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「――三十五度四分」
計り終えた体温計は、そんな数字を出していた。熱でもあるのかと思ったが、その逆。
「低くない?」
「生まれつきなんです」
「そう、なんだ? まぁ、良かったじゃん。熱なくてさ」
「はいっ」
「じゃあ、俺はそろそろ行くから」
そう言って、立ち上がる。時計を見れば、もうすぐ一限目が終わりそう。それに、巴は不安そうな表情をする。
……はぁ。
「取りあえず、保険の先生呼んでから」
そう言って、俺は保険の先生がいつも座っている机を見渡した。そこにおいてある白い電話。前に一度だけ、ここから職員室に内線をかけているのを見たことがあった。
見れば『内線1』とラベルが貼ってある。受話器を上げて、番号を押すと、すぐに繋がった。
『――はい』
「ええっと、二年B組の七尾です。保健室に体調の悪い生徒を連れてきたんですけど、保険の中山先生がいなくてどーすりゃいいですかね?」
『……ちょ、ちょっとそこで待ってなさい』
それで受話器から保留の音楽が流れ出した。声からして現国の堀江先生だろう。上ずった声は、まさか生徒が内線でかけてくるなんて思わなかったからだと思う。いつのまにか保留音はなくなり、ツーツーと電話は切れていた。
そうやって待っていると、すぐに保険の中山先生が来てくれた。
「生徒が内線使ったって聞いて驚いたわ。七尾くんだったのね」
中山先生は、保険の先生だが美人で若いというわけじゃない。歳は三十を越えていて、丸い眼鏡と少しくせッ毛のある髪をした気の良いおばちゃんだ。そんな彼女は、少し俺を睨み付ける。
「だって中山先生いなかったし」
「職員室まで来てくれれば良かったのに」
「いやぁ、なんか動くの面倒臭くてさ」
「教師を呼び出す生徒なんて、あなたが初めてよ」
「うわぁお。中山先生の初めて奪っちゃった」
「……もう、そうやってからかって」
中山先生は、頭を掌で覆ってやれやれと首を振る。
「それで? 体調の悪い子って?」
「あの子……って、寝てなって言ったじゃん……」
巴は、またベッドの脇に立っていた。
「あの、ベッド勝手に使ってごめんなさい」
「それは別にいいのよ。それよりも、七尾くんに何かされなかった?」
「ひどくなぁい? 俺は善意で保健室に連れてきてやったのに」
「胸元が開いてるのは何故かしら?」
「うっわ。熱計っただけだって。なに、その俺が何かやったような視線」
「ふぅん……まぁ、良いわ。それで? 熱はあったの?」
「……なかったです」
「そう。クラスは?」
「一年A組の四宮……です」
「四宮さんね。もう少し休んでいく?」
「あっ……たぶん、もう大丈夫です」
「一人で教室に行ける?」
その質問に、巴は俺を見続けて黙っていた。……はいはい。
「俺が連れていきますよ。なんか、人見知り凄い子なんで」
「なら、頼むわね?」
それに適当な返事をした。支度をしてから「ほら行くぞ」なんて声をかけると、巴はとてとてと歩いてきた。それから保健室を出る。
全然感じなかったが、まだ季節は春になったばかりで、冬の残り風が少しだけ廊下には吹いていた。少し寒さを感じてポケットに両手を突っ込み一年A組を目指す。振り向いて見ると、巴は俺の制服の裾を指でしっかりとつまんでいた。
まるで子供だ。こんな子を教室に連れていったら、パニックでも起こすんじゃないかと思えてくる。
「巴さぁ、教室入ったら自己紹介とかちゃんとしろよ?」
「あっ、うん」
「初日だし、皆もだいたい緊張してるから、怖いのは巴だけしゃないし」
「……うん」
「……」
不安だ。この子……これまでどうしてきたんだろう?
