第4話 赤いマフラーと猫と彼女
俺の目の前に、あの人がいる。赤い傘の人が、今日は赤いマフラーを巻いて。
「ね、猫…。君の猫ですか?」
咄嗟に言葉が出ていた。俺が考えて言ったわけではなく、勝手に口を開いて出てきていた。
「ううん。地域猫。ほら、片耳の先っぽが切れているでしょう?地域猫だからなの。でも、寒いから可哀そうで…」
「あ、本当だ。耳が切れてる」
「うちで飼ってあげられたらいいんだけどね。うち、すでに猫ちゃんは6匹。犬が1匹で、さすがに飼えないって親に言われているの。地域猫ちゃんなら、きっとこの近所の人が面倒見ているだろうから、大丈夫よって母にも言われているの」
そこまで一気に彼女は言うと、なぜかお尻をそっとあげてベンチの端にずれた。そして、
「ここに座る?猫ちゃん撫でる?」
と俺を呼んだ。
「え?いいんですか?」
「うん」
俺は、遠慮がちにベンチに座った。
「もうちょっとこっちに来ないと猫触れないよ」
そう言われ、少しだけ彼女の方に寄った。そして、猫の背中を撫でてみた。
「野良猫なのに、キレイですね」
「ふふふ。毛の艶もいいよね。きっと、世話をしてくれている人がいて、ちゃんとご飯も貰っているんだろうな」
「俺んちでも飼ってあげられたらいいんですけど、母が猫アレルギーで」
「そうなんだ。そっか。それは残念だね」
「えっと、はい」
残念だとは思っていなかったから、気まずく俺は頷いた。確かに母はアレルギーがあるにはあるが、本音を言えば、猫を飼うつもりなどさらさらなかった。ただ、きっと俺は、猫を飼ってあげられるぐらいの優しさを持ち合わせた男だと、アピールしたかっただけだ。
「じゃあ、時々この公園に来て、猫ちゃん撫でたらいいよ。この猫ちゃんは人に慣れているから」
「あ、はい。そうします」
「それにね、こんな寒い日は猫抱っこしているとあったかくって、こっちが癒されるよ」
その人は、やっぱり儚げに見えた。高校の制服を着ているのが不思議なぐらい、大人にも見えた。
「桜ヶ丘高校の制服ですよね」
ふと、そんな言葉が勝手に出ていた。俺は自分で何を聞く気でいるんだ?と焦った。
「うん。君はそこの中学校だよね?」
「あ、はい」
「今何年生?3年?」
「あ、はい」
「くす。そんなに緊張しなくっても。私、隣駅なの。たまにこの公園に来て、猫ちゃんにササミあげたりしているんだけど…」
「え、えっと。今、何年ですか」
「私は高2」
「そ、そうなんだ。じゃあ、俺がもし来年桜ヶ丘受かったら、先輩になるんですね」
「うん!君、桜ヶ丘来るんだ!」
「受かったらの話です」
「大丈夫、受かるよ。そうしたら、後輩君だね。よろしくね」
「あ、はい。その節はよろしくお願いします」
「くすくす。その節はって何?面白いね、君。名前は?」
「お、俺は、いえ、僕は」
「くすくす。俺でいいけど」
「あ、はい。えっと」
自分の名前を一瞬ど忘れした。頭が真っ白になって、慌てて思い出した。
「辻村春来っていいます」
「わあ。なんだか、作家みたいな名前だね」
「そうですか?あ、春来がですか?でも、漢字は違います。俺は、春が来るって書きます」
「春が来る?素敵な名前だね。あ、私はね、瀬野明日美。明日美しいと書いて明日美」
「瀬野先輩…」
「うん、よろしくね。春が来る君」
その人は俺を不思議な呼び方で呼んだ。それからもずっと「春が来る君」と勝手にあだ名をつけて、その人は俺を呼ぶようになった。だが、それはもっと後になってからの話だ。
