第5話 現実の先輩は優しかった
無情にも、あっという間に試験の日がやってきた。試験の前日の夕方、陽菜が突然家にやってきて、
「これ、お守り!お守り袋は手作りなの」
と渡してきた。奇麗なブルーの布に合格とシルバーで刺繍してある。
「あのさ、こんなことしている暇あったわけ?」
こんなことしている暇があったなら、単語の一つでも覚えたほうがよくないか?
「ジタバタしていても、気ばっかり焦っちゃうし。こういうことしていた方が気が休まるんだ。だから、あげる」
「俺にだけ?自分のは?あと、ノブは…」
「ノブ君は、確実に受かるだろうし」
「ああ、俺は心配だからってことか」
「違うよ。そうじゃなくて。一緒の高校行けたらいいなっていう、私の勝手なわがままからだよ」
そう言うと陽菜は少しだけ俯き、
「じゃ、明日頑張ろうね」
と、笑顔を作ってから玄関を出て行った。
「あら、陽菜ちゃん、もう帰っちゃったの?声がしたからお茶でもと思ったのに」
母がキッチンで料理をしていたのか、エプロンの裾で手を拭きながら玄関に来た。
「うん。これを渡しに来ただけだから」
「お守り?手作り?」
「そうみたい」
「陽菜ちゃんって本当に…」
母はそこまで言うと、もごもごと口の中だけで呟き、またダイニングに戻っていった。
なんだ?珍しくハッキリとものを言わなかったな。陽菜がなんだっていうんだ?悪口か?陽菜のこと気に入っていたくせに…。
「何?陽菜に文句でもあんの?」
俺は何となく、陽菜のことをかばいたくなって母親に突っかかった。
「違うわよ。なんていうか、今時珍しいくらい、いい子だなって思ったのよ」
「…じゃあ、モゴモゴ言わないでそう言えばいいだろ」
「そうよね。でもさっきは、ほら、健気って言葉が浮かんじゃって」
「健気?」
「なんでもない。あんたは明日の準備できたの?受験票カバンにしまった?鉛筆は?消しゴムは?」
「ああ~、うっさいな。そんな準備とっくに出来てるよ」
俺はいきなり母親が鬱陶しくなって、とっとと2階に上がって自分の部屋に入った。そして、
「健気…」
という言葉が気になったが、カバンの中身をゴソゴソと引っ張り出し、もう一度持っていくもののチェックを念のため始めた。そして、「健気」という言葉も忘れてしまっていた。
試験が終わり、俺は一人で力尽きた感満載で高校をあとにした。もしかして、瀬野先輩に会えるかもしれないとか、来る途中は思っていたが、教室に入った途端そんなことも吹っ飛び、試験が終わった今は、早く家に帰ってベッドにドスンと横になりたいばかりになっていた。
それに、今日はここの生徒も生徒会の人間なのかよくわからないが、数人の生徒しかいない。その中に瀬野先輩はいないだろうなと、なんとなく俺の直感はそう言っていた。生徒会とか、そういう役員をするタイプには見えなかったからな。
同じ教室で試験を受けていた陽菜は、俺の方に近寄ろうとしたが、同じ学校の女子につかまり、話しかけられていた。だから、俺は陽菜に特に話しかけることもなく、そして話しかけられる前にさっさと教室を出た。そして、一人で魂が抜けたようになりながらも、家に帰ってきた。
部屋に入り、問題を見直してみようかとも思ったが、やっぱりベッドにダイブした。今さら問題を解いたところで、もう試験が終わったんだ。どうでもいい。受かっても受からなくてもどうでもいい。ちゃんと問題を解けているのかどうかも、もうわからない。
ああ、違う。どうでもよくない。受からなかったら瀬野先輩に会えないじゃないか。
は~~~~~。重たくため息をついていると、携帯の電話が鳴った。見るとノブだった。ノブは基本、ラインを送ってくることがたまにあっても、電話をしてくることはなかった。珍しい。
「ノブ?」
「うん、どうだった?試験」
「わかんない。よく覚えていない」
「そっか」
「ノブは?」
「俺は多分、楽勝」
すげえよな。俺もそんなセリフを言ってみたいもんだ。
「で、陽菜は?」
「さあ?別々に帰ったし、会場でも話もしなかったから」
「そっか。じゃあ、ラインでもしてみるか」
「陽菜に?陽菜、ラインしていないんじゃないの?」
「してるよ。クラスメイトともしているって。俺ともしてるけど」
「……へえ」
知らなかった。メルアドも携帯の電話番号も知っているけど、ラインしているって聞いたことなかったな。あれ?なんでだ?なんで他の奴は知っているのに、俺は知らないんだろう。
「陽菜にラインしているのか、聞いたことなかった?ハル」
「うん」
「陽菜からはそういうの言わないからなあ。聞かなかったら教えてくれないんじゃないの?」
「なんで?」
「なんでって…。お前あんまりラインもしたがらないじゃん。返事するの面倒くさいって、クラスのやつのグループにも入ろうとしなかったんだろ?去年そんなこと陽菜が言ってたから。だからじゃねえの?」
「まあ、あんまりラインとか面倒だからしないけど。ノブともしないもんな」
「よっぽどの用がないとな。あ、陽菜に今送ってみる」
