問題ないわ。キーは左側にも残ってる。人間で言うところの、腎臓ね」
モニカは腕を振った。ちぎり取られた利き手側のキーが、山盛りのゴミ箱に当たって床を跳ねる。
子犬のように後退ったヘリオの背中は、壁にぶつかった。モニカの周囲には、すでに不可視の刃にも似た殺気が生じている。
「映像の復元までにかかった時間や手間を知れば、男女くん。きみも進んで、この天才の靴を舐めたくなるはずよ」
「そうします」
「実際にデータは水分と……血でズタズタだった。やめて、なにすんの。気持ち悪い。近寄らないで」
日課の診療は始まった。
ヘリオに包帯を解かれた細腕は、どこか機械じみた丁寧さで消毒されていく。ヘリオの医療バッグから数種の薬を勝手にくすねつつ、ふと、モニカは静止状態のモニターへ顎をしゃくってみせた。
「これ、なんだと思う?」
蒸発したカメラマンが捉えた束の間の一コマ……崩れたビルの窓から覗くこれはいったい?
ピントがずれているためか、それはただの吹雪の渦巻きにも見える。だが少し目を凝らせば、巨大な人影と言えないこともない。だとすれば、大きく開いたワニの顎を何十枚も張り合わせたような怪しい形状だ。
眉根を曲げ、ヘリオは難しい面持ちをした。
「さて。人……なわけはありませんよね?」
「そう、ありえないわ。もしそれが事実なら、組織のエージェントが自爆したあとも、まだ標的が生き残っていたことになる。爆発で瀕死の状態か、さもなくばエージェントが倒した以外にももっと沢山の個体がいたか」
「それならとっくに襲われてますよ、私たち。調査隊のセンサーも私たち以外、他になんの生物反応も探知してません」
「時間の経過からしても、ダリオンの遺伝子に組み込んだ自壊プログラムはすでに作動してるわ。でも政府の事前の説明会でも聞いたでしょ。対象は独自に発達を遂げ、みずからを乾眠状態に置いてる可能性があるって。だとすれば、やつらはきっかけを待ってる。やつらが冬眠から目覚めるための、なんらかの引き金を」
「ひえ、やめてくださいよ。専門家のスチュワートさんまでそんなこと言ったら、本当に……」
「ふふ、冗談よ。そんなに怖がっちゃって」
ラベルの端に〝精神~〟と見えるビンの中身を、モニカは一気に嚥下した。あっけにとられるヘリオを尻目に、ばりばりと噛み砕く。ラムネ菓子に違いない。
ぬるいコーヒーで口直しをすると、モニカは座った眼差しで問うた。
「ヘリオ。きみはバナンに招待された側? それとも、した側? このサーカス団に紛れ込んでるエージェントの数は何人?」
空気の漏れる鋭い唸りを聞き、モニカは咄嗟に顔を上げた。
天井の片隅にわだかまる暗がりで、ゆっくり開閉を繰り返すのは肉色の花弁だ。凍えた鉄骨にぶら下がったまま、じっとこっちを眺めている。
遠くおぼろに、ヘリオの慌てる声が聞こえた。
「スチュワートさん! スチュワートさん! これはいけません。手が震えてます。薬の過剰摂取によるショック症状ですね」
頭痛の閃光に、モニカはきつく目をつむった。ふたたび瞼を開けたときには、怪物の姿は影も形もない。眼前には、モニカを揺り起こすヘリオの心配顔があるだけだ。
「血色が優れません。呼吸は荒く、動悸も早いです。すぐにベッドへご案内しますね」
「……年下かァ」
「は?」
「なんでもない。さすがに調子が狂うわね、半月間ずっと起きっぱなしというのも。わかった。睡眠薬を飲んで、ちょっとだけ寝るわ」
「それがいいでしょう。ただし飲み過ぎには要注意ですよ?」
「はいはい」
頭を振って意識を保ち、モニカは横を見た。顔を戻して一瞬考え、またそちらに振り向く。モニカの瞳は剥き出しだ。
建物の壁かと思いきや、違った。驚きを通り越して意味不明なまでの巨体は、やや呆けた表情で天井を眺めている。ついさっき、モニカが幻を目撃した場所だ。
天井と大男を交互に見ながら、首をかしげたのはヘリオだった。
「お疲れ様です。みぞおちの打撲はまだ痛みますか、ロドリゲスさん?」
常夏の島からワープしてきたみたいに、汗だくの巨体からは蒸気が立ち昇っている。ほどなく視線だけをモニカへ落とし、ドルフ・ロドリゲスはたずねた。
「なに見てる? このオタク女?」
「こっちのセリフよ、原始人。建築の基準からして、あんたみたいなのがそこに建ってるのはおかしい」
せいいっぱい背伸びし、ヘリオは何事かドルフへ耳打ちした。
「ロドリゲスさん、どうか穏便に。本当の性格は素晴らしいんです、彼女。くくく、頭と体だけじゃなく」