「ちょっと練習してみそ?」
「練習?」
「教室入ったところから」
「あっ……」
すると、巴は見るからに固まってしまう。それから、俺の裾から手を放して、掌に人という字を書き始めた。書けば書くほどに彼女な緊張していき、どんどんと人を飲み込んでいく。
だから、俺は五度目の人の字で、その手を掴んで止めさせた。
「あうっ……」
「それ、逆効果だから止めた方がいいよ。それよりも深呼吸して」
言われるがまま巴は深呼吸をする巴。
「一言で良いから。四宮巴です。よろしくお願いします――はい」
「四宮……巴です。よろしくお願いします」
ぺこり。
「もう一度」
「四宮……巴です。よろしくお願いします」
ぺこり。
「最後、腹から声を出して!」
「四宮っっ、巴ですっ! よろしくお願いしますっっ!」
廊下に巴の声が響き渡って、それがあまりに閑散とした廊下に似合ってなくて、俺は思わず笑ってしまった。本気でやるかね普通。
「あの……もしかして意地悪しました?」
「いやぁ、ごめんごめん。つい」
少しだけムッとする巴は、初めて俺に怒った顔を見せた。
「まぁ、そんなもんでいいっしょ。あとあれだな? 最後に『それと是非チャンネル登録もお願いします』って付け加えると、友達増えるよ。今、動画閲覧を趣味にしてる女子多いから、だいたいそういう奴等が話しかけてくれる」
「……そうなんですね」
いや、そこは「私チューバーじゃないです!」って突っ込み入れるところなんだけどな……。
なにはともあれ、俺は教室に向かった。裾は再び掴まれていて、巴は独りブツブツと挨拶の練習をしている。
教室に向かう間、他のクラスの前を通ると初々しい一年生たちが、何事かとこちらを見ていた。それにはピースサインで応えてやる。
「――おい、七尾。お前何してる?」
そんなことをしていると、教室の扉がガラッと開いて男性教師が廊下に顔を出した。数学の相谷先生だ。
「先生こそ……。え? もしかして、今年の一年の担任なの?」
「お前……昨日の入学式で発表してただろ。それよりも何してる?」
「慈善事業ですよ。組織に追われている女の子をたった今救ってきたところです」
「なにを……。お前も上級生になるんだから、そろそろそういうのは卒業な」
「えぇー。やだやだ。一年生がいぃー」
「お前……もう良いから早くいけ」
呆れたように相谷先生は扉を閉めた。
「お兄ちゃん……先生たちとも仲が良いんですね……」
ポツリと呟かれた巴の言葉。
「あぁ、仲良くなる秘訣はね? 良い成績を維持することだよ。教師から、『ふざけていてもコイツは勉強してる』って思わせると、だいたい仲良くなれる。向こうだって出来れば生徒と仲良くしたいと思ってるはずだし、今わざわざ俺に話しかけてきたのだって、相谷先生の『俺は生徒と仲良いアピール』だから」
「お兄ちゃん……すごい……」
びっくりしたような巴。なんだよ、なんか普通に照れるな。
そんなこんなで着いた一年A組の教室。窓から覗いてみると、担任は英語の佐渡だった。当たりじゃん。
何故、今教室にいる教師たちがクラス担任だと分かるのか、それはどの教室の黒板にも、『委員長』だとか『副委員長』だとか、役決めの事柄が書いてあるからだ。新入生の初日は、授業がなく、そういったことに費やされていく。
クラスを目の前にしているからだろうか、裾を掴む力が強くなっていた。
だから、俺はノックもなく扉を開く。シンと静まり返る教室。誰もがこちらを見ていて、佐渡先生さえも少しビックリしていた。
「……さぁて。この学校伝統のかつあげのお時間だぁ。みんな財布を机の前にだせぇー」
「そんな伝統はないっっ!」
「痛っ」
名簿帳で頭を叩かれた。ないす突っ込み。
「なんだ七尾。初日から授業サボって指導されに来たのか?」
佐渡秋帆。英語の教師であり、この学校ではわりと人気のある女性教師だ。去年赴任してきたばかりらしく、最初は大人しくしていたようだが、男前な口調とハッキリとした性格に、今やマゾっ気のある男子生徒に人気がある。
