第15話 先輩の想い人
図書室のドアを開けた。カウンターに座っている先輩の顔が目に入った。俺はカウンターのところに、どこか恥ずかしさもあり、先輩の顔を見ずに近づいて行った。
カウンターの前まで来ても、先輩は一言も発しなかった。あれ?俺にまさか気づいていないとか?そう思い、目線を上げた。すると、先輩はどこか一点を見つめ、ぼ~~っとしていた。
「あの…」
小さく声をかけると、先輩は相当びっくりしたのか目を丸くして俺を見た。
「あ、ごめん、気づかなかった。本の返却?」
「はい」
手にしていた本をカウンターの上に置いた。
「この本難しそうだね…」
先輩はそう言ってから、また視線をどこかに向けた。俺もその方向をチラッと見ると、本棚と本棚の間で生徒と話している古谷先生の姿が見えた。
古谷先生を見ていた?いや、生徒の方か?
「今日も借りていくの?」
先輩は俺の方を見てそう聞いてきた。
「え?あ、はい。あと、ちょっと勉強もしようかな…と」
「そうなんだ。春が来る君、勉強家なんだね」
「は?そういうわけじゃないけど…」
「先生!本当にこの本読んでいたら大丈夫なの~?」
突然古谷先生と話していた生徒が大声をあげた。びっくりして振り返ると、先生と一緒にカウンターの方に向かって歩いていた。
「うん。その解説本は分かりやすいと思うよ」
古谷先生は声を潜め、女生徒に向かって優しく微笑みかけた。
「良かった。私、古典って本当に苦手で!さっぱりわからないから、どうしようかと思っていたから。古典の先生、話しかけづらいし。ここで古谷先生に会って本当に良かった。先生が2年の古典の担当だったら良かったのに~」
どうやら2年生らしい。古谷先生にため口で話し、それもさっきから声がでかい。
「すみません。図書室では大声は禁止です。気を付けて下さい」
その生徒に向かって瀬野先輩が注意をした。顔は無表情。声もかなりきつめ。いつもふわっとしているイメージがあるから、かなり俺はびっくりしてしまった。
その女生徒も驚いたのか瀬野先輩の顔を見て立ち止まり、
「あ、すみません」
と、顔を曇らせた。だが、また古谷先生の方を見てにこりと笑うと、
「これからも時々相談に乗ってくださいね」
と小声で話しかけた。
「ああ、そうだね。でも、まずは松井先生に聞いてみて。それでもわからないようなら、相談に乗るけど」
松井先生っていうのが2年に古典を教えている先生か?
「松井先生、話しかけづらいから」
「そんなことないよ。ちゃんと質問には答えてくれる。あの先生の方が僕よりずっと教え方が上手だと思うよ」
古谷先生は優しい表情のまま。だが、その女生徒は顔をムスッとさせ、本をカウンターの上に置いた。そして、瀬野先輩のことも睨んでいるように見えた。
古谷先生はその場から離れ、また本棚と本棚の間にすうっと入って行った。きっと図書室でこの女生徒にとっつかまっていたんだろう。俺も本を探しに図書室の奥へと進み出た。
瀬野先輩はなんで古谷先生たちを見ていたんだろう。話し声がうるさく感じていたのか。それにしても、あんなにクールな先輩は初めて見たな…。
何か面白そうな本はないかと探したが、特に見当たらなかったから今日出た宿題でもやっていくかと席に着いた。古谷先生は手に数冊本を持って、カウンターに向かっていた。
教師でもここで本を借りることもあるんだ…なんて、そんなことをぼけっと考えながら、カウンターの方を見ていた。瀬野先輩の顔がよく見える。あからさまに見ていることがばれないよう、視線を一度教科書に移した。そして、先輩の後ろにある時計でも見るふりをしつつ、また先輩の顔を見た。
先輩はさっきとはまったく違う表情を見せていた。古谷先生に対しての表情はこれまで一度も見たことのない表情だった。頬が赤くなり、口元はゆるみ、嬉しそうだ。だが、古谷先生が本を持ってカウンターから去ろうとすると、その後姿を切なそうに見つめていた。