クリスマスが来た。イブには母親がパート先で売っているチキンと、特設会場で売っていたケーキを買ってきた。3人家族なのにホールケーキなんて買ってきて、甘いのが苦手な俺は、毎年苦労をする。なんだって、俺がケーキをたいして好きじゃないのに買ってくるんだろう。多分、売れ残ると困ると買わされているだろうな。そして、母は世間体だの、人の目だのを気にする人だから、断れずに買ってくるんだ。
俺が小学5年になるまでは、母はパート勤めをしていなかった。いや、正確にはしていたが、短期アルバイトというのをしていて、夏休みだの、春休みだのだけのバイトだった。だから、クリスマスも隣の陽菜と陽菜のお母さんも呼んで楽しくパーティっぽいことをしていた。
陽菜のお母さんがケーキを焼き、俺の母親がメインの料理を張り切って作っていた。今ではクリスマスですら適当な総菜だけで済ませているのにな。
陽菜のお母さんはどこかで働いてはいない。手先が器用だから、アクセサリーなどを作って、自分のホームページを作り売っている。最近はパワーストーンのついたネックレスやピアスが人気があるらしい。そこそこ売れているのだと母から聞いたことがある。
母は隣の陽菜のお母さんとは仲良くやっている。陽菜のお父さんは陽菜がまだ2歳くらいの時、フリーのグラフィックデザイナーになったと聞く。それからは家を拠点として働いているらしい。つまり、ほとんど陽菜のお父さんは家にいるということだ。
だから、陽菜の家にはあまり遊びに行ったことがない。子どもが来てうるさくすると、父親が仕事にならなくて怒るらしい。陽菜は母親と一緒に、手作りのお菓子などを持ってうちに来た。母親がアクセサリー作りで忙しい時は一人でも遊びに来た。俺の母親はいつも歓迎した。
5年になってノブが越してきてからは、3人でよく近くの原っぱで遊んだ。うちにも来てゲームをしたり、漫画読んだり、絵を描いて遊んだ。塾へ行けと母親にうるさく言われてからは、遊ぶ時間が少なくなったが、塾も当時は一緒のところに行っていたから、帰り道も寄り道をして遊んだりした。
陽菜が小学6年になるまでは…。いきなり塾もやめて、家庭教師をつけることになったと言われ、遊ぶ時間もぐっと減ったんだよな。あいつ、親にそこまで勉強を強いられていたのかな。陽菜のお母さん、そこまで口うるさそうじゃなかったけどな。それとも、陽菜自身が家庭教師をつけたいと言い出したのだろうか。
何か引っかかる。何だろう?あの時、俺は何か感じないように蓋をした気がする。今でもその頃を思い出すと、モヤモヤっとした感情が湧いてくる。
俺は、冬休みに入り、時々あの公園に行ってみた。塾の帰り道にも寄ってみた。猫にも瀬野先輩にも会えなかった。あの猫はどうしたのだろう。この寒さの中、いったいどこにいるというのだろう。
そして、瀬野先輩に会えないことが妙に寂しく感じて、俺は正月開けてからはもう、公園に行くこともなくなった。
受験生には正月もない。だが、母親と父親に半ば強制的に、初詣とやらに連れていかれた。合格祈願というのを神社で頼んだらしく、寒い中祈祷に付き合わされた。この期に及んで神頼みか…。俺なりに頑張っているんだけどな。
「風邪ひいたりしなさんなよ。いい?ちゃんと体力もつけておきなさい。しっかり食べてしっかり寝れるときは寝て」
帰り道、母親の口からから何度も同じことを聞かされた。風邪をひくなと言うなら、雪でも降りそうな寒空の下、神社まで連れてくるなよ。親だけで行けば良かっただろ。
そんなことを思ったが口には出来なかった。お守りも3種類も持たされ、正直うんざりしながらも。
「母さん、合格祈願のお守りだけでも良かったんじゃないかい」
「いいじゃない。健康祈願、交通安全も持っていたら安心でしょ?」
「そうかなあ…。そんなにいっぺんに色々持っていて、神様が喧嘩しないかい?」
「同じ神社なのよ。神様はおんなじよ」
