「雪明」(9)
揺らめく炎のずっと遠くで、一台の車が急発進するのをジェイスは見た。
警察の覆面パトカーに擬装したスコーピオンのワゴンだ。
「ぎゃは! パねえ!」
思いきり中指を突き上げ、運転手のスコーピオンは舌を出した。
その後部座席の窓から、なにか訴えたげな眼差しをジェイスへ投げかける女がいる。包帯の猿ぐつわを噛まされたエマだ。
ジェイスのタクシーの真横にワゴンを駐車したことは、スコーピオンの単なる気まぐれにしか過ぎない。いまやタクシーは四輪とも銃に撃ち抜かれて役に立たず、近くにいたエマも捕らえられて手足を縛られている。
ジェイスの行動は迅速だった。
「…………」
手酷く破壊されたジュズの操縦席から、息も絶え絶えに這い出すのは恐ろしい外見の生物……異星人だった。痩せっぽちで低身長の体に対して、その頭部と瞳はいびつなまでに大きい。普通であれば、目撃者は悲鳴をあげて卒倒していたはずだ。
だが、ジェイスは違う。ところどころ焦げて弱ったアーモンドアイへ早足に接近するなり、その喉首を容赦なく掴み上げたではないか。
宇宙の深淵が詰まったどす黒い瞳を冷視しながら、ジェイスは質問した。
「行き先は?」
「……!」
首を絞めるジェイスの握力に命の危機を覚え、能面のごときアーモンドアイの表情は引きつった。
地球外生命体は、必死に何事かを説明している。ただ悲しいことに、それは人類の可聴域を超えて甲高いノイズとしか形容できない。
「…………」
余ったジェイスの腕は、無言で拳を結んだ。ふたたび手から肘にかけて展開したブースターが、見せつけるように荷電粒子の熱波を吐き始める。
さしものアーモンドアイも、言語を翻訳する必要性に気づいたらしい。つぶらな唇から漏れるノイズは徐々に速度と焦点を合わせ、ジェイスの耳にこう届いた。
「ちょ、待、勘弁してくんろ、あっしが悪かったべ……」
油でも差したように、アーモンドアイの説明は饒舌だった。スコーピオンの狙いから目的地まで、喋る喋る喋る。ジェイスの肘から、多角式推進装置の火は収まった。
じぶんは単身赴任の身で、他星の故郷に帰りを待つ家族がいるという話題に移った時点で、ジェイスはとどめの鉄拳を振り下ろしている。もう用済みだ。アーモンドアイは気を失った。
「…………」
たまたまジェイスのそばを通りかかったのは、レースレプリカの大型バイクに乗った市民だった。運転手はなにも事情を知らない。まっすぐ横へ伸ばされたジェイスの腕に、その首がラリアットの形で引っかかる。
ジェイスに運転手を奪われ、流線型のバイクはけたたましく転倒した。一方、ひとつ宙を回転したツナギ姿の走り屋は、静かに道路へ降ろされている。どんな秘術を用いたものか、怪我ひとつない。
「…………」
あっけに取られて尻もちをついた運転手を残し、ジェイスは黙々とバイクを引き起こした。ハンドルを握り、遠慮なくシートにまたがる。そのスーツの手足は、なぜか焼け焦げてボロボロだ。
バイクの持ち主であるモニカ・スチュワートはふと我に返った。ヘルメットを脱ぎ捨てて怒鳴る。
「なにあんた!? 警察呼ぶわよ!?」
「…………」
アクセルを吹かして重低音を耳で確かめると、ジェイスはメガネの女を顧みた。鋭い視線にひるんだモニカへ向けて、傷ついた金色のバッジを掲げる。刑事の忘れ物だ。
ジェイスは答えた。
「そうしろ」
ジェイスの巻き起こした突風から、モニカは顔をかばった。
バイクが一瞬ウィリーしたかと思いきや、テールライトの軌跡は遥か百メートル遠方に消えている。とあるテロリストの逃げ道を追尾し、エンジン全開だ。替えのスーツを買うにしては、服屋の閉店までにはまだ時間はあるはずだが……
鮮やかな強盗ぶりに、置き去りにされたモニカも肩をすくめるしかなかった。
「……タクシーでも拾うか。まずは警察に通報して、と」
独りごちて、モニカは携帯電話を抜いた。そのかかとに、なにか丸いボール状の物体が当たる。再度、モニカは震撼することになった。
「!?」
作り物の人形にしてはタチが悪いし、よく出来すぎている。
殴られて地面で失神するのは、つり上がった瞳の怪生物だった。その身を引くつかせる痙攣が生命体のそれであることを悟り、モニカは悲鳴をあげ……られない。
モニカのうなじに走ったのは、軽い衝撃だった。当て身だ。手刀で気絶したモニカの細身を、何者かの腕が優しく抱き止める。
モニカを襲った人物は、中性的な顔立ちの人物だった。年齢どころか、性別さえはっきりしない。この戦域に場違いなほど整った容姿は、まるで西洋人形だ。そして廃墟の砂塵になびくその白衣は……医者?
「こちらエージェント・ヘリオ」
ヘリオと名乗った医者が話しかけた手首では、あの銀色の腕時計が輝いている。闇の諜報機関〝ファイア〟の科す猟犬の首輪だ。
「ヘリオです。第三種接近遭遇は阻止しました。どうぞ」
〈おう。レストラン内の怪我人も病院送り完了だぜ、お嬢ちゃん?〉
腕時計から返ってきた渋い声に、ヘリオは常に笑っているような目元をひそめた。
「あのですね、フォーリングさん。そろそろやめてくれません? 〝お嬢ちゃん〟なんて呼び方……」
〈了解だ、お嬢ちゃん〉
「だからですね……」
困り顔のヘリオの肩に、ぽんと手を置く者がいた。
「ごくろう。アル中など相手にしなくていいぞ、ヘリオくん」
「課長」
火の粉を運ぶ風に、ネイ・メドーヤ課長のコートははためいた。
崩壊したサービスエリアには、政府の特殊車両が群れをなして停車している。上空の攻撃輸送ヘリから続々とロープを伝って降下してくるのは、重武装した組織の隠蔽部隊だ。
しかし、なにかを隠蔽するまでもない。標的のレストランの跡地は、轟音を鳴らしてぺしゃんこになりつつある。その有様をじっと眺めるネイのこめかみに、音をたてて青筋が走るのをヘリオは把握した。
冷や汗を浮かべてごまかし笑いを拵えるヘリオへ、怒りっぽくうなったのはネイだ。
「派手な交戦は控えるようにと、日頃からあれだけ口を酸っぱくして言い聞かせているはずだが……ジェイスめ。当のスピード狂はどこかね、ヘリオくん?」
「か、確認します……こちらヘリオ。エージェント・ジェイス、応答願います」
手首の通信回線を開いた途端、ヘリオとネイは顔色を変えた。
腕時計のスピーカーから、狂ったような高笑いが響いたのだ。そこにくぐもった女の悲鳴と、銃声の連続が重なる。
〈……教えてやろうか! 俺が! おまえみたいなスーパーマンを辞めたわけを!〉