ふっと俺と先輩は目線が合い、慌てて俺はノートに何かを書いているふりをした。だが、俺が先輩を見ていたのはバレているだろうな…。
その後、まったく集中できず、そのうえ、この場に居続ける気分にもなれず、15分もしないで席を立った。そして、カウンターの方を見ることなく俺は逃げるように図書室を出た。
なんだか心臓がドクドクした。これはなんだ?家に帰るまでの道のりも、この不安のような漠然とした暗い気持ちは消えなかった。
部屋でベッドに横になり、目をつむって先輩の表情を思い出した。ああ、あれって、やっぱり、そういうことだよな…。目を開けて天井を見た。先輩の視線の先は古谷先生がいた。先輩は生徒ではなく古谷先生を見ていた。俺がカウンターに近づいても気づかないほど…。
女生徒に注意をしたのも、その顔が無表情だったのも、もしかしたら嫉妬からかもしれない。そして、先生に対しての表情…。あきらかにわかる。好意を向けている視線だった。
「は~~~~~…」
長いため息が出た。きっとあの表情は俺でなくてもピンと来るだろう。胸の辺りにある重苦しい塊はなかなか消えることがなかった。ああ、先輩に好きな人がいるってわかっただけで、こんなにも苦しいものなんだな。見ているだけでもいいとか、そんなふうに思っていたのにな…。
だけど、先生に対しての憧れとか、この年頃ならあるかもしれない。同じ年頃の男よりも大人に見えて、憧れを抱く。うん、うん、あることだ。さらにあの古谷先生は優し気で、他の女生徒からも人気がある。見た目はそこまでいいとは言えないが、落ち着いていて大人な雰囲気はある。
そうだ。単なる憧れに過ぎないかもしれないんだ……。
そんな考えが浮かんで、その夜はなんとか眠りにつくことができた。
翌日、朝から手嶋に瀬野先輩と話せたかとか、しつこく聞かれ、何も話していないと答えたが、それでもしつこくあれこれ言われそうになり、昼休みは一人で弁当を食べることにした。
確か、誰かがこの高校は屋上も昼休みは解放されていて、人工芝が敷いてあったりベンチがあったりすると言っていたよな。生徒が多かったらやめるけど、行ってみるか…。
ガチャっと屋上のドアを開けた。天気が良くて陽射しが強かった。右側には人工芝とベンチが設置され、女生徒が何人かベンチに座っている。左側は花壇や低めの木が植わっていて、ちょっとした庭みたいになっている。低めの木々の間に1本高い木がある。どうやらその木の裏側辺りは木陰になっているようだ。
誰もいそうにないし、あの裏にでも行くか…と歩いていくと、ボソボソと話声が聞こえてきた。
なんだ。先客がいたのか…。と引き返そうとした時、
「先生。私だったらもう大丈夫だから、そんなに心配しないで。一人でいるのも気楽なんだよ。だから、別にここで一人でお弁当食べるのも平気」
と言いながら、木の陰から瀬野先輩が現れた。
やばい。この場から猛ダッシュで逃げようかとも思ったが、それはそれで怪しすぎる。俺は逆にもう一回先輩の方に体を向けた。そして、
「瀬野先輩、どうも」
と軽く頭を下げた。
「春が来る君。君もここで食べるの?」
「え、はい。屋上で食べるのも気持ちよさそうと思って…」
そう俺が返事をした時、木の陰から誰かが立ち上がるのがわかった。あ、先生って古谷先生だったのか。ゆっくりを木の陰からこっちに向かってやってくると、
「明日美ちゃん、邪魔したね。俺が行くからゆっくりとしていいよ」
と、手にコンビニの袋をぶら下げ、俺の横を通り過ぎて行った。
明日美ちゃんって呼んだのか?生徒を下の名前でちゃん付けして呼ぶのか?他の生徒にもそうなのか?それに、瀬野先輩の言ったことからして、先輩が一人で屋上で食べているのを心配しているふうだった。もしかして、瀬野先輩を特別視しているのか?それとも、先輩に何か先生が心配する要素があるとか?