「やだなぁ。サワちゃん冗談キツイよぉ」
「お前のその舐めたような態度は好ましく思わないな。別に今から指導してやっても良いが?」
「じょ、冗談ですって」
「……小物が」
ホント、睨み付ける視線がエグい。一体どうしたらこんな大人に育つのか。“サワちゃん”というのは、彼女の相性だ。他にも“サワりん”なんてのもあって、人気のある男子生徒諸君たちは結託し、『何人足りともサワりんに触れることを許さぬ』という『お触りん禁止令』が発令されていた。これに関してはどーでもいい。
「それで何の用だ?」
「あぁ、このクラスの子を連れてきました。体調悪そうだったんで、保険室に行ってたんです」
「なるほど……」
サワちゃんが開いた教室の扉を覗いて、そこに立ち尽くす巴を見つけた。
「あぁ、四宮巴だな? 来ていないから、親御さんに連絡しようと思ってたんだ。入ってきなさい」
それに、しずしずと彼女は入ってきた。見るが良い男子諸君。これぞ我が自慢の妹である。
気持ちはすっかりお兄ちゃん。巴は、そのまま入ってくると、深呼吸をして、大きめの声を出した。
「しっ、四宮巴です! よろしくお願いします! それと、チャンネル登録もよろしくお願いします!」
ペシッ、とサワちゃんに叩かれた。
「よく……俺の入れ知恵って分かりましたね……」
「お前以外に誰がいる?」
教室の所々から「えっ? チューバ?」「チューバなの?」なんて聞こえてくる。
本気でやるとは思わなかった。つか、考えれば冗談って普通分かるでしょ。巴の天然っぷりは底がしれない。
「四宮。挨拶はまた後で良いから、そこの席につきなさい」
「あっ……はい」
耳まで真っ赤にして巴はいそいそと席に着いた。そうして俺はようやく解放される。
チラッと窓から見れば、巴は隣の女子に何か話をされていた。たぶんチューバなのかどうかを聞かれているのだろう。なんだかんだ、上手く溶け込めそうだ。
それに安堵してしまった自分がいて――そのことに、俺は笑ってしまいそうになる。
なにやってんだよ……俺。
彼女が泣き出すような未来を楽しもうとしていたのに、何故かその逆の事を施してしまった。
いや、違うな。
それから思い直した。
これはあくまでも過程なんだ。彼女を食べ頃にするための……むくむくと太らせる為の……過程。そうやって程よく育ったところで、ドン底に叩きのめすんだ。
それを俺が楽しむ。
俺は最低な人間だ。最低だからこそ見下される。見下されて当然の人間だからこそ、馬鹿をやれた。
怖いモノなどなにもなかった。怖いのは自分自身だったから。
だから。
「――がんばれよ」
校門の前で立ち尽くしていた女の子を、どうしていいかわからなくなっていた彼女を、今だけは温かく見守ってやることにした。
あの日、母さんの電話で兄の事故の事を知った俺は……ただ立ち尽くすことしか出来なかったから。
頭の中で、兄の無事を祈りながら、卑しくも最悪の事態に備えてあれよこれよと言い訳を考えていた。
兄とした喧嘩が激しいものだったことを証明するために、包丁で自分の腕を傷つけてみて、流れ出す血の量に恐怖した。家の中を歩き回っては、泣き出したい気持ちを抑え込んだ。
病院で医者から兄の死を告げられた時、母さんも父さんも泣き崩れたが、俺は泣いてはいけない気がした。
あの日から、俺の涙は枯れ果てた。自分は人間じゃないのだと思った。
人間じゃなく、何か得体のしれない鬼のような化け物になった気がした。
鬼とは、元来人を喰う化け物だ。
だから、俺は人を喰いたいのだろう。文字などではなく、正真正銘の人を。
そうやっていれば、俺はいつか地獄に落ちることが出来る気がしたんだ。
注文の多い料理店を読み返してたら、ふと思い立った話。
あの化け猫たちが、人間に愛着を持ってしまったらどうなったんだろうと思ってしまった。
クチャクチャのハンカチは、彼らの末路の比喩。だけど、それを引き伸ばしたら、なんとなく温かい物語にもなるような気がした。