母の言葉に父は黙り込んだ。基本母親の方が強い。喧嘩になるのは、父親を愚弄した時だ。そりゃ、喧嘩にもなるよな、父親も頭に来るよな…というようなことを、母は容赦せず父にズケズケと言う。そんな母は、外面だけはいい。パートでもいい顔をしているようで、家に帰ってくるとあれこれ父に愚痴っている。
近所の人の悪口もよく言っているが、なぜか陽菜のお母さんのことだけは、
「陽菜ちゃんのお母さんは大変なのに偉いわよね」
と褒めている。大変とは何が大変なのか。家で旦那さんが仕事をしていることが大変だってことなのか。
正月明け、3学期が始まった。受験がいよいよ迫ってきた3年生は、教室でもはしゃぐこともなく、参考書を開いているやつもいれば、問題集を友人と一緒に解いているやつもいる。そうかと思えば朝から机に伏せて寝ているやつもいるし、単語帳で今さらながら、英単語を覚えているやつもいた。
俺もその仲間に入っていた。こんな間際になっても、何かしていないと不安だった。一つでも単語を覚えておきたい。一つでも問題を解いておきたい。そんな焦りや不安が、きっと他の連中にもあるんだろう。
「おはよう」
参考書を見ていたから、陽菜が俺の目の前に来ているのにも気づけなかった。
「あれ?陽菜…。3学期に入って見かけなかったな」
「うん。明けましておめでとう。って、もう10日だから、今さらかな。年賀状も隣だし、送ったことないしね」
「正月の挨拶にも、今年は来なかったって、母さんが言ってたな」
「うん。実はお母さんの実家に泊りに行ってたの」
「受験生なのに?余裕だな。お前、家庭教師ついているから余裕なのか?塾組は正月もなかったんだぞ」
「だよね。大変だよね。でも、おばあちゃんの具合があまりよくないから、お見舞いがてら行ってたの」
「具合が悪い?」
「うん。お母さんや私の顔を見たら元気になったって」
「ばあちゃんちって、遠かったっけ?」
「伊豆だよ。こっちよりあったかかったし、近くの温泉にも入ってきちゃった」
「へえ。そりゃ、良かったな」
「おはよう。あ、陽菜!久しぶりだな。どうした?風邪でも引いてた?」
珍しくノブがいつもよりも遅く来て、来たそうそう陽菜に声をかけた。
「うん。風邪引いちゃって休んでたの」
「大丈夫?」
「うん。もう元気になったよ。じゃ、もう始業のベル鳴りそうだから戻るね。じゃあね」
「風邪に気をつけろよ。試験もそろそろなんだからな」
「うん」
ノブの言葉ににこりと頷いて、陽菜は教室を出て行った。
「大丈夫なのかなあ、あいつ…」
ノブは少し暗くなっていた。
「元気そうだったよ。大丈夫なんじゃないのか?」
俺はそう淡々と答えた。ノブはチラッと俺を見て、
「は~~あ、お前っていつも暢気だな」
とため息交じりに席に着いた。
暢気なのはお前だろ。お前に言われたくはない。と喉まで出かかったが、まだノブが心配そうな顔をして廊下の方を見ていたから、それ以上は何も言えなくなった。
あれ?そう言えば俺、なんで休んでいたのか理由も聞かなかったし、陽菜に大丈夫なのかって聞くこともしなかったな。でもな、元気そうな顔をしていたしな。ノブが心配性なんだろ。いくらなんでも受験生なんだから、自分の体調管理ぐらいするだろ。親も気を付けるだろ。うちの親だって、早く寝ろだのあったかくしろだの、耳にタコできるくらい言ってくる。
伊豆だってここよりもあったかかったらしいし、そんなに心配することじゃないだろ。
俺は陽菜やノブのことよりも、受験のことが心配だったし、そして、瀬野先輩のこともしょっちゅう思い出していた。あれから一回も会っていない。俺が受からなかったら、会えないのかもしれない。そう思うと、また俺は焦って問題集を広げるしかなかった。