先輩は古谷先生のことが好きなんだよな?いったいどういう関係なんだ?好きなはずなのに、なんだって、先生が心配しているのを拒絶するようなことを言ったんだ?心配されたくないのか?
俺はそこに突っ立ったまま、一気にそんな思考をグルグルと回転させていた。
「こっちの木陰で食べない?あ、一人の方がいい?私、邪魔?」
先輩の声でハッと我に返った。
「俺はいいですけど、先輩は…」
「春が来る君だったら、一緒でもいいかな?」
先輩はにこりと首をかしげながらそう言った。ずるいな。こういうことを言われると、俺は特別なのかって自惚れそうになる。
いや…。逆かもしれない。どうでもいい存在だから、隣にいても気にならないのかもな…。
先輩の申し出を断るのも気が引けて、俺は先輩の隣に座りに行った。隣と言っても、だいぶ距離を空けて座った。
「そこだと暑くない?木陰じゃないじゃん」
「あ、大丈夫です」
確かに直射日光がもろに当たる位置だ。だが、木陰のスペースはそんなに広くない。そこまで先輩に近づく勇気もない。
だけど、古谷先生は木陰のその小さなスペースに腰かけていたのかな。じゃあ、かなり先輩の近くに座っていたってことか?そういうことが気になった。だが、気にするとわけのわからないモヤモヤしたものを感じて、それを払拭するように俺は先輩に話しかけた。
「先輩、いつもここで食べてるんですか」
「うん。雨の日はさすがに来ないけどね」
「この学校、屋上がこんな風になっていて、いいっすね」
「うん。ここ、気持ちいいよね。向こうのベンチにみんな行っちゃうから、ここ穴場なんだ」
「そっか。じゃあ、俺は明日からこっちに来ないようにします」
「え?どうして?あ、君も一人を好むタイプ?」
「はい、まあ。教室だとうるさく言ってくる奴がいて、今日は特にそいつと話したくなかったって言うか」
「それ、友達?それともからかってくる嫌な連中?」
「えっと…。友人ってほどでもないけど、嫌な連中でもなくて。からかうっていうより、あれこれ喋りかけてきてうるさい…」
そこまで言うと先輩は、わかったという顔をして、
「ああ、もしかして手嶋君?」
と聞いてきた。
「え?」
俺が、なんでわかったんだ?とキョトンとした顔でもしたんだろう。俺を見て先輩がクスクス笑った。
「だって、図書委員の時も無駄口多いんだもん。私、口より手を動かしてって何度も注意しているの。ふふ。君、あんまりお喋りしなさそうだし、確かにお弁当の時くらいは静かにしていたいよね」
「はい」
俺が頷くと先輩は少し慌てたようだ。
「あ、じゃあ、私が横でこんなに喋っていたら迷惑だよね」
「いえ。先輩は別に…。声とかもうるさくないし、あいつみたいな威圧感もないし…。なんていうかその…、ちゃんと会話になるから」
「ん?どういう意味?」
「手嶋は俺が興味ない事でも、ずうっと喋り続けるし…。一回喋りだすと止まらないやつで」
「それもわかる。私が返事しないでも、一人で喋っている時ある…」
くすくすと笑うと、先輩はしばらく黙ってお弁当をもくもくと食べだした。俺も弁当を静かに食べた。
「お母さんが作ってくれるんだよね?」
先輩の弁当は小さくて、あっという間に食べ終え、蓋を閉めながら俺に聞いてきた。
「はい。先輩はもしかして手作り?」
「うん。たいしたもの作れないけど。お母さん、忙しくて朝早いの。うち、獣医をしているの。お父さんとお母さん、動物のお医者さんなのよ」
「へえ!」
「あれ?こういう話は好き?今、興味深々だよね?」
そしてまた、先輩はクスクスと笑った。
きっと先輩の家族のことだから興味があるんだろう。これが手嶋の家族のことだったら、ここまで興味を持たない。俺はこの機会にもっと先輩のことを知りたいと思っていた。