ノブはしばらく黙り込んだ。そして、
「今日の出来は80パーセントだってさ。これ、いい点数ってことだよな」
「だろうな」
「ライン、陽菜に聞いてみたら?ID教えてくれると思うよ」
「どうやって?電話でもしてか?そのためにわざわざ?」
「お前らって変なの。隣なんだからいつだってすぐに会えるじゃん。その時聞けばいいんじゃねえの」
「いつだって会えるなら、ラインもいらないよな」
「そうか。そうだな。じゃ、すぐに会いたい時会いに行けば」
「………もう切る」
俺は電話をあっさり切った。なんだ、その、会いたい時会いに行けばっていうのは。別に会いたいと思うような時なんてないからな。変なこというな、ノブは。
ああ、なんだかモヤモヤする。
俺、受かるのか、それとも受からないのか?その心配もあって、その夜はなんだか腹までが痛くなった。飯も食えそうもなくて母親に言うと、心配そうに顔を見にやってきた。そして、珍しく、
「落ちても大丈夫よ。だって、私立は受かっているんだから。だからそんなに、落ち込むことないって。もう、お風呂に入ってあったまって寝なさい」
と優しい言葉をかけてきた。
やっぱり。いざとなったら、私立でもいいと言ってくれると思っていた。だけど、俺は桜が丘に未練があるんだよ。桜が丘じゃないと意味がないんだ。
瀬野先輩がその日の夢に現れた。瀬野先輩は、なぜか雨も降っていないのに桜の木の下で赤い傘をさしていた。そして、赤い傘の上に桜の花びらがヒラヒラと落ちて、まるで桜の雨でも降っているように見えた。
「ねえ、春が来る君。見て、桜散る…。君、落ちちゃったんだ。残念だったね」
俺を見て、瀬野先輩がそう言った。そうか。俺、落ちたのか…。ショックで目が覚めた。外はまだ真っ暗。時計を見ると5時半だった。
「は~~~~、なんつう夢だよ。正夢だったらどうするんだよ」
そのあと眠れなくなって、俺は起きだした。
着替えをして、水を飲みに一階に行った。まだ親も起きていない。それもそうか。
早くに起きたとしても、何をすることもないから、外に散歩に出た。ゆっくりと歩き出し、俺はよく子どもの頃に陽菜とノブと行った公園に行った。そこは階段を何段も登った上にあり、そこから見える夕日が奇麗だったのを思い出した。夕日が奇麗なら、朝日も奇麗だろう。
そんな考えも虚しく、雲が空には広がり、太陽はどこにも見えなかった。
ふう…。寒くて手に息を吐いてあっためた。ああ、手袋ぐらいしてきたら良かった。
「あれ?君…」
そろそろ帰ろうと振り返った時、声が聞こえた。まだ薄暗い中、そこに立っていたのは赤いマフラーをした瀬野先輩だった。
「先輩、なんでここに」
「そっちこそ、なんでこんな時間にいるの?あ、私は散歩」
先輩は犬を連れていた。
「こんな隣駅まで散歩ですか?」
「う~~ん。私の家、ちょうど駅と駅の真ん中あたりなの。だから、この公園まで歩いて来れちゃうんだ。この公園、朝日が奇麗だし、散歩コースになってるんだよ。ね?センセイ」
「先生?え?」
今、犬に話しかけたよな…。
「ふふ。犬の名前がセンセイなの。みんな笑うけど」
「犬の名前が先生?へ、へ~~。面白いですね。誰がつけたんですか」
「私」
瀬野先輩はにっこりと笑うと、犬のセンセイと一緒に公園の中を歩きだした。俺もその後ろをとぼとぼとついて歩くことにした。
「試験どうだった?」
公園の中を歩きながら先輩が聞いてきた。
「あ…さあ?」
「さあ?っていうことは、あまり自信ないのかな」
「まあ…」
「そうか。まあ、そんなに落胆しないで。結果がどうなるかはまだわからないんだし。ね?」
「そうですね…。でも、今が一番なんていうか、生殺しみたいな、そんな感覚です」
「生殺し?くすくす。君、本当に面白い事言うね」
「そうですか?」
俺は自分で自分を面白いと思ったことは、一回もなかったけどな。こんなつまらない人間で、他の奴らもきっと関わりたくもないだろうと思って生きてきた。
先輩は、犬のセンセイを連れながら、そのあともなんでもない話をしてはクスクスと笑った。俺は、そんな先輩の声にも笑い方にも惹かれ、いつまでも犬の散歩に付き合っていたくなった。だが、
「さ、そろそろ行かなくちゃ。じゃあね、春が来る君」
と、無情にも別れの時間が来てしまった。
「はい。もし受かっていれば、また春に…」
「ふふ。受かってるよ。春が来るって名前なんだよ?受からないわけないでしょ」
公園の出口で先輩はそう言うと、くすくすと笑いながら階段を下りて行った。
これも夢か?一瞬そう思ってほっぺたをつねった。夢じゃない。思いきりつねったから、かなり痛かった。
夢の中では落ちていた。残念と言われた。でも、現実では、受かってるよって言ってくれた。ああ、それだけでも超ハッピーな気持ちになる!
俺は階段を駆け下り、スキップでもしたくなる衝動をなんとか抑え、それでも、歩いていることもできないくらい気持ちがはやり、飛び跳ねる勢いで走って家に帰った。