「雪明」(6)
「止まれええええッッ!!」
銃声は、みるみるジェイスのタクシーに近づいてきていた。女性のものらしき怒鳴り声と、車が街灯をへし折る音がそれに続く。
「止ま、きゃ!?」
中身の詰まった麻袋のようなものが、車のバンパーに撥ね飛ばされる音が響いた。
眠るジェイスへ、衝撃とともに降り注いだのは破裂したガラスだ。ジェイスは身じろぎひとつしない。車に撥ねられた人間の体が、タクシーのフロントガラスに突っ込んできたと言うのにだ。
「痛たた……」
タクシーに激突した女……エマ・ブリッジス警部補は腰をさすって呻いた。
銃撃されたテールライトを振り、ゴミ箱を内容物ごと高々と打ち上げ、壁をこすって火花をあげながら、エマの追う車はどんどん裏路地を遠ざかっていく。
へこんだボンネットから、エマは力なく道路にずり落ちた。痛む脇腹を押さえつつ、タクシー伝いに身を起こす。
タクシーの運転席を見れば、倒された座席にはアイマスクをした運転手がじっと眠っていた。人や銃弾が飛び交うこの戦場で、いったいどういう度胸をしているのだ。
いやそれとも、運悪く流れ弾が直撃して瀕死になっている?
赤い手形を滲ませ、エマは何度もタクシーの窓を叩いた。
「ちょっと! 運転手さん! 大丈夫!?」
「…………」
運転手のスティーブ・ジェイスが、たったいま休憩に入ったというのは残念なお知らせだった。たとえ産気づいた妊婦や犯人を追跡中の刑事が請うても、そのドアと瞼が開いた試しはない。
何事もなくジェイスが寝返りを打ったのを確認し、エマは胸を撫で下ろした。
「寝てるのね。安心した」
大抵の客はここで失せる。
エマがひとこと叫ぶのが聞こえた。
「ヘイ! タクシー!」
タクシーのガラスは粉々になった。
拳銃の銃把で、エマが窓を叩き割ったのだ。
ただその程度では、ジェイスが飛び起きる理由にはならない。
「…………」
「いい加減に起きなさい!」
ついにエマは、ジェイスのネクタイを絞めて揺さぶった。
アイマスク越しに、そっけなく返事したのはジェイスだ。
「乗車拒否だ」
「緊急事態よ」
「…………」
アイマスクも外さぬまま、ジェイスは助手席側のドアを開けた。彼のこめかみに、エマが四十五口径の拳銃を突きつけたのだ。一応、誠意を見せるしかない。
座席に転がり込むが早いか、エマは放射状にひび割れたフロントガラスを指差した。
「あの車を追って!」
「……どの車だ」
「目のそれを外しなさい」
「…………」
額までずらされたアイマスクの下から、ジェイスのジト目の瞳は現れた。
ずいぶん先を疾走するのは、車体のそこかしこに弾痕を穿った大型のワゴンだ。ルームミラーを見れば、若い女が金色の警察のバッジをひらひらさせている。
逆の手の拳銃をこれ見よがしにしながら、エマは言い放った。
「殺人課よ。急いで。いまなら大統領だって撃ち殺せる気分だわ」
「…………」
ジェイスは小さくあくびした。
同時に、前置きなしにいきなりタクシーは発進している。悲鳴とともに、座席を七転八倒したのはエマだ。
買い出しの最中だった中華料理屋のハンさん、清掃車両、そして電柱。避ける避ける避ける。ラリーカーの名手も裸足で逃げるような障害物だらけの路地を、ジェイスのタクシーは誘導ミサイルの正確さで猛進した。
「す、すごい反射神経ね……」
エマの称賛を、破裂音がさえぎった。
追われる側のワゴンから、銃火がほとばしったのだ。弾丸のかすめたサイドミラーは千切れ飛んでいる。
突如、ジェイスがブレーキを踏みつけたではないか。急停止の反動で思いきりつんのめり、エマは目を剥いた。
「なんで止めるの!?」
「撃たれた。降りろ」
拳銃の撃鉄のあがる響きが、車内にこだました。
ジェイスの頭に銃口が触れるのも、きょう何度目になるだろう。アドレナリンで震えるエマの吐息は、ジェイスの耳に甘く囁いた。
「怪我は、ないわね? できるでしょ、運転?」
「…………」
ふたたびジェイスは、タクシーを急発進させた。
飛び跳ねながら一般道に入ったタクシーの背後で、車数台がきりきり回転する。市民バスと大型トラックの隙間を、すいすいすり抜ける光景は爽快だ。
今度こそ恥をかかぬよう、きっちりシートベルトを締めながらエマは質問した。
「並外れた運転技術だわ。過去になにかやってたとか?」
「喋るな。舌を噛む」
「おかまいなく。あたしは……エマ!」
窓から身をのぞかせたエマの髪は、激しい風になびいた。標的のワゴンへ慎重に狙いをつける。
エマから轟いた銃声は一発だったが、ワゴンから返ってきた弾丸は百発を超えた。相手はマシンガンを持っている。
すぐに車内へ身を縮め、エマは無念な面持ちでたずねた。
「あなたは?」
「運転手だ」
「名前よ、名前」
躍るようにハンドルを切り回しつつ、声は冷静に答えた。
「ジェイス」
「いい名前ね」
予備の弾倉を、エマは拳銃に叩き込んだ。銃口で正面のガラスを小突きつつ、聞く。
「これ割ってもいいかしら、ジェイス。邪魔で撃てないんだけど?」
「断る」
「じゃあさっさと奴らの横につけて」
エマの注文どおり、ジェイスのハンドルさばきに余念はなかった。高速道路の自動料金所を突破し、たちまちワゴンの真横に詰めた腕前には文句の付け所もない。
「オーケイ。今度は勝手に止めないで……よ!?」
肩の抜けるような衝撃に、エマは悲鳴をあげた。
並走するワゴンが、だしぬけにタクシーへ幅寄せしてきたではないか。その動きには明確な殺意がこもり、警察に執拗に追われるのも納得だ。ガードレールをまともに擦ったタクシーの側面は、黄色い塗料の燃えカスを散らしている。
ぽつりとジェイスはこぼした。
「請求書を探す」
「う、うるさいわね。もう、頭きた!」
ずきずきする頭を押さえながら、エマはいざ横のワゴンへ照準を定めた。
平板な声でつぶやいたのはジェイスだ。
「伏せろ」
「え?」
ワゴンのドアが開くなり、座席から突き出したのは巨大な重機関銃だ。可動式の銃座とセットになった凶悪なそれは本来、戦闘ヘリ等に搭載されるものと思われる。
銃座に腰掛けた人影は、包帯とネクタイを突風に揺らして叫んだ。
「ワオ!」
怪人……スコーピオンは大笑いした。
「色紙の準備はできたかな!?」
閃光とともに、タクシーのヘッドライトは粉砕された。
続いて、流れ弾に前輪を撃ち抜かれたのは不運な一般車両だ。耳障りなスリップ音を残し、ガラスの破片をきらめかせて横転。それに巻き込まれた後続車たちも、木の葉のように宙を舞う。衝突しては次から次へと吹き飛んでいく金属の断末魔が、耳に痛い。
道路の惨状に驚き、エマは目を白黒させた。
「え。え? えェ!? 嘘ぉ!?」
旋回しつつ急停車したタクシーの正面、煙をひいて降ってきたのは一台の選挙カーだ。
選挙カーの看板にはこう書かれていた。
〝魂までは殺せない〟




