「雪球」(12)
ウォルター警部は覚醒した。
ここはどこだ?
かざした手の隙間、光がまぶしい。色とりどりのステンドグラスからは、穏やかな朝陽が差し込んでいる。かすかに耳をくすぐるのは、小鳥のさえずりと教会の鐘の音だ。
自分が木製の長椅子に寝かされていることを察し、ウォルターの疑問符は深まった。ここは教会ではないか。こんな罰当たりな場所で、なにを呑気に眠りこけていたのだろう。
「よう」
親しげに挨拶したのは、そばの席に腰掛けた人影だった。
長椅子の背もたれに肘をつき、足を組んでくつろぐ態度に礼拝者の崇敬さは欠片もない。
交通事故にでも巻き込まれたのだろうか。その男は体のそこかしこを絆創膏や包帯で飾り、これでもかというほどに怪我だらけだ。
男……ロック神父は、細めた眼差しで最前列の祭壇を見つめている。
まだウォルターは状況を把握していない。寝ぼけ眼をこすり、申し訳ない面持ちでフォーリング教会の代表者に謝る。
「清めの場だってのにすいません、こんなザマで。げえ、体じゅうが重い、痺れてる。寝違えたか。たびたび悪いんですが、神父さま。きちんと姿勢を直しますんで、ちょいと肩を貸してもらえませんかね?」
「断る。俺の肩は満員なんだ、恨みつらみの憑き物で。そのまま寝てていいぜ」
一蹴したロックの手は、なにか尖った輝きを指先に挟んでいた。
なんだこれは。もしかして、ダーツの矢か?
心細げに天井の梁を見据えつつ、ウォルターはたずねた。
「こんな寝転んだ格好じゃ、お許しを乞うのもダメですよね?」
片目はダーツの的に凝らしたまま、ロックは尊大にうなずいた。
「よい。申してみろ、悩める官憲の犬よ」
「ありがとうございます。これは私が、家族に見放されるに至った顛末です。たしかに仕事は忙しかった。ろくに家庭を顧みなかったのも認めます。でも俺は、べつに一人になりたがってたわけじゃない。なのに女房は……」
「見えちまったんだろうな。軒下に停まるカボチャの馬車が」
不意に、ウォルターの眉根はひそまった。
聞き覚えのある渋い声に、ようやく気づいたらしい。上掛け代わりのコートを落としながら、ウォルターはなんとか身を起こした。
「てめえ……いつからこの俺様に説教をたれる身分になった、フォーリング?」
「よ~くわかったよ。つまり奥さんには、正しい神の導きがあったってことさ」
にやついたロックの手、距離を測るように前へ後ろへダーツの矢は動いた。
円形の的はといえば、ああ。ずっと先の祭壇、十字架の首に引っかけられている。神聖きわまりないその周囲に、奇妙な草のごとく生えるのは外れた無数の矢の残骸だ。
かたわらに立てた点滴のチューブとつながった状態で、ロックは問うた。
「なんで知ってた? 棺桶に隠してあった高値の酒の在り処を?」
「は? 酒?」
「朝になって見たらスッカラカンになってたが、ウォルターさんよ。人間にはやっていいことと悪いことがある。ひどいじゃねえか。どうして黙って、ひとりでぜんぶ飲み干しちゃうんだい?」
「な、なんのこった???」
「おっと、シラを切るのはよそうや。古臭いSFチックなUFOにさらわれた話が始まったあたりから、あんたの酒のペースは一線を越えた。そんなのはうちの懺悔室なんかじゃなく、いきつけのバーとかで……」
ぶつくさ愚痴るエセ神父を尻目に、ウォルターは濃くなったヒゲをなでた。この頭痛と体のだるさは、文字どおり馬のように強い酒を飲んだ翌日の反動によく似ている。
いや、それよりなにより……きつく瞼をつむって、ウォルターは頭を振った。
「なにしてたんだっけ、俺?」
「……聞き飽きたぜ、そのセリフ」
ささやきは口の中だけに留め、ロックはタバコをくわえた。
先日、政府の審問会でこっぴどく叱られた帰り道のことである。アーモンドアイに施された生体への処置を取り除かれるウォルターを、ロックは研究室の向こう側に見た。刑事は幸運にも、やつらに〝着られる〟すんでのところで組織に救われたのだ。
もっとも、闇の極秘機関の判断には必ず狂気がつきまとう。
地球外生命体との接触に関するウォルターの記憶は、組織が完全に抹消した。
(いったい何度目だろうな……)
法の番人としての嗅覚が優秀なあまり、ウォルターは事件の核心に迫りすぎることが多々あった。
組織に都合よく脳みそをいじられた刑事の捨て場所は、いつもなぜか決まってフォーリング教会だ。真実を知った回数と同じぶんだけ、記憶喪失のウォルターはこの長椅子で眠りから起きる。どうしようもない飲んだくれという彼の烙印は、偽りに他ならない。奪われた幾つかの記憶と引き換えに、貴重な今日を得られるのを果たして対等と呼べるのかどうか。
そして、記憶消去の手術には地獄そのものの苦痛がともなう。想像を絶するウォルターの悲鳴と命乞いは、ずっと塞いでいたはずのロックの耳にこびりついて今も離れない。
しかしどうやら、組織による思い出の改ざん技術にも盲点はあるようだ。
薄暗い教会の闇になにを追ってか、視線をさ迷わせてウォルターはうめいた。
「なんだろうな。頭の中のパズルから、いろいろと抜け落ちてる気がする。とんでもなく大事で、そう、泣くほど恐ろしいことが」
くわえタバコのまま、ロックはポケットに手を入れた。軽いスナップとともに反対側の指で投じられたダーツの矢は、ちっぽけな放物線を描いて十字架の横へ外れている。
ライターを探すのをあきらめ、ロックは気の抜けた顔で聞いた。
「火ぃ貸してくんねえか?」