ヘリオのアキレス腱を、モニカのローキックが直撃した。あんがい硬い。片足立ちで飛び跳ねるヘリオへ、モニカは早口にうながした。
「このまま上から見下されるのも癪だわ。ヘリオくん、イスの用意よ。三つ、いえ五つ」
「痛たた……私の席を譲りましょう。さ、スチュワートさんも早く立って」
ぶちぶちぶち、と配線の引っこ抜ける音にすくみ、白衣のふたりは硬直した。
いっせいに床へ雪崩落ち、分析機器の数々は火花をあげて沈黙している。道路の標識より広いドルフの掌が、高さ二メートルを超える棚を優しく横に寝かせたのだ。空気を圧してそこへ腰掛けたドルフの下で、スチール製のそれが嫌な軋みを漏らす。
大砲のような鼻息をつき、ドルフはふたりに断った。
「おかまいなく」
火器や工機を抱えたまま、あたりの隊員たちも思わず足を止めていた。今にもはち切れかねない迷彩服のドルフの片腕が、ひょいと上げられるのを見た途端、夢から覚めたように右往左往を再開する。大した統率力だ。ヘリオはといえば、痛む足をさすりつつ、床に散乱した破片をホウキで履き始めている。
よみがえった喧騒を背景に、ドルフはモニカと対峙した。
「モニカ・スチュワート博士。あんたが責任者と聞いた。こっちの」
赤ん坊の胴体ほどもある人差し指で、ドルフは自分の頭を示した。気のせいか、似たようなやりとりを大学の講堂でした覚えがある。
モニカは皮肉った。
「不本意だけど、そうらしいわ。ドルフ・ロドリゲス隊長。水先案内人が元海兵さんだなんて、うってつけな人員配置だと思わない?」
これ見よがしに作った力こぶ……というより筋肉の装甲を、ドルフは軽く叩いた。キャッチャーミットへ、硬式ボールが突き刺さるような響きが返ってくる。
「ああ、こっちの責任者は俺だ」
「…………」
なんとはなしに用意したコーヒー豆のビンの中身が、カップに黒い山を作るのに当のモニカも気づかない。ホレた。威嚇に成功したと勘違いし、ことさら声を低めたのはドルフだ。
「いま、この役場跡の周囲を見回った。運動不足の解消もかねて、そうだな、駆け足で軽く百周ばかり」
「虎のバターにしては筋っぽそうだわ」
「俺は真面目な話をしている」
ドルフが指差した方角を、モニカとヘリオは二人揃って見上げた。鋼鉄の指先がそのまま真っすぐ進めば、上階への太い覗き穴が開いたに違いない。
遠雷さながらに、ドルフは質問した。
「屋上でこそこそ動いてる連中、あれは博士の差し金だな? 吹雪で顔までは見えなかったが」
「屋上?」
すっとんきょうな声を発したのはヘリオだ。冷静にメガネを正し、モニカは問い返した。
「十階建ての市役所の屋上がよく見えるわね。風速百メートルのそよ風が吹く場所でバレーボールしてるのは、OL? サンタさん? おっと、もしかして……」
「隠す必要はない。おおかた室外機の修理にでもやったんじゃないのか?」
「いや、だからね。非科学的にもほどが……」
「寒いのはわからんでもない。だがそれならそれで、隊長の俺に作業届の切れ端でも出すのが常識というものだ」
頭痛の甦った額を押さえ、モニカは嘆いた。
「ああもう、脳までダンベル運動のし過ぎ?」
ドルフの腰の無線機が、雑音を吐き出すのは突然だった。
〈……り返す! 不明の乾眠サンプルを発見! 乾眠サンプルを発見! なお接触に際して怪我人発生! 怪我人発生! 現在地は本部から南西へ五キロの病院前広場……〉
途切れ途切れの音声だが、あたりの隊員たちが静まるには十分だった。
「本部了解。ただちに急行する」
ドルフが返事をした無線機は、誤飲してしまいそうなサイズに縮んで見える。
肩に力を入れ、固唾を呑んだのはモニカだ。
「乾眠状態のダリオン……まさか本当に現存しただなんて!」
皆が耳を澄ます中、ヘリオは壁の地図を指で叩いた。
「怪我人が出たもようです。私も出番ですね。病院跡……この位置からなら輸送機のほうが近いです。道中で収容して、機内の医務室へ搬送しましょう」
にやりと、ドルフはヘリオへ笑いかけた。
「決まりだ。成功すれば皆無事で帰れる。腕の見せどころだぞ、お嬢ちゃん?」
「やめてください、その呼び方……」
あいまいな顔つきで、ヘリオは言い返した。笑っているのか、怒っているのか。
ドルフはまた、無線機に唇を寄せた。
「こちら隊長のロドリゲス。怪我人の数と容態を知りたい」
だが今度は、どれだけ待っても応答はなかった。




