心の闇と脳の腫瘍
残忍で凶暴な事件が起きた。
刀を持った男が、突然、ショッピングモールに現れ、何事かを叫びながら、その刀で買い物客などに切りつけ、十数人を殺傷したのだ。
三人が死亡、四人が重傷。軽傷で済んだ人間に関しても心の傷は深刻で、幼い子供には特にこれから充分なケアが必要だろうと思われた。
犯人は駆け付けた警察官によって取り押さえられたが、黙秘を続けており、何故そのような凶行に及んだのかは未だ不明だ。
やがて犯人の生い立ちなどがネットに出回るようになった。それによると、犯人は崩壊家庭に育っており、それが凶行の原因となったのではないかと言われるようになった。
父親は家族を顧みず、放蕩三昧の生活を続けていたらしい。母親はそんな父親に絶望したのか、犯人が中学生になる前に他に男をつくって逃げてしまった。
そのハンディキャップが原因かは分からないが、犯人にはストレスに弱いところがあり、おまけにコミュニケーション能力も低かった。にもかかわらず、犯人はプライドが高かったらしい。そして、そのプライドを満足させるだけの能力も地位も持ってはいなかった。
普通、立場に恵まれない人間がプライドを満足させる為には努力が必要だが、犯人には努力を行い続けるだけの忍耐力がなかったのである。
その為、犯人の理想と現実のギャップはどんどん開いていき、そのただれた生活の末に、遂にはそれは自身の許容可能な範囲を超え、そのような自暴自棄な行動となって現れてしまったのではないだろうか?
「“心の闇”ですね」と、テレビのコメンテーターが言った。
「不幸な家庭で生まれ育った犯人は、そこで生じた心の闇を乗り越えられなかったのでしょう」
なるほど、とその番組に出演していたタレント達は一斉に頷く。ただし、それはどことなく演技っぽく思えた。
“心の闇”
似たような事件が起こる際によく使われる常套句だが、果たしてそれは何かを説明しているのだろうか?
その場には、そんな疑問符を伴った空気が漂っているように思えなくもなかった。
そんなタイミングで、別の出演者の一人が言った。
「犯人の脳を検査してみた方が良いかもしれません。或いは腫瘍が見つかるかも。それと、できれば健康状態も。栄養に偏りがある可能性もあります」
その発言に他の出演者達はやや驚いたような顔を見せたが、取り立てて反論する事も同意する事もなかった。
――もし、それから何もなければ、その発言は膨大な量の情報の海の中に埋もれてしまっていたかもしれない。
しかし、それから状況が変わった。どんな切っ掛けで行われたかは分からないのだが、犯人の脳を検査したところ、本当に腫瘍が発見されたからだ。
そして犯人の栄養状態にも問題があった。
「非常にレアケースですが」
と、断ってから、脳を検査してみた方が良いとコメントしたタレントは続けた。
「問題行動を執る人間の脳に腫瘍が発見される事があるのですよ。そして、それを手術で取り除くと、その問題行動が治る……
僕が読んだ本の著者は、それを“因果関係”とまで述べていましたが、僕はもっと慎重であるべきだと思います。脳に腫瘍があっても、問題行動を執ったりしない人達もたくさんいますからね」
――それは、また同じテレビ番組でのことだった。
犯人の脳に腫瘍があると的中させたそのタレントは発言を求められ、再びそのテレビ番組に出演をしていたのだ。
自分の予想が当たったのだから、もっと不遜で誇らしげな様子を見せても良さそうに思えたが、そのタレントは何故かあまり浮かない表情だった。
まるで、自分の予想が外れていてくれた方が良かったと思っているようにすら見える。
その理由は、その次のコメントで明らかになった。
「生物学的な特性が、人間の性質にどれだけ影響を与えているのか。正直、それはよく分かりません。
しかし、もし、その主体性まで脅かす程の影響力があったと分かった場合、私達が社会を成り立たせる為に用いている“責任”という概念は一体どうなるのでしょう?
何をしても生物学的特性の所為。もし、そんな考えが跋扈したなら、それはそれで問題が生まれそうです。“責任”という社会的な道具は、私達社会を機能させる為に役に立っているのですから。
それに、それは生物学的な特性から、人間を判断してしまうというような悪習も生んでしまうかもしれない……。例えば、脳に腫瘍がある誰かを差別したり。一応断っておきますが、これは、生まれ育った環境を重要視し過ぎる場合でも同様です。崩壊家庭で育ったとしても、立派に生きている人達はたくさいるのですから」
もちろん……と、それからそのタレントは続ける。
「手術や健康管理で、犯罪を防げるのなら、それは被害者のみならず、犯人にとっても喜ばしい話でしょう。
生物学的な特性が、人間の行動に大きな影響を与える。
その事実を、私達社会はもっと上手く“使える”ようにならなければいけないのだと思います」
参考文献:暴力の解剖学 エイドリアン・レイン 紀伊國屋書店




